『嘘と本音』

 今からそっちに行く。

 電話で菜花さんに癌が再発したことを告げられた僕は、気が付いた時にはそう彼女に伝え、家を飛び出していた。

 気の利いた言葉なんて何もない。してあげられることも何も。

 それでも、今すぐ菜花さんの元に行かなきゃいけないと思った。

 菜花さんのところに向かうまでの道中、僕は無我夢中で走った。

 体育祭の徒競走でも、体力テストの長距離走でも、こんなに頑張ったことがないくらい全速力で走った。

 冬夜の冷たい風が頬を切るように撫で、肺が裂けてしまいそうなぐらい痛くて――だけど、それでも走り続けた。

 菜花さんの住む家が見えるところまで来ると、玄関の前に菜花さんはいた。

 菜花さんは僕の姿を視認すると、僕の到着を待たずに僕の元に駆け寄って来た。


「いやぁ……あははは……。いきなり電話してごめんね。末期癌て訳でもないのに動転して泣いちゃってさ。心配させちゃったよね? 本当にごめん。でも、全然大丈夫だから。ほら、見ての通り元気だから」


 菜花さんは僕の前に立つと、笑顔で両腕を上げて力こぶを作るようなポーズをとって、自分が元気であることをアピールする。

 取り繕った表情と言葉は僕に届きはしたが、納得することなんて出来なかった。

 菜花さんの赤く腫れた目元が本当のことを語っていた。

 末期癌ではないというのは……本当なのかもしれない。でも、大丈夫というのは絶対に嘘だ。

 取り除いた癌がまた再発した。この癌が治っても、また再発する可能性だってある。

 第三者である僕が想像しただけでも恐ろしいのに、当事者である菜花さんが怖くないわけがない。

 だからきっと、菜花さんは僕に電話をした。それは菜花さんの見せた弱さだった。

 それなのにいざ僕を目の前にすると、菜花さんは僕を心配させまいと気丈に振る舞っている。

 本当は「怖い」と叫びたいはずなのに、本当は「助けて」と泣きたいはずなのに……それを我慢している菜花さんに、僕は胸が締め付けられたように苦しくなった。


「あっ……そのっ…………」


 もう息は整い出しているのに、何も言葉が出てこない。

 きっと大丈夫だよ――そんな気休め程度の言葉なんて、言えやしなかった。

 安心させようとするにしても、そんな無責任な言葉を言っていいのか分からなかった。


「どうせならさ、散歩しながら話さない?」


 苦しんでいるはずの大切な人を目の前にして、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来ない情けない僕に向かって、菜花さんはいつものように優しい笑顔を浮かべながらそう言った。

 僕は黙ったまま、頷いた。





 しばらく住宅街を歩いた僕たちは、近所の神社のベンチに座っていた。

 散歩をしながら話さない、と歩き始めたのに、ここにくるまでの間に一切の会話もなかった。

 ただただ無常に時間だけが流れていく。

 菜花さんは何を考えているか分からない表情で俯いていて、僕はそんな彼女に掛ける言葉を未だに見つけられないまま。

 探しているものはそこには無いと分かってはいるけど、僕は空を見上げた。

 月の出ていない夜空には満天の星々が浮かんでいて……嫌になるくらい、星の綺麗な夜だった。


「この場所が始まりだったよね」


 静寂に溶けてしまいそうなぐらいの小さな声で、菜花さんはポツリと細く呟いた。

 その菜花さんの目は僕に向けられてはいなくて、神社の境内に向けられていた。

 でも、きっと意識は目の前の景色になんて向けられてはいなくて、僕との過去の出来事を思い返しているのだろう。そんな遠い目を菜花さんはしていた。

 

「ここで四葩君の秘密を知って、四葩君と遊ぶようになって、色々なところに行った。楽しかったなぁ」


 それはいつものような弾んだ声ではなくて、静かで抑揚の無い声だった。

 

「喧嘩もしちゃったけどさ、この場所で仲直りしたよね。そして四葩君が私に告白をしてくれたのも……ここだった」


 そう言って、やっと菜花さんは僕の方に目を向けた。

 夜に宝石を散りばめたような美しい瞳が、しっかりと僕を見据える。

 ……僕は菜花さんが次に何を言おうとしているのか分かっていた。

 僕はそれを聞きたくはなかった。


「ごめんね……私、四葩君とは付き合えないや」


 菜花さんは笑った。それは全てを諦めてしまったような笑顔だった。

 僕はそんな顔であんな悲しいことを……言ってほしくなかった。


「……また待つよ。菜花さんの癌が完全に治るまで、いくらでも待つ。たとえそれが何年後、何十年後のことになったとしても、僕はずっと待ち続ける」


 今の僕はそれを言うだけで精一杯だった。

 だけどそれを伝えたのは、きっと間違いじゃなかった。

 菜花さんの下瞼が痙攣するように震えた。笑顔が少し強張る。


「そんなの嫌だよ……四葩君はそれでいいかもしれないけどさ、私が耐えきれないよ。もし逆の立場だったら、四葩君だって私と同じ選択をするはずでしょ?」


「……うん。たぶん僕も菜花さんと同じ選択をすると思う。でも、口には出せないだけで、きっと心の奥底ではこう思うんだ。本当は見放さないでほしい、本当はずっと側にいてほしい、って。今の菜花さんみたいに」


 僕はそう言って、少しだけ安心した。

 菜花さんの貼り付けていた表面上だけの笑顔が段々と瓦解していくのを見て、さっきの僕が言った言葉が、僕にとっての都合がいいだけの的外れな言葉ではなかったことを確認出来たからだ。

 菜花さんの視線が逃げ場を探すようにふらふらと彷徨う。

 言葉が見つからないのか、口が開いたり閉じたりを繰り返す。

 僕はこの機を逃さまいと、さらに言葉を続けた。


「話さなきゃ分からないままだって菜花さんが僕に教えてくれたんだろ? 怖いなら怖いって言えばいいし、苦しいなら苦しいって言えばいい。助けて欲しいなら助けてって言えばいいし、ずっと一緒にいて欲しいなら――」 


「あーあっ、そっかそっか。四葩君ってば勘違いしてるんだ」


 僕の言葉を遮って、菜花さんは場にそぐわない能天気な声をあげる。

 だけど、その声と表情は合ってはいなくて、菜花さんの顔はもう笑顔とは呼べないものになっていた。

 

「そもそもの話…………私、四葩君のこと、好きじゃないし……」


 ……つっかえつっかえで、涙混じりに言った菜花さんのその言葉に、僕は強く強く拳を握りしめる。

 あぁ、本当。菜花さんが感情豊かな人ではなく、感情が表情に一切出ない人だったなら良かったのに……。

 好きじゃない――そう言ったのは菜花さんの方なのに、まるで自分が言われたみたいな顔を彼女はしていた。

 下の唇をギュッと噛み締めて瞳にいっぱいの涙を溜めている嘘をつくのが下手くそな菜花さんを前に、神様なんてものが本当に存在するならぶん殴ってやりたいと思った。

 どうして菜花さんがこんな目に遭わないといけないんだろう? どうして僕じゃないんだろう? 一生懸命に生きている人がどうして? 菜花さんみたいな優しい人がどうして? なぁ、神様? どうしてなんだよ?

 存在するのかどうかも分からないものに怒りをぶつけたところで、何の問題も解消されないことは分かっている。

 だけど、この怒りを、この悲しみを、いったいどこにぶつければいいのか分からなかった。

 

「そっか……。僕のこと、好きじゃなかったんだんだな」


「っ……そ、そうだよ。四葩君のことなんて大っ嫌い。四葩君と一緒にいた時間はずっとずっと苦痛で仕方がなかった。一度だって楽しいって思ったことなんてなかった」


「……ははっ、酷いな……」


 本当に……酷い嘘だなぁ、と思った。

 もし菜花さんが言ったことが本当なら、彼女はカメラマンではなく俳優を目指すべきだ。

 嘘をつくのが下手で、思っていることがすぐに顔に出る菜花さんだから、僕と一緒に過ごした時間を楽しんでくれていたのが嘘じゃ無いことを、僕はちゃんと知っている。

 思い出の中の菜花さんの表情がそれを裏付けてくれている。


「これで分かったでしょ? 私は酷い女なんだよ。だからさ、私のことなんてほっといて――」


「なぁ、もうやめにしようよ」


 人を傷つけることに慣れていない菜花さんは涙をぼろぼろとこぼしながら言葉を紡いでいて、その度に苦しそうに顔を歪める彼女を、僕はもう見ていることが出来なかった。


「どれだけ酷い言葉を言われたって、それでもやっぱり僕は菜花さんのことを嫌いにはなれないよ」


 僕がそう言った瞬間、菜花さんの表情からすとんと感情が抜け落ちた。

 流れていた涙が止まり、元々大きくて丸い瞳がさらに大きく見開かれる。

 僕は言葉を重ねた。菜花さんの言葉が僕を救ってくれたように――僕の言葉が菜花さんの心に届くように――


「どんなことがあっても、僕はずっと菜花さんのことが大好きだよ」


 そう言った直後――あぁ、僕は失敗してしまったんだな、と悟った。

 心に届くか届かないか、そんな話し以前に、僕はさっきの言葉を決して口にしてはいけなかった。

 菜花さんは顔をぐしゃりと歪ませ――そして、怒りや悲しみが入り混じったような複雑な表情を浮かべていた。

 一瞬だけ止まっていた菜花さんの涙が、また決壊した。

 

「どうして……どうして!!」


 菜花さんの発したその声は今までで1度も聞いたことのない叫び声だった。

 それは痛々しい悲鳴のようで、耳を塞ぎたいと思ってしまうくらい、苦しくて悲しい声だった。


「どうして分かってくれないの⁈ 私のことが大好きなら私の気持ちをちゃんと汲み取ってよ⁈ 私だって本当はこんなことなんて言いたくない! でも、言わなきゃ……私と一緒にいたら四葩君がもっと不幸になっちゃうじゃん! 私そんなの嫌だよ! 私のせいで四葩君に不幸になって欲しくないよ!」


 さっきまでの取り繕っていた言葉とは違う感情の乗せられた言葉に、僕は言葉を詰まらせる。

 そんな僕に追い討ちをかけるように菜花さんは急に着用しているコートのボタンを外し、セーターとインナーを捲くし上げ、自らの腹部を露わにした。

 突然のことに僕は動揺しながらも、視線は吸い寄せられるようにそこに向けられる。そして…………僕は言葉を失った。

 ミミズ腫れのような赤い傷跡が胸のすぐ下から腹の真ん中にかけて縦に真っ直ぐと伸びていて、雪のように綺麗な色白い肌に不釣り合いなそれは、嫌というほどの存在感を示していた。

 それを見て僕は……いったいどんな表情をしてしまったんだろう……。

 菜花さんは浅くため息を吐き、涙を流したまま淡く微笑んだ。


「……ほら、やっぱり四葩君もそういう顔するでしょ? 他の人と一緒。お母さんもお父さんもおばあちゃんも中学の時の先生も友達も、これを見せればみんな揃って同じ顔をする。なんて可哀想なんだろうって。人のことをまるで不幸の塊みたいな、そんな目で私を見る」


「ち、違う。そんなことなんて思ってない。僕はただ、いや、きっとみんなだって菜花さんのことが――」


「大丈夫。ちゃんと分かってるよ。みんなが優しいから、私のことを心配してくれているからこそ、そういう顔で私を見ることぐらいちゃんと分かってる。だけどね……私、怖いんだ。もしかして私って私が思っている以上に酷い状態なんじゃないかって、私は私が思っている以上に不幸な人間なんじゃないかって、そんなこと思いたくないのに、どんどんどんどん不安になっていくの。心がそうやって弱っていくのに、癌が他のところに転移して手術をすることになれば、もっと体の傷は増えていくかもしれない。心も体もぼろぼろになっていく姿を……特に四葩君には見られたくない……。私の苦しみを四葩君にも与えたくないよ……」


 菜花さんは捲り上げていたインナーとセーターを下ろし、体を小さく丸め、視線を俯きがちに落とした。

 菜花さんの表情をよく見ると、口元が震えていた。肩も小さく、震えていた。

 本当は見られたくなかったものを自分で晒す恐怖と勇気は僕には到底計り知れないもので、そこには菜花さんの確かな覚悟があって、どうしようもないこの状況に、何も出来ないちっぽけな自分に、僕は涙が込み上げた。


「ねぇ、四葩君。私なんかよりも良い人は沢山いるよ? 可愛くて、病気にならないような健康な体を持って、四葩君のことをちゃんと理解してくれるような良い人がきっといる。私のことなんて綺麗さっぱり忘れちゃってさ、そういう人と幸せになりなよ」


 ……そんなの無理だよ。菜花さんよりも良い人なんているはずがない。僕のことを他の誰よりも理解してくれたのは菜花さんだった。

 そう言いたいのに、僕はそれを言えない。

 でも、たぶんその想いは僕の表情には表れていて、菜花さんは困ったような表情を浮かべた。


「ねぇ、お願い。分かってよ……四葩君がせっかく夢を叶えようって決心してくれたのに……私は四葩君の人生の邪魔をしたくないよ……」


 菜花さんはそう言うと、また涙を流した。だけど、その顔は笑っていた。

 それは今日1番の笑顔だった。

 これまでのような作り物では無い、本当の笑顔。

 優しくて温かい、菜花さん特有の笑顔。


「四葩君に……幸せになって欲しいよ……」

 

 菜花さんはそれだけを言って、ベンチから立ち上がる。

 僕は咄嗟に菜花さんの腕に手を伸ばすが、彼女の腕に届く寸前のところでその手は宙を空振った。

 走り去っていく菜花さんの背中が段々と小さくなっていく。

 僕は菜花さんの後を追いかけないといけないはずなのに……動くことが出来なかった。

 僕に幸せになって欲しい――その想いが本物だと、あの菜花さんの笑顔が語っていたから、これ以上僕と一緒にいたところで、菜花さんを傷付けてしまうだけだと分かってしまったから、だから僕は菜花さんを追いかけれなかった。

 

「なんで……なんでなんだよ……!」


 僕だけになってしんと静まり返った境内の中で、自分の声がやけに大きく響いた。

 大切な人に何もしてあげられない自分に嫌気がさす。

 悔しさで握り込む拳の上に、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。

 こんなところで泣いていても仕方がないのに、それでも涙がとめどなく溢れてどうしようもなかった。

 これ以上涙が溢れないように、意味が無いとは分かっていながらも僕は空を見上げる。

 ……あぁ、本当、こんな日に限って……嫌になるくらい、星が綺麗な夜だった。

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