『隠し事と約束』

 コスモス畑に行った次の日の昼間、菜花さんから【昨日はありがとう! 次はどこに行こっか?】とメッセージが届いた。

 展望台での出来事があったにも関わらず、それがまるで夢だったかのように普通にメッセージを送ってきた菜花さんに僕はなんだか拍子抜けしてしまい、メッセージが送られてくるまで悶々とした気持ちを抱えながらあれこれと考え込んでいた自分が馬鹿らしくなった。

 恋人の聖地という場所の雰囲気にまんまと僕たちはあてられてしまっていたから、だから2人してあんな歯の浮くようなことを口走ってしまったのかもしれない。お祭りや遊園地などに行ってその場の雰囲気に流されハメを外しすぎたが故に、要らない物を買って後々後悔してしまうあれと一緒だ。

 それにしても本当に馬鹿馬鹿しい。告白まがいの菜花さんの言葉の真意は何だったんだろうと悩みに悩み、月曜日はどんな顔をして彼女に会えばいいんだろうと疲弊していた時間は、今思い返してみると本当に無駄だったという訳だ。

 ……なんか考えれば考えるほど腹が立ってきた。

 もともと僕は昨日のお出かけが最後だと決めていた訳だし、菜花さんがどんな想いで写真家になりたいかも分かったので、もう彼女と遊びに出かける必要はないだろう。

 断りの文面を打ち込み、それを菜花さんに向けて送ろうとするが、送信ボタンに触れるかどうかのところでふと思い止まり、僕は押すのをやめた。

 昨日の展望台で僕は菜花さんに、これからも菜花さんが写真を取りに行くのに僕も同行する旨を伝えたというのに、いざ次の日になってみれば、あの時は口から出まかせで言ってしまっただけで本当は行く気なんてさらさらなかった、というのはあまりにも薄情じゃないだろうか?

 僕と菜花さんの関係性が赤の他人同然のただのクラスメイトであったなら、きっと僕はそんなことなんて一切気にせず断っていたかもしれない。

 しかし、僕たちはもう赤の他人とは呼べない関係にはなっている……と思う。

 だから仕方なく、とりあえず今回だけは遊びの誘いを受けることにしよう。

 僕はスマホに入力していた断りの文面を削除し、【菜花さんの行きたいところで】と彼女にメッセージを送った。





 1週間後に僕たちが訪れたのは、うどんが有名な隣県にある【日本のウユニ塩湖】と呼ばれている砂浜だった。

 よくテレビでも紹介されている有名な観光地なので、干潮で出来たいくつかの潮溜まりの周りには多くの観光客の姿があった。

 夕暮れのオレンジ色に染まる空には躍動感のある大きな雲が漂っていて、風のない瀬戸内海はいつも以上に穏やかだった。

 鏡のように透明度の高い潮溜まりがそれらの世界を綺麗に反射し、幻想的な景色を生み出している。

 あまりの景色の美しさに僕は呑み込まれるように目の前の景色に魅入っていた。

 菜花さんはこの砂浜を何度か訪れたことがあったみたいで、今まで見た中で1番良いロケーションだと、彼女は僕にそう言った。


「干潮時間、空模様、無風。その3つの条件が揃わないと、今日みたいな景色は見られないの。時間帯によってはただの浜辺だったり、干潮でも風が吹いていたら水面が揺れて景色を綺麗に反射しなかったり。前に話した『同じ景色でも時によって違う顔を見せる』の典型的なパターンだね。それにしても本当に四葩君は運がいいよ。初めてここに来たのに、ここの最高とも言える状態を見ることができるなんてさ」


「それはどうかな。つまりそれは次に来た時は、今よりも悪い状態を見ることになる可能性が高いってことだろ? それにここの悪い状態を知ったうえで今の景色を見た方がより感動できるだろうから、そっちの方がいいと僕は思うけど?」


「確かに……そう言われたらそうとも言えるけど……。まっ、なんでもいいじゃん。目の前の景色がすっごく綺麗なのは事実なわけだし、私たちはただそれに浸っていたらいいんだよ」


 話題を振ってきたのは菜花さんの方なのにそう雑に話を切り上げて、彼女はカメラを構える。

 カシャンッ、とシャッターが切られ、菜花さんはいつものように撮った写真を確認し、満足気に微笑みながら僕に撮った写真を見せてくれた。

 SNS等によくあげられている写真は1つの潮溜まりをメインに人や物、風景を反射させて撮られているものがほとんどだったが、菜花さんの写真は2つの潮溜まりを画角に収めて撮られたものだった。

 自分の姿を水面に写して遊ぶ子ども。それを見ながら朗らかに微笑むおじいちゃんおばあちゃん。潮溜まりにカニか魚でもいるのか、しゃがみ込んで指をさして笑い合っている若い男女。手を取り合ってジャンプしている4人組の女の子。

 写真に写っているみんながみんな楽しそうで、幸せそうで――菜花さんらしい写真だと、僕は思った。


「良い写真だね」


「ふふん。でしょでしょ」


 誇らしげに笑って、菜花さんは視線をまた景色に戻す。

 夕陽に照らされた瞳はキラキラと琥珀色に輝いていて、うっとりとした表情を菜花さんは浮かべていた。


『私も消えてしまえばいいのに』


 どこからかそんな声が聞こえた。

 菜花さんと初めて出かけた日に、夕陽を見ながら彼女が呟いたのと同じ声だった。

 しかし、菜花さんは一言どころか口を動かしてすらいない。

 ……多分あれは、あの時と状況が似ていたから今の菜花さんも同じことを思っているんじゃないかと、勝手にそう思った僕が作り出した幻聴だったのかもしれない。

 でも、今の菜花さんも実際にそう思っているかもしれなくて――そう考えた途端、とても大きな不安感に突如僕は駆られた。

 少しでも風が吹いてしまえば隣にいる菜花さんは砂の様に崩れてしまうのではないかという、ありえるわけのないビジョンが頭に浮かんだ。

 なんとも馬鹿げている妄想だと、自分でも分かっている。

 分かってはいるけど……どうしてか僕はこのどうしようもない不安感を払拭することが出来なかった。


「ねぇ」


 菜花さんの何気無い呼び掛けに、僕はつい肩をビクッと振るわせた。

 そんな僕の反応を見て菜花さんは「凄く綺麗な景色だけど、まさか四葩君がそんなにのめり込むほど夢中になってくれるとは思ってなかった」と見当違いなことを言って嬉しそうに笑う。

 ……でも、自分だけではどうも出来なかった不安感が、菜花さんの笑顔を見るだけで和らいでいくのを感じた。闇を振り払うような、明るくて温かい笑顔だった。


「また来週も綺麗な景色見に行こうね」

 

 ……どうやら菜花さんの中では次の週末も僕と出かけることは決定しているみたいで、彼女は笑顔のままでそう言った。

 今この場でそれを断ってしまってもよかったが、来週の予定は空いているし、用事がないのに断るのは決まりが悪いので、仕方なく……本当に仕方なく「うん、そうだね」と僕は返事をした。





 それから僕たちは毎週のように一緒に遊びに出かけた。

 電車やバス、僕のバイクで色々な場所を見て回った。

 四国八十八ヶ所の最後の札所の紅葉。タオルの美術館のイルミネーション。日本一海から近い駅。瀬戸内海に浮かぶアートの島。

 菜花さんと一緒に見た景色はどれもかれもが美しかった。

 相変わらず学校内では菜花さんと会話を交わすことは全く無いけれど、それでも僕たちの関係性は神社で彼女に話しかけられたあの時よりも親密になっている……と思う。

 その証拠に僕は今、期末考査に向けての勉強会をしに菜花さんの家の前に立っていた。

 ……まぁ、正確に言うならば、菜花さんのおばあちゃんの家だけども。

 前に菜花さんを家に送った時に知ったことだが、彼女の実家は初めて出かけた時に行った隣町にあり、数年前におじいちゃんが亡くなって1人になってしまったおばあちゃんの為に菜花さんはこの町の高校に通い、おばあちゃんと一緒に暮らすことにしたらしい。

 だから表札には菜花の文字ではなく、[不知火]の文字が書かれていた。

 僕はその表札の横にあるインターホンを鳴らす。


『こんにちは。どちら様でしょう?』


 すぐに出たその声は菜花さんのものではなく、落ち着きのある大人の女性の声だった。


「こんにちは。菜花さんと同じクラスの四葩です」


『あら、あなたが四葩君なのね。旭ちゃんからよく話は聞いているわ。少し待ってて。すぐに開けるから』


 そう言ってインターホンは切られ、そして程なくして玄関の扉が開いた。

 菜花さんからおばあちゃんと2人暮らしと話は聞いているので、家から出てくる人物が菜花さんでない限りはその人が必然的に菜花さんのおばあちゃんとなるわけだが……僕を出迎えてくれた人物はおばあちゃんと呼ぶのは失礼だと思わせるくらい、若々しい見た目をした女性だった。

 肌にはハリがあり、顔にシワはほとんどなく、髪の色は雪のように真っ白だが、綺麗に整えられたそれらは美しく、年齢を感じさせなかった。

 身長も菜花さんと同じくらいで、顔のパーツも彼女と似ている部分があるので、目の前の女性が髪を黒く染めて、菜花さんのお母さん……いや、菜花さんの姉妹と紹介されても僕は容易に信じただろう。

 今でもカブに乗って色々なところを周る元気なおばあちゃんと菜花さんに聞かされてはいたけど……僕の想像していた元気なおばあちゃん像を実際のおばあちゃんは軽々と越えてしまっていた。


「いらっしゃい。旭ちゃんはまだ帰ってきていないけど、どうぞ中に入って」


「え? 菜花さん家にいないんですか?」


「ええ、そうなの。旭ちゃんが初めて男の子を家に連れてくるから、何かおもてなしをしなくちゃいけないと思ってケーキでも買ってあげようと思ったんだけど……旭ちゃんったら私が行ってくるって飛び出しちゃってね。旭ちゃんから連絡は着てなかった?」


「連絡は……あー、着てますね……」


 スマホを確認すると、数十分前に菜花さんから【おばあちゃんがケーキ買ってくれるみたいだから行ってきます! 遅めに来てもいいよ】とメッセージが届いていた。

 僕は小説を書く時以外はスマホを触る習慣がなく、普段はマナーモードにしているのでこういった急な予定変更は電話をしてくれと前々から頼んでいるのだが、1度も菜花さんから電話が来たことはない。

 ……まぁ、自分の家を出てから遊ぶ相手の家に着くまで、一回もスマホを確認しなかった僕にも非はあるとは思うけども。


「えっと……中で待たせてもらってもいいんですか?」


「当たり前じゃない。外だと冷えて寒いでしょ。温かいお茶を用意してあげるわ。私もね、四葩君と話してみたいと思ってたし、さぁ、行きましょ」


 菜花さんのおばあちゃんに手を引かれ、僕は家の中に招かれる。

 リビングに通され、椅子に座らせられると、菜花さんのおばあちゃんはお茶の用意をし始めた。

 ……クラスメイトのおばあちゃんといえど、赤の他人と言っても過言ではない。菜花さんのおばあちゃんは何とも思ってないかもしれないが、僕としてはこの2人きりの空間はとても気まずいものだった。

 菜花さんのおばあちゃんが寡黙そうな人ではなく、菜花さんと同じでフレンドリーなのが唯一の救いだ。

 僕と話してみたいと言っていたし、何か話しかけたほうがいいのだろうか。

 しかし、友人のおばあちゃんってなんと呼べばいいのだろう?

 菜花さんのおばあちゃんと呼ぶのは長すぎるし、おばあちゃんと呼ぶのも違う気がするし……。そういえば表札には不知火と書かれていたっけ。


「あのー……不知火さんもカメラを片手にカブで色々なところに行ってると聞いたんですけど、職業はやっぱり写真家をされているんですか?」


「ううん。私はブロガーをやってるわ。四国の景色や美味しいお店を色々と周ってそれをブログに書いてるの。それと不知火は結婚する前の旧姓だから、そうね……私のことはユキカって呼んで貰おうかしら」


 菜花さんのおばあちゃん――もといユキカさんは微笑みながら湯呑みと急須を僕の前に置き、湯呑みにお茶を注いでくれた。

 「ありがとうございます。いただきます」と僕は礼を言い、出されたお茶を一口啜る。


「……美味い」


 そうボソッとつい呟いてしまうくらいに、飲んだお茶は美味しかった。

 口当たりはあっさりとしているのに甘みが強く、それでいてお茶の渋みを少々感じさせながらも後を引かないさっぱりとしたキレがあった。

 体が冷えていたのもあって、僕はすぐに出されたお茶を飲み干してしてしまった。


「ふふっ。まだまだおかわりはあるからね。1杯目だけは甘みが強いけど、2杯目以降はお茶の渋みのほうが強くなるの」


 ユキカさんは得意げな顔でそう言いながら、2杯目のお茶を注いでくれる。

 菜花さんのおばあちゃんなだけあって、そのユキカさんの表情は菜花さんそっくりだった。

 なんだか菜花さんと一緒にいる気がして、僕も緊張がほぐれ、つい顔が綻ぶ。


「今まで飲んできたお茶の中で1番美味しいです。……これってもしかして中々手に入らない高級なお茶だったりします? だとしたらなんか……僕みたいなのに出してもらって申し訳ないというか……」


「あははは。旭ちゃんから聞いてた通り面白い子ね。四葩くんはお客さんなんだからそんなの気にしなくてもいいのよ。それにそれって市内で作られているお茶なの。ほら、抹茶の大福で有名な」


「ああ、あの道の駅のですか。大福のほうは時々親が買ってくるので食べますが、お茶の違いなんて僕には分からないと思って飲んだことなかったです」


「私も舌が肥えているわけではないから細かい味の良し悪しは分からないけどね。だけど、そんな私でさえ美味しいと感じた物はきっと多くの人にも共感してもらえると思うから、だから私はそれを伝えるためにブログを書いてるの。傲慢な考えだって思われちゃうかもしれないけどね」


 前に菜花さんが言っていた事と似たようなことを言いながらユキカさんはほがらかに笑った。

 しかし、その目は菜花さんと違って揺らいではいなかった。

 ユキカさんが僕に向けるそれは自分の信じた道を迷いなく進めるような人のする、そんなまっすぐで輝いた目だった。


「……僕は傲慢だと思いません。誰かの為に何かをしようと思えるのは勇気のいることだと思いますし……何より、素晴らしいことだと思うので」


 僕のその発言が意外だったのか、ユキカさんは目を丸くさせ、そして――ふふっ、と笑みを溢した。


「さては四葩くん、君ってモテるでしょ?」


「えっ……? いや⁈ 全然そんなことないですよ⁈ 本当に全然、まったくと言っていいほど……」

 

 自分の言葉で勝手にダメージを受けていると、リビングと玄関ホールを隔てているドアの開く音がした。

 菜花さんが戻って来たと思い、僕は後ろを振り向く。

 しかし、そこにいたのは菜花さんではなかった。


「あら、ヒナタちゃん。お久しぶりね」


「ん。おばあちゃん、おひさー。可愛い孫娘が顔を見せに来ましたよん」


 リビングに入って来た女性は明るい茶色の長い髪を揺らしながら、やる気のなさそうに手をひらひらと振る。

 ゆるっとした雰囲気は菜花さんとは似ても似つかないが、目や鼻の形などの顔の各パーツはユキカさんよりも菜花さんに似ていた。ユキカさんをおばあちゃんと呼んでいたところを見るに、菜花さんからはお姉さんがいるなんて話は聞いたことはないけど、もしかすると菜花さんのお姉さんなのだろうか? それか従姉妹の可能性も……そんなことを考えながらヒナタさんを眺めていると、彼女と目が合った。

 何もしないのはマズイと思い、僕はとりあえず「こんにちは」と挨拶をして軽くお辞儀する。

 ヒナタさんから挨拶は返ってくることはなく、彼女は手を振るポーズのまま固まっていて、次第に顔全体をかーっと赤く染めた。


「ちょっと、おばちゃん。お客さんがいるなら先に言ってよー。初対面の人にナルシだと思われたかもしれないじゃん」


「ヒナタちゃんが連絡無しに急に来たんだから先もないでしょ。というかそんなことよりも、四葩くんが挨拶したんだからきちんと返しなさい。失礼でしょ。もう、いい大人なんだから」


「あっ、いえ、僕は挨拶されなくても別に大丈夫です。挨拶なんて結局はする側の自己満足だと思っているので」


「ダメよ四葩くん。挨拶とかそういった人との些細なコミュニケーションであっても、それを疎かにしては絶対にダメなの。人と関わるということは、人と心を通わせるということはとっても大事なことなんだから」


 ユキカさんは人との関わり合いに対し、相当の想いがあるのか、渋い顔をしながら俯きがちに視線を落とした。

 そんなユキカさんの表情を見たヒナタさんはしゅんと落ち込んだ表情をして「ごめんね」と僕に頭を下げて謝った。


「こんにちは。私自分で言うのもなんだけど、極度の人見知りで、さっきは……不意にお見苦しいところを見られて恥ずかしくなって挨拶を後回しにしちゃった……なんてただの言い訳だよね。ほんとごめんね」


「そんなに謝ることなんて何も……あっ、そういえばヒナタさんってもしかして菜花さんのお姉さんだったりしますか? 顔が似ていたので、もし間違っていたらあれなんですけど……」


「うぇ? 私は菜花だけどお姉さんなんていないよ?」


「ヒナタちゃん、四葩くんは旭ちゃんのお姉さんなのかって聞いててね……」


「えっ、あっ、そ、そうだよ! 私が旭のお姉さん!」


 焦り倒しながらそう言ってからドヤ顔で胸を張るヒナタさんのその姿に、尊厳という言葉は見当たらなかった。

 こう言ったらヒナタさんにも菜花さんにも失礼だとは思うけど……子どもっぽいと思っていた菜花さんって案外しっかりとしていたんだなぁ、と今はこの場にいない彼女にしみじみと思い馳せながら僕はお茶を啜る。


「四葩くんが旭を知ってたってことは、四葩くんは旭のお友達?」


「ううん。旭ちゃんのボーイフレンドさん」


 ユキカさんの予想だにしていなかった発言に丁度飲んでいたお茶が変なところに入り、僕はおもいっきりむせ込んだ。

 菜花さんがそう言った……わけはないと思うから、ユキカさんの単なる勘違いか。

 当事者である僕でさえ驚く情報を聞いたせいで、ヒナタさんも「ええっ⁈」と声を上げ、妹に似た大袈裟なリアクションで驚いていた。 


「旭の彼氏⁉︎ うっそ〜。旭には先を越されない自信あったのにぃ……」


 ヒナタさんは両手の人差し指をモジモジとさせながら唇を尖らせてぶつぶつと何かを呟く。

 僕は彼氏ではなくただのクラスメイトであることをすぐに伝えようとしたが、未だにむせ込んでいてそれが出来なかった。

 今1番危惧する出来事はこのタイミングで菜花さんが帰ってくることだ。

 ヒナタさんとユキカさんは勘違いしたままだし、それを菜花さんが知ったらきっと彼女は僕に「どうして否定しなかったの」とやらしい笑みを浮かべてつっかかってくるに決まっている。

 そんな面倒な状況に絶対にさせるわけにはいかない。

 なんとしてでも菜花さんが帰ってくる前に否定しないと――僕の頭の中はそれだけで一杯一杯だった。だけど、僕が喋るよりも前にヒナタさんが言った言葉に、僕の頭の中は強制的に一旦リセットさせられた。


「でも良かった。病気になってからは塞ぎがちだったから……」


 ……病気?

 僕は自分の耳を疑った。

 人間誰しもが何かしらの病気に患う可能性のあるものだと当然熟知している。でも僕はどうしてか、『病気』というのは菜花さんには縁の無いものだと、そう思っていた。

 

「ねぇねぇ。ちなみにさ、どこまで進んでいるの? もうキスはした?」


「まっ、待ってください。それよりも病気って……なんのことですか?」


 僕の問いかけにヒナタさんは今日1番の驚いた顔を見せる。


「あれ? もしかして旭から何も聞かされてないの?」


「聞かされてないも何も……病気に罹っているとは思えないほど菜花さんは元気で……」


 そこまで言って僕は口を噤んだ。

 これまでに沢山の小説を読んできた。

 その中には、病気だと思えないぐらい元気な子が実は重い病気を患っていて余命数ヶ月で――といった物語が沢山あった。

 でも、実際そういった話は創作の中だけの話だと、僕は勝手にそう思い込んでいたのだ。

 体全体が心臓になってしまったみたいに、自分の心臓の音が大きく聞こえる。

 高熱でうなされている時みたいに、目の前の景色がゆらゆらと歪む。


「その……菜花さんの病気っていうのはいったい――」


 僕がそう口にした時だった。

 ガサッ、と何かが落ちる音がした。

 音がした方を向くと、そこにはケーキが入ってあるであろう袋をその場に落とし、青ざめた顔をして立っている菜花さんの姿があった。


「どうして……病気のことを勝手に話したの……!」


 見たことがないほどの剣幕で菜花さんはヒナタさんに詰め寄り、ヒナタさんの肩を掴んで激しく揺する。


「ご、ごめん……まさか伝えてないとは思ってなくて……」


「何それ……あんなことがあったのに伝えるわけないじゃん……。もういい! お姉ちゃんなんてもう知らない! 2度と話しかけないで! 四葩君行こっ!」


 ヒナタさんを軽く突き飛ばした菜花さんに手を引かれて、僕は強引に連れていかれる。

 リビングを出る前にユキカさんとヒナタさんが何かを言っていたが、菜花さんはそれもお構いなしに僕の手を引いて進み続けた。

 初めて目にした人に対して攻撃的な彼女。初めて聞いた彼女の荒げた声。初めて感じた彼女の本気の焦燥。

 ……菜花さんのそれら全てが、彼女が本当に病気であることを語っていた。

 しっかりと硬い床を歩いているはずなのに、綿の上を歩いているかのように足裏に感触が伝わらない。菜花さんにしっかりと手を掴まれているはずなのに、そこから熱を感じない。

 色々なことが一気にありすぎて茫然としている頭で、僕はただ菜花さんの背中を眺めることしか出来なかった。

 部屋に入ると、そんな不安定な僕を用意していた座布団に座らせ、僕をこんな状態にした当の本人は勉強道具をテーブルの上に出して「さぁ、やろうやろう」といつも通り。

 でも、僕はいつも通りを装えなかった。


「病気なの?」


 デリカシーとか、空気を読むとか、そんなことなんて微塵も考えなかった。

 1番聞いてはいけないであろうその質問を、僕は開口1番口にしていた。


「……違うよ。病気だったの。でも大丈夫。手術をしてもう治ったから」


 一瞬だけ陰りのある表情を見せながらも、菜花さんはいつものように明るく笑って言った。

 ……治っているのなら、さっきのヒナタさんに対する菜花さんの反応の説明がつかない。

 治っているのが本当にしろ、何かしらの後遺症が残っているとか?


「何の病気?」


 僕のその質問に、菜花さんは露骨に嫌そうな表情を浮かべる。

 しかし、僕はさっきの質問を取り下げない。

 これからも僕たちがこれまでと同じ関係でいる為には、菜花さんが隠そうとしていたことをはっきりとさせる必要があった。

 ……いや、多分はっきりとさせたところで、僕たちはこれまでと同じ関係ではいられない。そんなこと分かっている。さっきのは自分を正当化させたいだけの建前。これは僕が菜花さんの病名を知りたいだけのただの我儘。この話を続けることにより、逆に僕たちの間には埋まることのない大きな溝が生まれるかもしれない。でも、それでも僕は、この話を有耶無耶なまま終わらせたくはなかった。

 僕はじっと菜花さんの目を真っ直ぐに見つめる。

 菜花さんの丸い大きな瞳の中に映る僕は、自分自身でも気圧されてしまいそうなほどの顔つきだった。

 それくらい僕は真剣だった。

 しばらくの見つめ合いの後、菜花さんは深いため息を吐いてから観念するように天井を仰ぎ、そこで一回大きく深呼吸をしてから僕の方に視線を戻して、そしてゆっくりと口を開いた。

 聞いても分からないようなカタカナだらけの病名や漢字だらけの病名が菜花さんの口から出されると思っていた。だけど、それは違った。菜花さんの口から出された病名は、日本人なら誰しもが1度は耳にしたことがあるほどに有名な病名だった。


「……癌。肝臓癌」


「……え?」


 癌だと聞こえた途端に、菜花さんの瞳に映る僕の顔は酷く情けない表情になった。

 足元に急に穴が空いて落下していくような不安感が突如僕を襲う。

 呼吸の仕方を急に忘れてしまったかのように、息がだんだんと浅くなる。

 長く苦しい闘病生活。薬の副作用で髪の毛がなくなった人。手術をして取り除いた後の再発、転移。

 いつかのドキュメンタリー番組を見て得た情報が次々と頭に浮かんでいく。


 『幸せなまま終わりたい』 『綺麗な顔のまま死んだ方が家族は悲しまない』 『私の存在を誰かに覚えておいて欲しい』


 これまで菜花さんと一緒に過ごしてきた中で彼女が言っていた言葉が頭の中を一気に駆け巡る。


 『私のことを小説に書いてよ』


 あれって本当はもしかして、癌で残りの寿命が短くて、誰かに自分のことを覚えておいてほしいからお願いしてきたんじゃ……。


「治ったって言ってたけど……本当に治ってるの?」


「……ごめん。本当は分からない」


「分からないって……どういうことなんだよ?」


 声が震える。

 怖かった。不安だった。夕陽を見た時に感じた菜花さんが消えてしまうのではないかという幻想が、現実になってしまいそうで恐ろしかった。


「手術後の5年間に再発も転移もしなければ完治したって言えるんだって。私が中3の時に手術をしたから、あと2年。それまでに癌が見つからなければ私は本当に治ったって言えるの」


 菜花さんのその言葉を最後に、僕たちの会話は途切れた。

 ただひたすらに、空気が重い。

 今の菜花さんに癌が無いことは分かった。でも、完治しているわけではなくて、再発や転移の可能性はあるわけで……。

 そんなことを考えていると、パンッと大きな音が鳴った。

 それは菜花さんが両の掌を打ち合わせた音だった。


「この話はもうお終い。いくら考えたって私が癌だったことが変わるわけではないしさ。そんなことに頭を使うよりも、今は期末考査に向けて頭を使わないともったいないよ」


 菜花さんはそう言って、僕たちの本来の目的であった期末考査の勉強に取り掛かる。

 ……確かに菜花さんの言う通りだ。

 ここで僕らがこの話を続けたところで、何かが変わるわけじゃない。

 だけど……こう簡単に終わらしていい話でもないだろ……。


「源氏物語ってさ、これも言わば小説ってわけでしょ?」


「うん……」


「すごいよね。私たちが産まれる1000年以上も前から小説はあって、それを楽しむ人たちがいて、今に続いてる」


「うん……」


「なんかこう、ロマンを感じるよね」


「うん……」


 僕はまだ鞄の中から勉強道具を出してすらいないのに、菜花さんはそんな僕を咎めもせず、ペンを走らせながら自然と会話を続けていく。

 頭の中はずっとごちゃごちゃしていて、これまでと同じように菜花さんと接することが出来ない。


「……ねぇ。これからも私の小説を書いてくれる?」


「……」


 僕はその質問に対しては適当な相槌さえも返せなかった。

 菜花さんの小説は彼女に最後に読ませた『夕焼けと共に』からちっとも進んでいない。

 それは菜花さんにも伝えてあるから、当然彼女も知っている。

 菜花さんのさっきの質問はこれからも私と一緒にいてくれるかを、暗に僕に聞いていた。


「……」


 長い沈黙がただただ続く。

 菜花さんはもうペンを走らせてはいなかった。

 僕のことをじっと見つめ、僕から出る言葉を待っていた。

 部屋のどこかに置いてある時計の秒針が進む音だけが、僕の耳に届く。

 誰も喋らないまま、ただ時間だけが過ぎていく。 


「……私がこの町に来た理由はね、本当はおばあちゃんの為だけじゃないの」


 なかなか喋ろうとしない僕に業を煮やしたのか、菜花さんはこの町に来た本当の経緯をぽつりぽつりと僕に語り始めた。

 中学3年の健康診断で肝臓の数値に異常が見つかり、病院で検査をして癌が見つかったこと。

 癌のステージは3であり、早急に手術が行われたが、お腹に大きな手術痕が残って両親が悲しんでいたこと。

 手術をした後の数日は痛みで寝れず、同室の患者の呻き声もあって、まるで地獄にいるような思いをしたこと。

 僕はただ黙ってそれを聞いていた。


「退院した後に学校に行くと、先生も友達もみんながみんな私に優しくってさ。……でもその優しさが、私にとっては苦痛だったの。手術をして癌は取り除いたのに、周りの人の気遣いや優しさが、まだ治りきっていないことを思い知らさせるから……。だから私はね、この町に来たんだ。私が癌だったことをおばあちゃん以外の誰も知らないこの町でなら、私は癌になる前の私でいられると、そう思ったから。まさか高校3年生も残り数ヶ月のこのタイミングで1番知られたくなかった人にバレるなんて、思いもしてなかったけどね」


 菜花さんは淡く笑う。

 いつもは色鮮やかに笑う菜花さんにしては珍しい、色の薄い笑顔だった。

 そんな彼女に……僕はまだ何も言えない。

 さっきされた質問の答えを、未だに探している。


「ねぇ……四葩君はこれからも私の小説を書いてくれる?」


 答えを急かすように、菜花さんは先程と全く同じ質問を僕に投げかける。

 けれど、その声には先ほどにはなかった力が込められていた。

 すがるような目を菜花さんは僕に向けていた。

 とにかく早く答えを返さないと。そう焦りながら僕は色々なことを考える。菜花さんと一緒に過ごしてきたこれまでのこと、そしてこれからのことを。僕は菜花さんとどうありたいのか、僕はいったいどうすればいいのかを。

 そうやって考えに考えた末に……僕は結局何も答えが出せなかった。

 だって、仕方ないだろ。何もかもがいきなりすぎる。大事な話があるから、と呼ばれていたのなら心の準備はしてきた。こんな話を聞かされると思っていなかったとしても、少しでも心の余裕を持てたはずなんだ。でも、今の僕の心は情報を処理するだけでも一杯一杯で……簡単に答えを出すことなんて……出来なくて……。


「……そっか」


 ずっと黙り続ける僕のそれが質問に対する僕の答えだと見たのか、菜花さんはキュッと唇を閉じて、机の上にスマホを置いた。

 僕に画面を見せている状態で菜花さんは写真のフォルダを開き、画面をスクロールさせる。

 これまで一緒に過ごしてきた思い出の数々が流れていくのを、僕はぼんやりと眺めていた。

 菜花さんはピタッと指を止め、1枚の写真を選択する。それは神社で僕が小説を書いている写真。その写真を菜花さんは削除し、そしてさらに、削除済みのデータからも削除した。

 

「はい。これで四葩君を縛りつけていたものはなくなったよ。ずっと私のわがままに付き合わせちゃってごめんね」


 そう言われて初めて、僕は菜花さんのその行動の意図を理解した。

 僕はどうして菜花さんの小説を書いていたのか、その理由を僕はとうの昔に忘れてしまっていたのだ。


「どうしたの? もしかしてまだ写真が残ってるって疑ってる? 心配しなくても大丈夫だよ。そもそも本当はみんなにバラす気なんてなかったし」


 何も言わない、動こうともしない僕に菜花さんは責め立てるように淡々と言葉を連ねていく。


「もうこれで一緒にいる意味は無くなったよ? 帰らないの?」


 ……それはあまりにも冷たい言葉だった。

 

「なんだよ……それ……」


 やっとの思いで、僕の口から出た久々の言葉はそれだった。

 湧き上がる怒りで、体が芯の底から震える。

 なんだかんだ菜花さんと一緒に色々なところに行って、2人の時間を過ごして、僕は彼女のことを……友人だと思っていたんだ。

 でも、結局そう思っていたのは僕だけで、菜花さんにとって僕は自分の小説を書いてくれる存在に過ぎなくて……それが無くなってしまえば、彼女にとって僕は無価値で……。

 それに気付いた瞬間、目頭が熱くなった。

 僕は置いていた鞄を持って立ち上がる。

 ここに残ったところで僕には何も出来ないし、ただ嫌な想いをするだけ……。

 僕は何も言わず、菜花さんの部屋を出た。

 玄関まで降りると、ユキカさんとヒナタさんがやって来て、2人して不安そうな表情を浮かべていた。


「……すみません。お邪魔しました」


 そう言って、2人の返事を待たずに僕は家を出た。

 家を出てから僕は逃げるように走って、走って、足が疲れて動かなくなるまで走り続けた。

 足を止めて走ってきた道を振り返ると、当然そこには菜花さんの姿はなかった。

 ……これでようやく解放されたはずなんだ。

 たった1枚の写真と一緒に消えてしまうぐらい、僕らの関係は脆いもの。

 結局はその程度のもんだったんだ。

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