『変わらない事と変わった事』

 2学期の終業式を明日に控えた放課後、僕は近所の神社のベンチに座り、菜花さんを待ちながら彼女に読ませるために書いた小説を確認していた。

 ……とは言っても、菜花さんがここに来てくれるかは分からない。

 【いきなりでごめん。菜花さんに話したいことがあるんだ。神社で待っているから、来て欲しい】とメッセージを送ったのは放課後になってすぐのつい先程の事であり、メッセージに既読は付きつつも、返信は返ってこなかったからだ。

 ……そういう態度をとられてしまうのも、無理のない話だと思う。それだけのことを僕はした。

 それに約1ヶ月間もの間、僕たちの間に一切の会話が無かったのに、いきなり会いたいだなんて迷惑な話だし、そもそも本来なら話がしたいと思っている僕が菜花さんの家に出向くべきなのに、わざわざ彼女を呼び出していて……まぁ、それは菜花さんが僕に会いたくないなら来なくてもいいという僕なりの配慮なわけだけど……菜花さんには伝わっているだろうか? 伝わっていなかったら、僕はただの失礼な奴だよなぁ……いや、伝わっていたとしても、僕が自分勝手な奴になるだけか……。

 そんな自分を嘲笑しながら、僕はスマホに表示されている時刻に目を向ける。

 午後4時18分。もし菜花さんがここに来ないと決めているとしたら、僕もずっとここで待っている訳にはいかない。母さんが家に帰ってきて、夕飯を作り終える時間はだいたい午後7時頃だから、午後6時30分までに菜花さんが来なかったら家に帰ろう。

 そう決めて顔を上げると、いつからそこにいたのか、すぐ目の前に人が立っていて――


「うわっ⁈」


 僕はびっくりしすぎて、手に持っていたスマホを落としてしまった。

 スマホは嫌な音を立てながら地面を跳ね、目の前に立っている人物の足元で止まる。


「あーあっ、もう……大切なものなんだからさ、ちゃんと持ってなきゃダメじゃん」


 ――僕はきっと心のどこかでは諦めていたんだろう。来てくれるはずがないって。

 スマホを拾い上げるその人が待っていた人だと気付いた瞬間、ぐっと涙が込み上げてきて……僕は堪え切ることが出来なかった。


「どうして泣いているの?」


「……小説を読んでいたんだ。自然と涙が溢れてしまうほど感動する小説をさ」


「ふぅん。そうなんだ。小説を書いてたんじゃなくて?」


「そんな訳ないだろ。自分が書いた小説で泣くやつがいるか」


「そうかなぁ? 少なくとも私は1人知ってるよ。小説を書きながら泣いていた人。まっ、その人は自分が書いた小説で感動して泣いていたわけじゃないけどね」


 菜花さんは微笑みながら僕の隣に座り、スマホを僕に差し出した。

 僕はそれを受け取ろうと手を伸ばす。が、あることに気付いて僕は伸ばしていた手を止めた。

 菜花さんは冬だというのに薄っすらと顔に汗を浮かべていて、小さく肩で息をしている。

 それは菜花さんが走ってここまで来た証だった。


「……そんなに急がなくても良かったのに」


「そりゃあ急ぐでしょ。だって、四葩君の方からメッセージが送られてきたのはこれが初めてだったんだもん。急がなきゃって思って、全速力で走ってきたんだから」


 菜花さんは両手で顔をパタパタと扇ぎ、はにかんで言った。

 僕はそんな菜花さんを見ていて、彼女は本当に凄い人だなぁと思った。

 それは菜花さんが僕のためにわざわざ走ってきてくれたことに対してではない。……いや、まぁ、それもあるっちゃあるけど。

 僕が菜花さんの凄いと思ったところは、僕たちが最後に会話をした時は険悪な感じで別れ、それから1ヶ月も話していないのに、そんなのお構いなしにこれまで通りに僕と接してくれているところだ。

 正直に言うと僕は、これまでと同じように菜花さんと接する自信はなかった。

 友人が少ない僕は誰かとちゃんと喧嘩をしたことがなくて……仲直りの仕方が分からなかった。

 だけど、菜花さんのおかげで僕も彼女とわだかまりを感じずに会話をすることが出来ている。

 

「ところでなんだけど、そろそろスマホを受け取って欲しいなぁ……なんて」


「あっ、ごめん。……あー、でも菜花さんが持っていた方が……いや、やっぱり返して」


「ふふっ。何それ」


 どうせ小説を菜花さんに読ませるので、彼女がスマホを持っていてもよかったのだが……菜花さんが来てくれたら、小説を見せるよりも先にやるべき事を決めていたので、僕は菜花さんからスマホを受け取った。


「それで? 四葩君の話したいことって?」


 そう催促する菜花さんの目は期待で輝いていた。

 ……そんな菜花さんには申し訳ないけど、これから僕がしようとしていることは、きっと菜花さんの期待を裏切ってしまう行為だろう。

 それは今の僕たちにはもう必要のないことなのかもしれない。

 このまま書いた小説を菜花さんに見せるだけで、全てが丸く収まるのかもしれない。

 それでも僕は、自分が菜花さんを傷付けてしまった事実をなかったことにはしたくなくって、あの出来事にちゃんと一区切りを付けたくて――だから僕は、菜花さんに頭を下げた。 


「この前はごめん!」


 唐突な僕の謝罪に、この場の雰囲気がガラリと一変したのを感じた。

 菜花さんの顔は見えなくとも、動揺の色がはっきりと伝わる。

 僕は頭を上げず、そのまま言葉を続けた。


「菜花さんの体にはもう癌は無いのに、僕が見せた反応は菜花さんを傷付ける行為そのものだった。話したくないことだったはずなのに、僕は自分の気持ちを優先して色々な話をさせてしまった。あの時のことずっと謝らなくちゃと思っていたんだけど……1ヶ月も経った今になってしまって本当にごめん」


 僕は頭を下げたまま、祈るようにギュッと目を瞑り、菜花さんからの言葉を待つ。

 1秒、2秒、3秒――と時間が経っていく中で、僕の不安と緊張は段々と増していく。

 長い長い沈黙。それに耐えきれなくなった僕は薄目を開き、菜花さんの様子を確認しようとしたのだが……ほぼそれと同時に菜花さんは口を開いた。

 

「……顔を上げて」


 発せられたその声は涙混じりだった。

 驚いて顔を上げた僕の目に写ったのは、先程までの笑顔とはうって変わって涙を流す菜花さんの姿で、予想してなかった表情に僕は慌てふためく。

 僕が謝ることで菜花さんがするであろう行動は、笑って僕を許してくれるか、許さずに冷たく僕を突き放すかの2つだけだと決めつけていた。

 まさか泣かせることになるなんて思いもしていなかった。

 癌の話をされることを嫌う菜花さんにとって、僕のあの謝罪もそれに含まれていたのかもしれない。


「ごめん! ……って、謝るだけじゃ駄目だよな。菜花さんが僕を許せないというのなら、菜花さんが許してくれるまで僕はなんだってするから」


「ち、違うの。四葩君が許せなくて、泣いてるわけじゃないの。四葩君は何も悪くないのに、本当は私の方が謝らなくちゃいけないのに……」


「……そんなことない。全部僕が悪かったんだ。本当はあの時に菜花さんとちゃんと話をするべきだったのに……僕は逃げ出した」


「ううん。四葩君はちゃんと私のことを考えてくれてたよ。なのに私は答えを急かして、終いには追い出すようなことを言った。それにね……四葩君は謝ったのに、私はあの時のことをなかったことにしようとしてたの。ごめんねも言わないまま、これからも四葩君と仲良くしようとしていた私は……ただの卑怯者で……」


 気持ちがいっぱいいっぱいになってしまったのか、菜花さんの言葉はそれ以上は続かなかった。

 菜花さんは幼い子どもみたいにぼろぼろと涙を流して、それを何度も何度も拭っている。

 そんな菜花さんを見ていて……僕はなんて馬鹿なんだろう、と思った。

 僕はまた菜花さんに勝手な人物像を押し付けていた。

 菜花さんは物語の主人公でもなければヒーローでもない。僕と同じ1人の人間で、どこにでもいる1人の女の子だ。

 僕が今日菜花さんと会うのに気不味さや恐怖を感じていたように、きっと彼女も僕と同じ気持ちを抱えていたのかもしれない。だけど、それを隠して菜花さんはいつものように振る舞っていた。

 菜花さんはそんな自身を卑怯者だと罵っていたけど、僕はそうは思わない。

 それは菜花さんの強さであり、優しさでもあって、僕は彼女のそういうところにいつもいつも救われていて――それに気付いた時、僕もまた涙を溢していた。

 ……あぁ、このままじゃ駄目だ。元通りに戻るだけじゃ駄目なんだ。

 僕は変わりたい。何の取り柄もない僕如きが菜花さんみたいにはなれやしないだろうけど、それでもせめて彼女の隣に居ても恥ずかしくないような、そんな在り方を僕はしたい。

 

「……僕たちはあの時お互いを傷付けあった。それだけは確かなことで、どっちが悪いとか、自分だけが悪いとか、本当はそんな話なんてどうでもよかったんだ。僕たちがしないといけないことはさ、お互いを許し合うことなんじゃないかな? あの時に出来なかった話し合いをちゃんとここでしよう」


 そう言って僕は笑う。笑ったつもりだった。けど、涙はまだ溢れていて、僕はきっと上手くは笑えていなくて、到底人に見せられたものではない汚い顔をしていたのかもしれない。

 そんな僕を見て菜花さんは笑った。だけど彼女の顔もまた涙でぐちゃぐちゃに濡れていて、酷い有様だった。

 僕たちはそれから沢山の言葉を交わした。

 あの時に自分が何が嫌で、何に傷付いて、何を想っていたのか。

 僕は菜花さんに、なんの心の準備も無しに菜花さんが病気だったことを知って不安に陥ってしまったこと。その病気がよく知るもので、不安がさらに大きくなったこと。入ってくる情報量の多さに脳が処理しきれなくて、『これからも私の小説を書いてくれる?』という菜花さんの質問に答えることが出来なかったこと。もう一緒にいる意味はないと、突き放されるようなことを言われて傷付いたことを伝えた。

 菜花さんは僕に、手術後に向けられた気遣いや優しさを僕から向けられてしまうのが怖くなったこと。普段よりも口数が少なく、眉間にシワを寄せて俯く僕を見て、僕が怒っていると思ったこと。写真を消してもう一緒にいる意味はないと言った後、僕がすぐに帰ってしまい、たったの写真1枚だけが自分たちの関係を繋いでいたことを思い知らされて、とても悲しかったことを伝えた。

 自分が嫌な想いをしたことを直接相手に伝えるのは、想像していたよりもずっと勇気がいる行為だった。それはきっと菜花さんも同じだったと思う。

 自分を傷付けながら、相手を傷付ける。

 冗談や嘘の無い真剣な話し合いは心に負担をかけて、それでもその話し合いはこれからの僕たちには必要なもので、けれど僕たちはやっぱり泣いていて、最後は互いに「ごめんなさい」と謝り、そして「いいよ」と許し合った。

 菜花さんは「えへへっ」と嬉しそうに笑みを溢す。

 その顔は涙やら鼻水やらで汚れていて、綺麗な顔とは口が裂けても言えなかったが、いい表情だなぁ、と僕は思った。

 だから、僕もつい笑みを溢した。

 その僕の顔もきっとぐしゃぐしゃで、菜花さんはまた笑顔を輝かせる。

 少し気持ちが落ち着き、この状況がなんだかむず痒くて恥ずかしいと感じた僕は、この感情を濁す為に空を見上げた。

 冬の日が落ちる時間は他の季節よりも早く、まだ午後の5時前だというのに空は茜色に染まっている。

 見慣れているはずの夕暮れ。だけどそれは美しい景色だった。

 今見ている空が実際にいつもよりも綺麗なのか、それとも、菜花さんと仲直りが出来た僕の気持ちが空をそういうふうに見せているのか。そのどちらかは分からないけど、美しいと感じたこの気持ちだけは確かだった。


「綺麗だね……」


 隣に座っている菜花さんもいつの間にか空を見上げていて、目を細めてそう呟いた。そして――


「このまま……消えてしまいたいな……」


 と、言葉を続けた。

 僕は前のように驚くこともなければ、菜花さんを心配することもしない。

 菜花さんが今この瞬間を本当に幸せに感じているからこそ、そう言ったことを知っていたから。


「僕も同じ気持ちだ」


 思わずポツリと口から出てしまった言葉に、菜花さんは大きな爆発音でも鳴ったのかというぐらいの勢いでこちらを向き、赤く腫らした目を丸くさせていた。

 これからの展開が予想出来た僕は慌ててスマホをポケットから取り出し、菜花さんに読ませるための小説を準備する。

 次に菜花さんの方に視線を向けた時にはもう彼女の表情は変わっていて、案の定ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。


「えー? なになに? 今のどういうこと?」


「別に大した意味はないよ。景色が綺麗っていうのに同感しただけ。そんなことよりもさ、見て欲しいものがあるんだけど」


 面倒なことになるよりも前に僕は菜花さんにスマホを差し出す。

 3度目にもなれば僕のその行動がいったい何を意味するのか菜花さんは分かっていたようで、彼女の表情からすっと笑みが抜けた。

 そこに残ったのは困惑の色だけだった。


「これって私のことを書いた小説……だよね? どうして……」


「ここで菜花さんとした約束をまだ守っていなかったから」


「でも、写真は消えたんだよ? 四葩君からしたら、もう書く必要なんてないじゃん……」


「菜花さんが勝手に写真を消してしまったんだろ? 前にも言ったけど、書くって決めた以上、中途半端なものを創りたくはなかったからさ。完成させたから読んで欲しいんだ」


 僕は半ば強引にスマホを菜花さんに渡す。

 スマホを受け取った菜花さんは一旦スマホに目を向けはしたものの、すぐに僕の方に視線を戻し、緩やかに顔を綻ばせた。


「酷いなぁ」


 突然浴びせられた表情と一致してない罵倒。

 予想だにしてなかった言葉に自分の耳を疑いながらも「え? な、何が?」と取り乱す僕を見て、菜花さんは今度は楽しそうに声を出して笑う。


「書いてくれる? って聞いた時には黙っていたくせにちゃんと書いてくれてたんじゃん。あーあっ、早く言って欲しかったなぁ。それなら1ヶ月近く悩むこともなかったし、もっと早く仲直りできていたかもしれないのに」


「それはお互い様だろ。ていうか、また書き始めたのは1週間前からで、僕だってその間ずっと悩んでいたんだからな。……ってそんなことより、とりあえず小説を読んでみてくれ。結構長く書いてしまって、読むのにかなり時間がかかると思うから」


「うわっ、本当だ。9本もあるじゃん。これってどれから読み始めればいいの?」


「1番下から順番に。『きっかけとクラスメイト』とその他にも読んだやつがあると思うけど、修正と加筆をしているからそれを含めて全部」


「ん、分かった。……けどこれってもしかして前と同じで1本1万文字? 9万文字ということは……原稿用紙225枚分もあるってこと?」


「いいや。全部で大体10万文字」


「じゅ、えっ? じゅじゅじゅう⁈ 10万っ⁈ ……書いて欲しいと頼んだ身でこう言うのはあれだけど……もっと有意義な時間の使い方とかあったんじゃないの? ネットに投稿している小説を頑張るとかさ。それにしても10万って……えぇ……」


 そう言っている言葉だけで見ると引いているように見えることを言いながらも、菜花さんの表情は緩んでいてふにゃけた顔をしていた。


「うるさいな。ほら、さっさと読んで」


「急かされなくてもちゃんと読むって。なんたって私に読ませるためだけに、四葩君がこんなにも頑張ってくれたんだもん。そう、私のためだけに……ふふっ、10万」


「早く。日が暮れて真っ暗になる前に」


「はいはい。分かりましたよー」


 菜花さんはそう言って、やっと小説を読み始めた。

 人が変わったように表情を真剣なものに変えて、菜花さんは小説を読み進めていく。

 『きっかけとクラスメイト』、『人気者と日陰者』、『書き手と読者』、『夕焼けと共に』、『小さな勇気と大きな成果』、『趣味と夢』、『隠し事と約束』、『戻った時間と空いた心』、『菜の花と紫陽花』の計9つからなる菜花さんのためだけに書いた約10万文字の小説。

 それを読むのにはまあまあな時間が掛かると思うし、その間ずっと菜花さんを眺めているという訳にもいかないので、僕は学校の鞄に入れていた読みかけの小説を取り出して、続きから読み始める。

 好きな相手と2人並んで本を読んでいる今のこの時間はとても幸せで――なんて気持ちはこれっぽっちもなかった。

 なんせプロポーズと言っても過言ではない小説を隣で読まれているのだから気が気ではないし、自分の方の読書に全然集中出来なければ、菜花さんの反応が気になって仕方がなかった。

 しかし、どんな反応を見せてくれるんだろうという好奇心よりも、告白に対する返答への恐怖心が勝ってしまって、僕は目の前に広がる文字を目で追い続けた。

 ……文章を見る、という行為をしているだけで読んでいる小説の内容が全く頭に入ってこない。

 時折り隣から聞こえる笑い声だったり鼻を啜ったりなどの些細な音が、小説に向けているボロボロな集中力を更に欠落させていく。

 それでも僕はやっぱり菜花さんの反応を見ることが出来なくて、ただひたすらに文字を目で追い続けた。

 僕が最後のページを捲り終えた頃には日はすっかりと落ち、ベンチ横にある外灯の薄明るい白い光だけが僕たちを淡く照らしていた。

 無理矢理読んだ小説の内容は当然覚えてなんていなくて、また読み直さなくちゃいけないなぁ、なんてことを漠然と思いながら僕は鞄に小説をしまう。

 もう菜花さんも僕の書いた小説を読み終えた頃だろうか?

 ふとそう思った瞬間、いきなり自分の心臓が隣の菜花さんにまで聞こえてしまうのではないかと思うくらい、激しく音を立てて暴れ出した。

 向ける行き場を失くしてしまった視線を、僕は一旦空に向ける。

 これで気持ちが少しでも落ち着けば、なんて浅はかな考えで見た星空は僕に何ももたらしてはくれない。

 告白をするのだから、それなりの心の準備はしてきたはずだった。

 でも、それを嘲笑うかのように、今までに味わったことのない不安感や緊張感が、骨と皮膚を突き破って飛び出してしまうのではないかと思わせるくらい僕の心臓を跳ねさせている。

 バレないように静かに何度か深呼吸をするも、早鐘を打つ心臓は一向に鎮まろうとしない。けれど、頭でものを考える余裕を少しだけ持つことが出来た。

 さっきは菜花さんも小説を読み終わった頃だろうかと思ったけど、きっとまだ菜花さんは小説を読んでいる最中だろう。

 もし小説を読み終わっているのなら、僕が小説を鞄にしまった時点で僕に声をかけるはずだ。

 ……いや、待てよ。僕がこうして色々と考えて菜花さんの方を向けれないように、あっちも色々と考え込んでいて、僕に話しかけるタイミングを計っているのかも。

 もしそうだとしたら……僕はいったいどうすればいいんだ?

 告白をした側なのだから、ここは男らしく僕から告白の返事を聞く……と言ってしまうのは簡単だが、勇気がなくて菜花さんの方さえも向けていないのが今の僕の現状だ。

 そんな僕が自分から返事を聞くだなんて……とか、そんなことを今更ウダウダと悩んでいる場合じゃないよな……。

 自分があの小説を書いて、菜花さんに読ませると決めたのだから、いい加減覚悟を決めなければ。

 それにもう菜花さんに読ませているのだから、後戻りはもう出来やしないのだ。

 さぁ、向くぞ。そして向いたらすぐに告白の返事を聞いてやる。と、そう自分を奮い立たせて――僕はチラリと横目で菜花さんの様子を確認した。


「……」


 視界に映った予想もしていなかった光景に僕は息を呑んだ。言葉は出てこなかった。

 菜花さんは僕の書いた小説を読みながら静かに泣いていた。

 人は泣く時に怒りだったり、悲しみだったり、喜びだったり、そういった感情を表情に出して泣くものなのに、菜花さんの表情からは感情が見つからなかった。

 葉に溜まった雫が溢れるように、菜花さんの瞳に溜まった涙が瞬きをする度に溢れ、頬を伝ってゆっくりと流れていく。

 その姿はまさに『自然と涙が溢れる』という言葉を体現していた。

 そんな菜花さんをしばらく眺めていて、僕はあることに気付いた。

 僕の小説は横読みなので、読む時は指を下から上に向けてスワイプさせるはずなのに、菜花さんは指を上から下に向けてスワイプさせていた。

 つまりそれは、菜花さんが僕の小説を読み返している、ということを意味していた。

 ある程度下までいくと、上に戻って、またある程度下にいくと、上に戻ってを繰り返し、菜花さんは同じところを何度も何度も読み返していた。


「あっ、ごめんごめん。待たせちゃった?」


 見られていることに気付いた菜花さんはそう言って慌てた様子で涙を拭い、僕にスマホを返す。


「待ってないし、時間はいくらでも掛けてくれていいんだけど……最後までちゃんと読んでくれたんだよね?」


「うん、もちろん。夢中になり過ぎてあっという間に時間が経っちゃった。やっぱり四葩君は凄いね。約束守ってくれてありがとう」


「……えっと……それだけ?」


「えー、なにー? 感想が足りないってこと? 四葩君ってば欲しがりだなぁ。とても面白くって、とても感動しました。以上!」


「……他には?」


 ここまで来ても、僕は未だに臆病風に吹かれていて、聞きたいことを遠回りでしか聞けない。

 だけど、菜花さんは僕が何を聞きたいかをちゃんと分かっていたようで、僕に微笑み返した。

 でも、それはいつものような明るい笑みではなくて、今にも消え入りそうな儚げな微笑みだった。


「四葩君の気持ち、すっごく嬉しいよ。……でも、ごめんね」


 ごめんね――その言葉が耳に届いた瞬間、脳を直接掴まれて揺さぶられたような衝撃が僕を襲った。

 ……あっ、でも、無理ですと言われたわけではないし、続く言葉によってはまだ可能性は――


「四葩君とは付き合えない」


 …………どう変換しても言葉通りにしか受け取れないはっきりとした否定に、今にも爆発してしまいそうなぐらい動いていた心臓が止まってしまったみたいに静まり返る。

 ……まぁ、そりゃあそうだよな。何の取り柄もない僕からしてみれば、菜花さんは高嶺の花だ。断られるのなんて当然のこと。

 9割9分付き合えないんだろうなぁとは思ってはいたけど、1分ぐらいは望みがあってもいいんじゃないかなぁとも思っていたが、そんな一筋の希望さえも実際はなかったのだろう。

 ……強がって嘘を吐いた。本当は1割ぐらいの可能性はあるんじゃないかと思ってた。

 だって仕方ないだろ? これまでの菜花さんの言動と涙を流しながら何度も繰り返して僕の小説を読んでいた姿を見れば、少しぐらいの希望があると思うのも無理のない話じゃないか。

 キッパリと断られてしまった今では、勘違いも甚だしいたりゃありゃしないけど……。

 あぁ、本当……何を1人で勝手に盛り上がっていたんだろう。

 っていうか10万文字の小説ってなんだ? 下手をすれば単行本1冊分ぐらいの文字数はあるんじゃないか?

 たった1人に読ませるために単行本1冊分……よくよく考えてみると重過ぎるな……。

 はっ⁉︎ もしかして、それで冷めたとか? さっき小説を読みながら泣いていたのも、キモすぎて怖くなったからか? 何度も何度も読み返していたのは、これが何かの間違いであってほしいと、そう願っていたからなのか? 

 ……って、こんなこと考えてる場合じゃないな。せっかく告白の返事を返してくれたのに僕が何も言わないと菜花さんも気不味いだろうし、何か言わないと。


「なんかごめん。いきなりこんなこと伝えられても困るよな。しかも仲直りした直後に伝えられても……って、それはあまり関係ないか。無理なもんはいつ伝えられても無理だろうし。……あっ、断れるの前提での告白だったし、僕は全然傷ついていないから……菜花さんも全然気負わなくていいから」


 ペラペラと口は動くものの、まだ頭は現実を受け止めきれていないのか、自分が何を言っているのか分からない。

 口を開けば開くほどみっともない姿を晒していることは分かってはいるんだけど、それでも喋り続ける口は止まらなかった。


「好意を持たれるのが迷惑だって言うなら……キッパリと諦める。だから……これからも……友達でいてくれたら、それで……いいから…………」


 見栄を張って泣かないように頑張っていたけど、もう駄目だった。

 あー、本当に無様だ。

 今すぐにでもこの場から逃げ出し、大声を上げて泣き喚きながら、どこまでも走ってしまいたかった。


「こんな遅くまで時間取らせてしまってほんとごめん……。もう周りも真っ暗だし、家まで送る……のは逆に迷惑か? ……あー、でも、夜道は危ないし……」


 ごちゃごちゃとした感情と思考で揺れている頭は全く働かなくて、自分がいったい何をしたいのか分からない。

 これ以上菜花さんと一緒にいるのは辛くて、誰もいない所で1人で泣きたくって、でも、菜花さんが大切な人であることには変わりはなくって……僕はどうすればいいんだろう? フラれた後ってどう立ち回るのが正解なんだ?

 そんなことを考えながら頭を抱えていると、隣から「ふふっ」と笑いの漏れた声が聞こえた。

 驚いて菜花さんの方を見ると、告白の返事をしてから一切喋っていなかった彼女は、口元を手で押さえながらプルプルと小刻みに震えていた。


「ご、ごめんごめん。ちょっとだけ意地悪しちゃった。まさかそんなに落ち込むなんて思ってなくて」


 笑顔を浮かべながらそう言った菜花さんを、僕はポカンと呆気に取られながら見つめる。

 ちょっとだけ意地悪しちゃった、というのは何のことだ?

 もしかしてさっきの告白に対する返事のことか?

 冗談であったとしても、人が一生懸命な想いで伝えた告白を断るというのは、いけない事だと思う。でもそんなことよりも、さっきのが冗談であった可能性がある方が嬉しくって、また胸が高鳴った。


「それじゃあ、さっきの付き合えないっていうのは」


「それは本当だよ」


 即答で返された無慈悲な言葉に僕はガックリと肩を落とす。

 ちょっとした希望を見せられてしまったがゆえに、心のダメージは1回目に断られた時よりも遥かに大きかった。

 だけど、2回目というのもあってか、物を考えて話せるぐらいの心の余裕が少しばかりはあった。

 

「じゃあ、意地悪っていうのはいったい何のこと?」


 僕のその質問に、菜花さんは何やら両手の人差し指をモジモジとさせながら視線を左右に動かす。


「四葩君とは付き合えないって言ったけどね、それは今は付き合えないってことであってですね……」


「……えっと、つまりはもっと仲良くなってからなら、付き合える可能性があるってこと?」


「う〜んと、そういう事じゃなくて……私は四葩君と付き合うのが嫌だから付き合えないって言ってるわけじゃないの。あのー、そのー……告白の返事を待ってほしいなぁ、って思ってるんだけど……」


「え? ま、待つよ! 全然待つ! いくらでも待つ! 1週間だろうと1ヶ月だろうと!」


 情けないとか、みっともないとか、もうそんなことなんてどうでも良かった。

 再び見えた希望に僕は全力で縋りにいく。

 そんな姿勢を前面に出した僕の反応に、菜花さんは苦笑いのような、困っているとも取れるような、複雑な表情を浮かべていた。


「それじゃあ……2年、待ってくれる?」


「……はっ? え? に、2年?」


 菜花さんの提示した想像していたよりも長い月日に、何かの聞き間違いじゃないのかと、僕は自分の耳を疑った。

 いくら遅くとも高校を卒業するまでには返事をもらえるだろうと、そう思っていたからだ。

 2年……待とうと思えば全然待てるが、それだけの月日を待たないといけない理由は何なのか?

 どうして? と僕は菜花さんに聞こうとする。でも、聞けなかった。

 2年――菜花さんの提示したその月日がいったい何を意味するのか、途中でそれに気付いてしまったから。


「本当に自分勝手だよね……人にはあれだけ気にしてほしくはないくせに、なんだかんだで私が1番気にしてる……」


 僕が2年待たないといけない理由に気付いたことを菜花さんも気付いたようで、彼女は視線を俯きがちに落とし、言葉を続ける。

 

「付き合っている時に癌が再発してしまったら、きっと四葩君に色々と迷惑をかけちゃう。四葩君は優しいから、私のことを沢山心配してくれて、めいいっぱい悲しんでくれて、私のためにすごく頑張ってくれると思うの。その可能性がある以上、私は四葩君とは付き合えない。だから、完治するまでの残り2年を待って欲しい」


 菜花さんは僕と視線を合わせないまま、祈るように両手をギュッと握り合わせた。

 その菜花さんの表情は険しかった。目と、唇と、肩が小刻みに震えていた。


「四葩君は待って貰う側だから、他の人を好きになったらその時はそっちを選んでくれてもいいよ。……ていうか普通待てないよね。2年とか、どれだけ待たせるんだって話だよね」


 菜花さんはそう言ってからやっと僕の顔を見て――笑った。

 無理をして作ったとすぐに分かる、そんな笑顔だった。

 僕は菜花さんのその表情に、さっきの『他の人を好きになったら』という言葉に、信用をしてもらえていない自分に、無性に腹が立った。


「誰かを好きになる訳ないだろ……」


「えっ?」


「僕の気持ちを勝手に決めつけるなよ。どれだけ僕が菜花さんのことを好きだって思ってる? 2年なんてあっという間だ。その時間で誰かを好きになってしまうようなその程度の想いだったら、初めっから菜花さんに告白なんてしやしなかった」


 そう言いながら、僕は泣きそうになった。

 自分が思っていた以上に菜花さんのことが好きだったことを、今更ながらに自覚してしまったから。

 菜花さんを好きになるまで、僕は自分みたいな普通以下の人間が誰かに好意を持ったら駄目だとずっと思っていた。

 僕みたいな人間に好かれたところで、相手に迷惑をかけてしまうだけだと。好きになってしまった人を困らせるくらいなら、元々好きになんてならなかったらいいって、そうやって誰かを好きにならないための言い訳を沢山自分に言い聞かせてきた。

 でも、僕は気付いていたんだ。それは自分にとって都合のいい理由を付けているだけだということに。

 誰かに好意を持ったら駄目? 好きになってしまった人を困らせるくらいなら、元々好きになんてならなかったらいい? 

 そうじゃないだろ? 

 本当は僕みたいな普通以下の人間が誰かに好かれるわけがないから、誰かを好きになったとしてもフラれることが分かっているから、自分が傷付くのが怖いから、誰かを好きになれなかっただけ。

 僕はただの臆病者だ。だけど、そんな自分でも、気持ちを伝えたいと想えるような相手にやっと巡り会えたんだ。

 菜花さんにこのまま気持ちを伝えないで友達のままで終わってしまえば、きっと後悔すると思った。

 誰かと付き合っている菜花さんを想像したら、胸が締め付けられたみたいに苦しくなった。

 色々な色を見せながら笑う菜花さんと、いつまでもずっと一緒に居たいと想った。

 迷惑をかけることになったとしても、フラれることになったとしても、自分が傷付くことになったとしても、どうしてもこの気持ちを菜花さんに伝えたかった。

 だから、僕は勇気を出して告白したんだ。


「宣言してやる。2年が経ったとしても、絶対に僕は菜花さんのことが好きだ」


 そう言い切った瞬間、自分の目からぼろっと涙が溢れた。

 この一時だけでも気張って我慢すれば少しは格好が付いただろうに、結局は格好の付かない不恰好なところが、いかにも自分らしいと思った。

 そんな僕を見て、菜花さんは笑顔を咲かせる。

 それはさっきの作り物の笑顔とは違った。

 いつものような、明るくて眩しい笑顔だった。


「そっかぁ。それじゃあ、待ってくれる……ってことでいいんだよね?」


 菜花さんのその質問に、今すぐにでも付き合いたい、と本当は言ってしまいたかった。

 だけど、僕は菜花さんの意思を尊重することにした。

 それはきっと、菜花さんの病気が完治するのを信じるのと、同じことだと思ったから。


「うん、待つよ。そして2年後、また菜花さんに告白する」


 涙で濡れた目元を拭い、僕は今の自分が出来る最高の笑顔で笑う。笑ってみせたつもりだ。でも自分のことだから、ちゃんと笑えているのか分からない。

 ……いや、僕はきっと上手く笑えていたのだろう。

 菜花さんもまた、さっきよりも弾けた笑顔で僕に笑い返してくれたから。


「それにしてもさぁ、四葩君ってば私のこと好きすぎでしょ。あとあと後悔しても知らないよ? あの時あんなことを言わなければ、今頃幸せな人生を歩めてたのになぁ、って思うことになっても」


「菜花さんと付き合える以上に幸せなことなんて、僕の人生には無いよ」


 僕がそう言った途端、菜花さんは「あぅ……」と変な声を上げて、薄明かりの中でも分かるくらい一気に顔を赤色に染めた。

 ……まぁ、さっきのは自分でも、よくあんなクサいセリフを言えたもんだと思っているので、そういう反応をされるのは無理もないとは思うけども……こういうのはおちゃらけながら流してもらわないと、なんとも居た堪れない気持ちになる。


「あ、あのさぁ、吹っ切れすぎじゃない? いつからそうなっちゃったの? 初めて出かけた時は私のこと絶対に好きにはならないとか言ってたのに」

 

 言った覚えのある言葉に、鋭いナイフを胸に突き刺された思いがして「うっ」と呻き声が漏れ出た。

 そんな僕の反応を見て、赤い顔でおずおずとしていた菜花さんは表情を変え、面白いおもちゃを見つけた時の子どものようにニヤニヤとした悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 あっ、マズイ――と思った時にはもう既に遅く、菜花さんは間髪入れずに口を開いた。


「そういえば好きなタイプと真逆って言ってた気もするなぁー」


 また言った覚えのある言葉に、僕はもう菜花さんの顔を見ることが出来なかった。


「結局私が言ってた通り、とんでもなく長いラブレターを書いちゃったもんだねぇ。きっと日本で1番長いんじゃないの?」


「す、ストップ! もうやめてくれ! 全部僕が悪かったから!」


 罪悪感と羞恥心の限界点を突破してしまった僕は両手で顔を覆い隠しながら、菜花さんを急いで止める。

 危なかった……。あれ以上続けられていれば、舌を噛み切っての自死を選択していたかもしれない。

 テンションに身を任せて勢いに乗っていた数分前のあの状態の僕だったなら「あぁ、そうだよ。そんな考えが変わってしまうぐらい、君のことが好きになったんだ」と言っていたかもしれないが……菜花さんに過去をほじくり返され、あの時に自分が彼女にとっていた数々のそっけない態度を思い出し、通常どころか地の底にまで落ちてしまったテンションではそんなこと言えやしなかった。


「あはははははは! あー、良かった良かった。恋愛感情を相手に伝えるのは恥ずかしいとか言っていたくせに、全然そんな素振りも見せずに堂々と好きって言ってくるんだもん。どうやったらあの時の仕返し出来るんだろうってずっと考えていたから、やっと仕返しが出来て私大満足っ!」


 声を弾ませる菜花さんに、そんなつまらないことを3ヶ月近くも考えていたの? と僕は言いはしないけど呆れた目を向ける。

 はしゃぐ子どもみたいに菜花さんは足をパタパタとバタつかせ、やってやったと言わんばかりの顔でご満悦そうな表情をしていた。

 ……なんというか、こういった天真爛漫な菜花さんの姿を見ていると、つくづく思う。さっき菜花さんが言っていた、絶対に好きにはならないとか、好きなタイプと真逆というのは強がって吐いた嘘ではなく、当時の僕が本当にそう思いながら言った言葉だし、この神社で菜花さんと話した時よりも前から彼女に憧れ的な感情はあったが、恋愛感情なんて抱くわけがないと思っていたけど……でも、それなのに告白をするぐらいの恋愛感情を抱いてしまった自分の心が、なんとも面白可笑しく感じた。


「どうして笑ってるの?」


「え? 笑ってた?」


「うん。今も笑ってるよ。何か良いことでもあった?」


「良いこと……あったと言われればあったけど、笑っていたのは別の理由かな」


「それって?」


「えっと、それは……」

 

 言葉を詰まらせる僕を菜花さんは不思議そうに首を傾げながら見つめる。

 別に隠すほどのことではないと思うが……思っていたことをそのまま話すのは少しだけ恥ずかしいので、僕はちょっとだけ内容を変えて話すことにした。


「こうやって菜花さんと一緒にいるのが不思議な感じがしてさ。もし3ヶ月前の僕と話す機会があったとして、この3ヶ月間に起きた出来事の話をしたとしても、きっと信じはしないんだろうなぁって思って」


 そう言って僕は視線を菜花さんから目の前の景色に移す。

 あの時は緑の葉を生い茂させていた周囲の木々も、今では葉を全て落とし、寂しい姿に成り果てていた。

 『私のことを小説に書いてよ』――菜花さんにそう言われたのはつい1週間前のことのようにも思えるのに、もうあれから3ヶ月も経ったんだなぁ、と感慨深い気持ちになる。

 この3ヶ月間を思い返してみると、あっという間だったような気もするし、色々なことがありすぎて実際の時間よりも長い時を菜花さんと過ごしていた気がするので、本当になんとも不思議な気分だ。


「私も四葩君のその気持ちすっごく分かるよ。こんなに四葩君と仲良くなれるなんて思ってなかったもん。あの時に四葩君に勇気を出して声をかけて、本当に良かったぁって思ってる」


 菜花さんの方に視線を戻すと、彼女もまた目の前の景色に視線を向けていて、過去を懐かしむような顔で緩やかに微笑んでいた。

 それは菜花さんが夕陽を眺めながら『私も消えてしまえばいいのに』と言った時と同じ表情だった。

 その表情が何を意味するのかを僕は知っている。菜花さんと仲良くならなければ、きっと僕はそれを知らないままだった。

 この場所で僕が小説を書いていなければ、あの時に菜花さんがこの場所に来なければ、菜花さんが僕に話をかけずに帰っていれば、菜花さんが僕に小説を書いてくれと頼まなければ、少しでも何かが違っていれば、僕たちはこんな関係にはならなかったのかもしれない。

 そんなことを考えながら菜花さんを見ていると、僕はふとあることが気になり、それを疑問に思った。


「菜花さんに聞きたいことがあるんだけど」


「ん? なにー?」


「どうして僕に自分の小説を書かせようと思ったの?」


 当初は適当な思い付きで言っているんだろうなぁと思っていたけど、菜花さんのことを色々と知った今では、僕に小説を書かせようと思ったのにはやっぱり何か理由があったんじゃないかと僕は思った。

 菜花さんは僕の質問に対し、「あー」と視線をふらふらと彷徨わせる。

 それは何も理由が無かったのを必死に捻り出そうとしている感じではなく、あった理由を言おうかどうかを迷っている感じだった。

 もしかすると、菜花さんが僕に小説を書かせようと思ったのには、やはり癌が関係しているのかもしれない。


「言いたくないなら別にいいんだけどさ」


「いやぁ……言えなくはないんだけど、その理由がしょうもなくて恥ずかしいというか、なんというか……」


 菜花さんはそう言って、僕と目を合わせないまま口をもごつかせる。

 しょうもない理由……ということは、癌とは関係ないということだろう。

 なら、聞いても問題ないな。


「それじゃあ教えてくれよ」


「うえぇ……さっきまでは遠慮気味だったのに、なんか急に食い気味になってない?」


「そんなことないと思うけど……。さっき辱められた仕返しをしようとか全然思ってないよ」


「それがもう答えだよね⁈」


「嘘だよ嘘。冗談。だけどさ、こっちは菜花さんの為だけに10万文字も書いたんだから、理由ぐらい教えてくれたっていいだろ?」


「そ、それを言われたらそうだけど……。でもでも! 10万文字も書いたのは四葩君の勝手でしょ!」


「小説を書いて欲しいって頼んできたのはそっちじゃないか。あーあっ、こちらとらネットに上げている小説を楽しみにしている人達よりも菜花さん1人を優先したのに、菜花さんは理由を教えてくれないんだな」


「教えないとは言ってないじゃん……ほんと、四葩君って時々意地悪だよね」


 僕はそれに対しては何も返事を返さず、無言でじっと菜花さんを見つめ続ける。

 言えなくはないとか、教えないとは言ってないと言っていたものの、まだ躊躇う気持ちがあるのか、菜花さんは口元をごにょごにょと動かすばかりで理由を話そうとはしない。

 流れる一時の静寂。

 ずっと菜花さんに無言の圧を送り続けていると、菜花さんはやっと話す決意を固めたのか、彼女は睨みつけるように僕と目を合わせて口を開いた。


「その……よく……ったから」


 しかし菜花さんのその声はあまりにも小さく、やけに早口だったのもあって、僕は彼女が何を言っているのか分からない。


「なんて?」


 本当に聞こえなかったから聞き返しただけなのに、菜花さんは煽られていると思ったのか、顔を真っ赤にして僕を睨みつける目をキッと更に鋭くさせる。


「っ〜……だっ、だからっ! 四葩君と仲良くなりたかっただけなのっ!」


 大声で菜花さんはそう言うと、赤い顔をそのままに僕を睨み続けながら「うぅ〜」と唸り声のようなものを上げた。

 その反応を見るに、菜花さんが言ったことは出まかせではなく、本当のことなのだろう。

 強制的に言わせた身でこう言ってしまうのもあれだけど……なんというか拍子抜けだった。

 結局のところ特に深い理由も無かった訳だし、菜花さんの言っていた理由も、僕からしてみれば彼女がどうして恥ずかしがっているのか分からない。


「誰かに自分の存在を覚えておいてほしいとか、誰かに生きた証を残してほしいとか、そういう理由だと思ってた」


「四葩君は小説の読みすぎ。物語の登場人物ってわけじゃないんだから、私が喋ること全てに必ずしも特別な意味があるとは限らないんだよ?」


「物語に登場する人物だって意味の無いことは喋るけど……っていうか、それならわざわざ小説を書いてくれとか面倒なこと頼むより、普通に『どこかで遊ばない?』って誘ってくれればそれで良かったのに」


「何か理由がないと四葩君は絶対に断るでしょ? 『どうせ罰ゲームで無理矢理言われされているだけなんだろ』とか訳のわからない理由を付けてさ」


「うっ……そ、それは否定出来ないけど……」


 3ヶ月の付き合いの中で菜花さんも僕のことをなんだかんだで理解していて、いかにも僕が思いそうなことを言い当てた彼女は「ほらぁ」とドヤ顔で胸を張る。

 確かにあの時の僕だったら、菜花さんに普通にお出かけに誘われても、今までなんの接点も無かった僕といきなりどうして? と絶対に怪しんでいただろうし、何かしらの罠だと思って確実に断っていただろう。

 そう考えれば、僕と仲良くなるために『私のことを小説に書いてよ』と頼んできたのに多少の納得いくところもあるけど……でも、腑に落ちないこともあった。


「ところで……どうして僕と仲良くなりたいと思ったの?」


 僕と仲良くなりたい。菜花さんがそう思ったのには何か理由があるはずだ。

 だけど先に記述した通り、僕と菜花さんは神社で話す前まではなんの接点も無かったわけで、菜花さんが僕と仲良くなりたいと思った理由に思い当たる節は全く無かった。

 高校生活の中で目立った活躍なんてして無いし、そもそも僕なんて居ても居なくても同じような存在感の薄い人間だ。

 そんな僕のどこに仲良くなりたい要素があったのだろう?


「……言わない」


「え? なんで?」


「言わないったら言わない!」


 菜花さんはそう断言すると、そっぽを向いて頬を膨らませた。

 小説を書いて欲しい理由を尋ねた時の迷っていた様子とは違ったその態度に、僕の疑問は尚更深まる。

 頑なに言おうとしないということはそれなりの理由があるはずだ。

 考えられる理由はいくつかあるけど……その中でも言えない理由となれば1つだけしか考えられなかった。

 ……まぁ、つまりはそういうことなんだろう。


「やっぱり罰ゲームだったんだ……」


「違うよ⁈ どうして四葩君はそうネガティブなのかなぁ。はぁ……本当は言いたくないけど、四葩君が変な勘違いしているから言います。言いますよ! ……言うけど笑わないでよ?」


 唇の先を尖らせて「絶対の絶対に」と念を押す菜花さんに、僕は「笑わないよ」と約束して頷く。

 しかし、1度は言わないと言い切ったことだからか、菜花さんはまた視線を彷徨わせて、中々理由を話出そうとはしなかった。

 また訳の分からないことで恥ずかしがっているのかなぁ、と思ったがどうやらそうではないらしく、菜花さんの表情はやけに曇っている。

 だからだろうか。しばらく待って、ようやくやっと開かれた菜花さんのその口も、なんだか重たげだった。


「四葩君の名前って『夕』っていうでしょ? 3年の最初の自己紹介の時にそれを知ってさ。私は夕焼けの景色が好きだから、いい名前だなぁって思ったの」


 …………ん?

 僕は自分の耳を疑った。――いや、自分の耳がおかしくなったと願いたかった。


「えっと……待って。僕の名前が『夕』じゃなかったら、こうして菜花さんとは話していなかったってこと? 冗談だよね? 笑わないも何も普通に笑えないんだけど……」


 容姿や性格ではなく、名前に惹かれたから仲良くなりたい。そんなことあり得るのか?

 本当の理由を隠したいがための適当な冗談としか思えなかった。


「も、もちろんそれだけじゃないよ! 四葩君ってばいつも1人で本を読んでいるから、どんな人なんだろうってずっと気になってたの! ほら、今時珍しいじゃん! 休み時間ってみんなは普通友達と話したりスマホを触ったり受験勉強をしたりするのに、その中で1人だけ黙々と本を読んでいたらそりゃあ逆に目立つでしょ!」


 若干引き気味な僕の反応を受けてか、菜花さんは焦り散らかしながら付け足した感満載の御託をぺらぺらと並べる。

 そうであってほしくはなかったけど……どうやら本当に僕の名前が『夕』だったから、菜花さんは僕と仲良くなりたかったらしい。

 ……そっか。僕の名前が『夕』以外の名前だったら、あの時に僕が神社で小説を書いていても、それが菜花さんにバレたとしても、例え全部が全部噛み合っていたとしても、『私のことを小説に書いてよ』と頼まれることはなかったのかもしれないのか。

 そうなれば僕が菜花さんと出かけることも無かったし、菜花さんがどんな表情で写真を撮るのかも、菜花さんの夢に対する想いも、菜花さんが癌だったことも、何もかもを知らなくて――そして、僕が菜花さんを好きになることもなかった。

 

「は……ははっ……はははははははははははは!」


 堪えようとした。でも、堪えられなかった。

 呆れなんてものはずっと前から通り越していて、あまりにも面白くて、おかしくって、僕は気付いたら笑っていた。

 腹を抱え、大きな声を上げてこんなにも大笑いをしたのは人生で初めてかもしれない。

 僕は何の取り柄もない普通以下な自分が嫌いだった。でも、自分の名前だけは好きだった。

 両親が考えに考えた末に決めてくれた名前で、呼ばれた時の音が良くて、『夕』という文字も物静かで暗い僕に合っていると思った。

 そんな自分が唯一自分の好きだと思えるところを、好きな人も気に入ってくれて、僕と仲良くなりたいと思ってくれた。僕と菜花さんが仲良くなるきっかけを作ってくれた。

 元々好きだった自分の名前が、もっともっと好きになった。

 だけど―― 


「あー⁈ 結局笑ってる⁉︎」


 僕の気持ちなんて全く知らない菜花さんは笑わないという約束を破られて怒りを露わにする。

 笑ってしまった理由を僕は言おうとしたけど、それを口に出そうとした寸前で辞めた。

 笑ってしまったことは事実だし、これこそわざわざ伝えることでは無いと思ったから。


「いやいや。もしこれが物語だったら、僕は覚えていないけど菜花さんと僕との間に心温まる素敵なエピソードがあったり、それがあって菜花さんが僕に異性として意識していたりが仲良くなりたいと思った理由だったりするのに、現実は僕の名前が気にいったからって……そりゃあ笑うだろ」


「だーかーらっ、四葩君は小説の読み過ぎ! リアルなんて所詮はこんなもんなんだよ。外見が好みだったとか、優しい一面を見たとか、名前が良かったとか。そんな些細な理由で人は人を気になって、それで遊んでみて、一緒にいて楽しかったとか、一緒に過ごした時間が心地良かったとか、欲しかった言葉をかけてくれたとか。そんなありふれた理由で人は人を好きになる」


 陳腐な言葉をつらつらと並べた菜花さんは「いいじゃんそれで」と笑顔を弾けさせる。


「みんながみんな白馬の王子様やドレスを着飾ったお姫様じゃないと最初から気にも止めなくて、自分を救ってくれたヒーローじゃないと恋に落ちないのだったら、この世界はきっと愛で溢れてなんかはいないよ」


 菜花さんはそう言い切ると、いい歳して白馬の王子様だとか救ってくれたヒーローだとか愛が溢れているだとか、そういった言葉を言ったのが少し恥ずかしかったのか、「うひひ」とはにかみながら夜空を仰いだ。

 何をもってこの世界が愛に溢れていると言えるのかは知らないけど……僕は菜花さんの言葉に少しばかりの感銘を受けていた。

 確かに僕は小説の読み過ぎだったのかも知れない。

 恋愛小説ほど恋愛に参考にならない本は無いなと読みながら思いつつも、結局は恋愛小説を基準に僕は恋愛事を考えている節があった。

 菜花さんの言った通り、人が誰かを好きになるのに小説みたいな物語性のある理由なんていらないし、ありふれた理由で人は誰かを好きになる。

 まぁ、実際に僕もありふれた理由で菜花さんを好きになったわけだし――と、もう完全に意識が星空に向いてしまっている彼女の横顔を見ながら、そう思った。




 

 僕が菜花さんに告白をした次の日。僕たちの関係にこれといった変化はなかった。

 僕たちはいつものように各自で登校し、終業式を終え、ホームルームも終わり、何の会話も無いまま2学期の学校生活を終えようとしていた。

 みんながみんな待ち望んでいた冬休みに心躍らせながら帰り支度を進めている中、僕も鞄に荷物をまとめながら2つ隣の席の菜花さんに視線を向ける。すると、友人たちと楽しそうに話している菜花さんと丁度目が合った。

 菜花さんはニコッと笑って、こちらに小さく手を振る。

 あっ、バカ――と思った時にはもう既に遅く、一連の挙動を見ていた菜花さんの友人たちがわっと声を上げ、怒涛の勢いで菜花さんに詰めよった。

 質問攻めにあい、あたふたと真っ赤に染め上げた顔をブンブンと勢いよく横に振る菜花さんを僕は眺めながら、いったい何をしてるんだか、と呆れながらも心の内で1人笑い、さっさと帰り支度を済ませる。

 さあって、こっちにも飛び火が来る前に早く逃げてしまおう。

 そう思って教室を出たのも束の間、僕も僕で面倒な奴に捕まってしまった。


「いやぁ、これで俺も受験勉強にちゃんと本腰入れて、安心して本州に飛び立てるってもんよ!」


 そんな藤の陽気な声が聞こえたと同時に自分の背中にバンッと強い衝撃が走り、余りの痛みに僕は悶える。

 叩かれた背中をさすりながら藤を睨みつけると、彼は今までに見たことがないくらいの嬉しそうな面を浮かべていた。

 どうしてか当事者である僕よりも浮かれている藤に、そんなんで受験は大丈夫なの? とか、もしこれで受験に失敗したとしてまさか僕のせいにしないよな? とか、未だに背中がとてつもなく痛いんだけどこれどうしてくれんの? 等々、言ってやりたいことは沢山あったけど……まずはしているであろう誤解を解いてあげることにした。


「勝手に勘違いしてるところ申し訳ないんだけど、僕は菜花さんとは付き合っていないよ」


「はぁ? ……ああっ⁈ さてはお前逃げたな⁈」


「ちゃんと告白はした」


「え? じゃあ、フラれたってことか?」


「んー……フラれたと言われればそうなんだけど、フラれてないとも言えるような……」


 言っている自分でさえ首を傾げてしまう説明に、藤は訝しげな顔をして「なんだそりゃ?」と首を傾げる。

 きっとこれから藤は僕に、いったい何がどうなってそんな状況になっているのか聞いてくるだろう。

 だけど、それを詳しく説明するためには僕が小説を書いていることと菜花さんの癌のことを説明しないといけない。でも、それらは僕たちにとっては秘密にしておきたいことであり……なんとか上手く誤魔化せる方法はないだろうか?

 そんなことを考えながら僕は頭を悩ませる。

 しかし、次に藤の口から出たのは予想外の一言だった。


「まっ、お前が幸せそうだから何でもいっか」


 藤は余計な詮索をせずに、それだけを言って笑った。

 その藤の笑顔は悲しみや寂しさを一切感じさせない、喜びの溢れる屈託のない笑顔だった。


「……ごめん。ありがとう」


 友人の幸せを自分のことのように喜んでくれる親友に対し、菜花さんの癌のことを言えないにしても、小説を書いていることだけでも本当なら僕は話すべきなんだろう。だけど、未だに人に話す勇気の持てない臆病者の僕は、今は謝罪と礼を言うので精一杯だった。

 僕の急な何に対してか分からない謝罪と礼に、藤は一瞬だけキョトンとした顔をしながらも、「おう。良いってことよ」と言い、また嬉しそうに笑う。

 そんな藤を見て、いつかちゃんと全部を話せる日が来るといいな……とそう思いながら、僕は彼の隣を歩き続けた。

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