『戻った時間と空いた心』

 時間が過ぎていくのはなんとも早いもので、僕が菜花さんの家に行ったあの日から3週間もの時が経過した。

 期末考査も終わり、もうすぐで高校生活最後の冬休みが始まろうとしている。

 今日という1日の終了を告げるチャイムが鳴ってみんなが忙しそうに帰り支度を進めていく中、僕も鞄の中に勉強道具を詰め込みながら――ふと、ある場所に視線を向けた。

 視線を向けた先。そこには菜花さんがいて、彼女はいつも通り友人たちと楽しそうに何かを話している。

 ……あの日から僕と菜花さんの関係性は変わった。――いや、正確には神社で菜花さんの小説を書く約束をした日の前に戻った、と言った方が正しいのかも。

 あの日から会話はおろか、メッセージでのやりとりだって一度もしていない。

 菜花さんと一緒に過ごしたあの記憶の全部が全部夢だったみたいに、綺麗さっぱり何もかもが元通りに戻った。

 平日の放課後は菜花さんからメッセージが届かなくなったので小説を書くのも読むのも集中して出来るようになったし、土日も遊びに出かけることがなくなったから全ての時間を自分のしたいことに費やすことが出来るようになった。

 ずっと心から欲していた生活が戻ってきた……はずだった。

 でも、どうしてか僕の心はぽっかりと穴が空いてしまったみたいに、何をしていても満たされることのない虚しい日々が続いている。

 だからだろうか? 気が付けば僕は今もそうしているように菜花さんのことを時折り目で追いかけるようになっていた。

 もう菜花さんの小説を書く必要は無くなり、未だに僕は『これからも私の小説を書いてくれる?』という彼女の質問の答えを見つけれていなくて、僕はいったい菜花さんに何を求めているかも分からないままなのに……。


「ねぇ、さっきからさ……」


「ねー。やっぱそうだよね……」


 菜花さんと話していた友人たちが僕のことを睨みつけながらコソコソと話し始める。

 そろそろマズイな……と僕は急いで帰り支度を済ませ、そそくさと逃げるように教室を後にした。

 菜花さんの小説を書くという口実が無くなってしまった以上、僕のやっていることはストーカーのしているそれとなんら変わらない。

 けれど、絶対に菜花さんのことを見ないようにしようと思っていても、そう思えば思う程に目がいつの間にか彼女を追いかけている。

 ほんと……僕はいったい何がしたいんだろう……。


「なんかまーた辛気臭い顔してんな」


 学校を出てしばらくして、よく聞き覚えのある陽気な声が背後から聞こえた。

 振り返るとそこには藤がいて、彼は「よっ」と右手を上げてニカッと笑う。


「……辛気臭い顔ってのは心外だな。僕はいつもこういう顔だよ」


「いいや、違うね。少なくとも期末考査が始まる前の夕は毎日が楽しくて仕方がないって顔をしてた」


 ……コイツって奴は普段は飄々としている癖に、案外人のことをちゃんと見ている。


「それはきっと気のせいだよ」


「そんなわけあるか。自覚はないかもしれないが、楽しみにしている本の新刊が出た時でも見せたことがねえくらい、お前は輝かせた顔をしてたんだぜ。それがどうした? 期末考査が近付くにつれて、どんどんお前の顔から活気は無くなっていって……それを俺は初めは期末考査があるからだと思ってた。でも、期末考査が終わっても夕の元気は戻らなくて……」


「……期末考査の結果が散々だったんだよ。察してくれよ、まったく……」


「……そうじゃねぇだろ」


「そうじゃねぇって……勝手に決めつけるなよ。こっちは就職が決まっているのに、成績のことで毎日毎日母さんにこっぴどく叱られ――」


「そうじゃねぇだろ!」


 そんな怒号が聞こえたと同時に僕は藤にいきなり襟元を掴まれて、体を上に引っ張り上げられた。

 僕は藤の突然の行動に驚く。……でも、それ以上に驚いていたのは、行動を起こした藤本人の方だった。


「……すまん」


 焦りと動揺が入り混じったような表情で藤はそう言うと、すぐに僕の襟元から手を離し、僕を解放した。

 僕は藤の行動に驚きはしたものの、長年の付き合いがあるので彼に対して恐怖心のようなものは微塵も感じはしなかった。

 ……いや、まぁ、長年の付き合いの中でこんなことになったのはこれが初めてではあるけども……。

 きっと藤は、さっきのことをとても気にするだろう。

 ただでさえこっちは人間関係のトラブルで気が滅入っているというのに、さらにもう一つの人間関係のトラブルを取り込めるほどの、心の容量は持ち合わせてはいない。

 僕は気にしていないとアピールする為に、隣で肩を落としてトボトボと歩いている友人に急いで話しかける。


「さすが全国大会までいったバレー部の元エース。部活を引退してからは勉強に専念していると聞いていたが、その力はまだまだ健在だな。さっきは体が一瞬だけ浮いてびっくりしたよ。お前はスポーツだったら何をやっても万能だったし、柔道をやってみてもいい結果が残せるんじゃないか?」


 僕は戯けながらそう言ってみせた。

 そして言ってからすぐに、言うんじゃ無かった、と後悔した。

 自分でも似合わないことをしたな、と思うことをしたからか、藤は僕を困惑したような表情で見つめていた。

 僕の顔に段々と熱がこもる。

 ……っていうか、話題のチョイスをミスったか? 何さっきの事をぶり返すようなことを言ってんだよお前は。さっきのあの場面は話題を変える絶好のチャンスだっただろ?

 心の内でそんな独り反省会をしていると、藤は突然「わははっ」と声を上げて笑い出し、そして、それに対して呆気に取られていた僕に向かって彼はこう言った。


「やっぱり変わったよな」


「は? 変わったって……何が?」


「たぶん今までの夕だったら、あのまま何も言わずに俺の隣をただ黙って歩くだけだった。元々お前は優しいやつだったけど……なんつーかっ、こう、上手くは言えないけどさ……その優しさをお前は積極的に前面に出すようになったんだよ。お前が今悩んでいる事も含めて、それもこれも全部……菜花さんのおかげか?」


「なっ、えっ、あっ、はっ、はぁ⁈ なななな、なんでここで菜花さんの名前が出てくるんだよ⁈」


 僕のそれは誰が見ても分かる、あからさまな動揺だったと思う。

 誤魔化すのも馬鹿らしくなるぐらいの動揺ぷりを見せた僕に、藤は一際大きく声を上げて腹を抱えながら笑った。

 それを見て、ただでさえ熱かった僕の顔は更に表面温度をぐんぐんと上昇させていく。

 今ならヤカンに入った水を沸騰させれるぐらいに、僕の顔は熱かった。


「だはははははっ! いくらなんでもお前……それは分かり易すぎるだろ! なんだなんだ? 俺が受験勉強に明け暮れて遊んでいない間に、菜花さんといったい何があったんだ? 教えてくれよ、なぁ?」


「っ……! 言うか馬鹿! ……ていうか菜花さんは全然関係ないし。どうして菜花さんが出て来るのか本当に謎なんだけど?」


「いやいやいや。あんなにうろったえておいて、今さら取り繕うたってそれは無理があるだろ。それにあれだけ菜花さんのこと見ていりゃあ、親友の俺じゃなくたって誰でも気付くってーのっ」


「……え? 見てるの、気付いてた? それに誰でも気付くって……そんなに?」


 つい数秒前までは熱すぎるとまで思っていた顔から、サーッと一気に熱が引いていくのを僕は感じる。

 見ていることが、菜花さん本人やその周りにいる友人たちに気付かれていたとしても、藤やその他の第三者には絶対に気付かれていないと思っていた。

 それなのに実際のところは、藤やその他の第三者にでさえ気付かれていて……つまりそれは僕がそれだけ周りの警戒を怠ってしまうくらい、菜花さんに夢中だったということになり……あっ、ヤバい……なんだか死にたくなってきた……。


「おーい? 夕さーん? 大丈夫かー? さっきのは親友である俺個人の見解だから、そんな頭抱えるほど気に病まなくてもいいと思うぞー。たぶん俺以外の周りは夕のことをそんなに気にかけて見てねえと思うし」


「下手な慰め方するぐらいなら、しないでもらえますかね……」


 悩みと羞恥と自分自身に対する嫌悪感で心をぐちゃぐちゃにかき混ぜられている僕とは逆で、僕に話したかった事をどんどんと消費していく藤の表情には艶があった。

 このままだとマズイ……洗いざらい全てを話させられる……よりも前に僕の心のヒットポイントがもち堪えてくれそうにない。

 僕は一刻も早くこの危機的状況から脱出するため、「そういえば今日は歯医者に行く予定だったんだ。だからずっと憂鬱で……」と言って、僕たちの家とは逆の方向に向かって全速力で走り出した。が、しかし、振り切ろうとした相手はスポーツ万能男であり、僕に至ってはその逆のスポーツ駄目男。走り出した僕を藤は3秒と経たずに追いつき、僕は腕を背中に回させられ、その腕を藤は大きな手でがっちりと拘束した。


「さあって、さっきので夕の元気が無い原因に菜花さんが関係あるって自白してくれたようなもんだし、菜花さんといったい何があったか聞かしてもらうぜ」


 藤は満面の笑みを僕に向ける。

 こうなってしまった以上、彼から逃げることはもう不可能だろう。

 僕は観念して、諦めのため息を吐く。

 しかし、かと言って……いったい何から話せばいいのやら。

 藤にこれまでの事を話すのを決めたにしても、彼には知られたく無いことは当然ある。

 僕が小説を書いていることと……菜花さんが過去に癌を患っていたこと。

 だけど、それらを省いて説明するとなると、僕がどうして菜花さんと遊ぶようになったのかの説明も出来ないし、どうして僕と菜花さんが険悪な関係になってしまったのかの説明も出来ない。つまりは話の重要な部分が何も説明出来ないのだ。

 どうしたもんかなぁ……としばらくの間そうやって独りで考え込んでいると、藤は僕の腕から手を離し、僕を解放した。


「まっ、どうしても夕が話したくないなら、無理にとは言わないけどな」


 どうやら藤は、中々話そうとしない僕が話すのを相当嫌がっていると勘違いしてくれたらしい。

 まぁ、その勘違いはあながち間違いではないし、なんなら僕にとっては願ったり叶ったりだったのだが……。

 寂しげな表情を浮かべている藤を見ていると……少しばかり心が傷んだ。


「でもな、今のお前の抱えている悩みが独りでどうしようも出来なくなった時は、そん時はちゃんと俺に相談してくれよ。なんたって俺たちは幼稚園からずっと一緒の腐れ縁なんだからよ。俺が夕に伝えたいことは……それだけ」


 藤はそう言うと、寂しさを残したままの表情で笑った。

 そういう表情も、ああいう言い方も、何もかもが卑怯だなぁって僕は思った。

 ……でも、藤の言っていた独りでどうしようも出来なくなった時というのは、今なんじゃないか、とも思った。

 僕はこの3週間独りで悩んで、それでも答えは見つからなくて、きっとその答えはこれから先も出てくることはなくて……。

 幼稚園からずっと一緒の腐れ縁ってやつを、少しは信じてみても良いかもしれない。


「……分かったよ。ちゃんと話しますよ。言いたくない部分は話さなくてもいいなら、だけど……」


 僕がそう言った途端、藤は表情を一変させ、パァと顔を明るくするなりコクコクと何度も頷いた。

 藤といい、菜花さんといい、こうころころと表情を変えれる人種を見ていると、僕はなんともチョロい人間だなぁと思う。

 そんな自分自身に呆れて心の内で苦笑しながら、僕は小説の事と菜花さんが癌であった事を伏せ、これまでの経緯を簡潔に藤に語った。

 あることがきっかけで菜花さんと遊ぶようになったこと。菜花さんと色々な場所に行って仲良くなったこと。そして、あることがきっかけで喧嘩をしてしまって、今に至るということ――。


「ふぅん。なるほどねぇ……。何があれば夕と男嫌いの菜花さんが一緒に出掛けることになるのか知りてぇところだが……とりまそれは置いといて、今の夕が抱える悩みはつまりはこうだろ? 菜花さんと仲直りがしたいかどうかも分からないのに、気が付いたら菜花さんを目で追いかけているから、それをどうにかしたい……と」


「うん、まぁ、そういうこと」


「いやぁ……えぇ……。ちょっと確認。お前本当に分かってねぇの?」


「分かってないって……何が?」


「そりゃあお前……」


 藤はそこで言葉を止め、言い辛そうな顔をしながら口ごもる。


「なんだよ? はっきり言えよ?」


「そう言われてもなぁ……俺の口から直接言うことじゃねぇというか、夕自身が気付かないと意味がねぇというか、言ったところで夕は絶対に認めねぇというか……あと、絶対に怒る」


「認めるかどうかはともかく、怒りはしないと約束するから言ってくれ」


「夕がそこまで言うなら言うけどさ……」


 藤はそうは言いながらも、話すのをまだ躊躇っているようで、視線をあちらこちらに行き来させる。

 僕は催促せずに、藤の決意が固まるまで待つ。

 そうやって1分ぐらいの時間が経過した後、藤はやっと言う決意が固まったのか、ため息にも似た深呼吸を一度し、彼は泳がせていた視線を固定して僕のことをじっと見つめた。


「夕は菜花さんのことを『』なんじゃねぇのか?」


 ……藤のその一言に、馬鹿なことを言うな――と僕は否定しなかった。

 あぁ、自分でも分かっていた。気が付いていた。だけど、知らないふりをしていた。

 僕はその感情を認めてしまうのが怖くて、認めてしまったところで傷つくのが怖くて……。

 でも、それは僕のただの思い込みで、藤に『』と言われた瞬間、行き場を無くしてふらふらと彷徨っていたものが、ストンと収まるところに収まった気がした。

 僕は菜花さんのことが――。


「たぶん……いや、きっとそうなんだと思う」


 すんなりとその感情を受け止めた僕に、藤は意外そうに、そして嬉しそうに笑った。


「それじゃあ、あとはどうすればいいか、俺がわざわざ言わなくたって分かるよな?」


 ずっとずっと悩んでいて、やっと今になって答えを見つけた人間に対し、藤はもう突き放すようなことを言う。

 だけど、悩んでいたことの答えを僕が既に分かっていたように、これからどうすればいいのかも、もう既に僕は決めていて――。


「あぁ。分かってる」


 と、僕は藤に言った。

 それを聞いた藤は、さらに嬉しそうに声を上げて笑う。

 僕もまた、その親友の笑い声につられ、声を上げて笑ったのだった。





 家に帰り、僕は自分の部屋でスマホと睨み合いっこをしていた。

 ある程度の思考が纏まり、スマホのメモ欄を開いて、[小説]と題が打ってあるファイルをタップする。

 開いたそれは僕が菜花さんのことを書いた小説だった。

 2ヶ月も前から1文字たりとも進んでいない、もう書く必要の無くなった小説。

 僕は新しいページを開き、何も書かれていない真っ白なそこに文字を打ち込んでいく。

 こんなことに意味なんてないのかもしれない。これこそ本当に虚しい行為なのかもしれない。

 でも、僕は止められなかった。

 無意味だとか虚しいとか、そんなのもう関係なかった。

 ただ書くことが楽しかった。

 これまで過ごしてきた菜花さんとの忘れられない日々を、その時に感じた自分の心を、ここに全部、全部、全部、書き留めるために、僕はひたすら文字を打ち続けた。

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