『趣味と夢』

 風が体に当たり、心地の良い涼しさを感じる。

 今日は暑くもなければ寒くもなく、秋らしい丁度いい気温でツーリングにはもってこいの日だった。

 僕はカブのアクセルを緩め、シーソーペダルを踏み込む。

 ガチョンッ――という音と共にギアは3速から4速に切り替わり、僕は再びアクセルを回し、カブは更に加速する。

 いつも僕がカブに乗る時は目の前を父さんが走っているが、その姿は今は無い。

 いつもとは違う特別に僕はある一種の開放感を感じながら、菜花さんが待っている神社に向かっていた。

 本当は菜花さんの家まで迎えに行くつもりだったのだが、【近くに目印になる物がなくて家の場所を説明しづらいから、私たちの知っている場所に集合しようよ】という菜花さんの提案で、僕が彼女の小説を書くきっかけになった神社が丁度良い場所にあったので、そこが集合場所に決まった。

 神社が視界に入るところまで来ると、鳥居の前に菜花さんの姿が見えた。

 紺のジーンズにベージュのマウンテンパーカー、と菜花さんの格好は前に僕と遊んだ時と変わらないが、菜花 旭という人間を象徴するいつも剥き出しのカメラは首に掛けられてはおらず、代わりに真っ白なバッグが斜めがけに掛けられてた。きっとその中にカメラは収納されているのだろう。

 

「あっ! やっほー!」


 僕が来たことに気付いた菜花さんは雲が一つもない今日の快晴に張るくらいの元気さを全開に、ヘルメットを担いでいない方の手を高く掲げて振り回し、自己の存在を猛アピールする。

 ただでさえいつも高いテンションが今日は一段と高いのが一目で分かった。

 コスモス畑を観に行くだけなのに、何がそんなに菜花さんの心を踊らせるのか。

 僕は呆れながらもふっと軽く笑みを溢し、菜花さんのすぐ目の前に停車した。


「どうせ菜花さんしかいないんだから、そんなに自己主張しなくたってちゃんと分かるよ」


「えへへっ。だってしょうがないじゃん。昨日の夜に四葩君から連絡を貰ってから、ずっーと今日が楽しみだったんだもん。早く来ないかな? まだ来ないかな? って長い間待ってたんだから、こんなにはしゃいじゃうのも当然だよ」


「いや、長い間って……」


 僕は自分の腕時計に目を向ける。

 今の時刻は午後の2時13分。

 僕たちの集合時間は午後の2時30分であり、たった今到着した僕でさえ17分も早いのだ。 

 それなのに菜花さんが待っていたということは……。


「菜花さんはいつから待ってたの?」


「えっ……あっ⁈ わ、わわっ、私もついさっき着いたばかりだよ⁈ 長い間待っていたっていうのは言葉のままの意味じゃなくて、楽しみだったから気分的にそう感じたって言いたかっただけで……と、とにかく!」


 慌てふためきながら菜花さんはそう言うと、いきなり彼女はヘルメットを被り、ドカッと勢いよく僕の後ろの荷台に座り込んだ。

 人1人分の重さが加わったカブの車体が少しだけ沈み、軽く右側に流れる。

 不意を突かれた僕は危うくカブと菜花さんごと転倒しそうにもなるも、なんとか踏み止まり、まだ走ってもいないのに怪我をするという最悪の事態は免れた。


「約束の時間に遅れるのは駄目だけど早く着くのに越したことはないんだし、私がいつから待っていようがどうでもいいじゃん! そんなことよりもこんなところで時間を使うなんて勿体無いよ! さぁ、出発しよーう!」


 もしかしたら転倒して怪我をしていたかもしれないというのに、菜花さんは右手の握り拳を空に突き上げ、声高らかに言った。

 そんな呑気な彼女に僕は額を片手で押さえながら浅くため息を吐く。

 前に出掛けてからも僕たちの関係に進展は無く、学校では全くと言っていいほど関わらないし、今週の菜花さんはチャットアプリ上でもやけに静かだったので忘れていたが……そういえばこの人はこういう人だった。

 危ないから急に乗り込むのは止めてくれと注意しようと思ったが……それで落ち込まれて後々まで引きずられても困るので、「はいはい、そうですね」と僕は返事をして、シーソーペダルを2回踏み込んでギアを1速に戻し、ゆっくりとカブを発進させる。

 たったそれだけのアクションを起こしただけなのに、菜花さんは「おおっ」と感嘆の声を漏らした。

 僕はまたすぐにシーソーペダルを踏み込み、2速、3速、4速とギアを上げ、更にカブを加速させる。

 特別なことなんて何一つとしてないのに、また菜花さんは「おおーっ」と感嘆の声を漏らした。

 ……なんか、あれだ。なんでもない一々の動作にこうも大袈裟に反応されると、なんだか気恥ずかしいし、運転に集中できない。

 僕はこれ以上菜花さんがちょっとした動作で反応しないよう、彼女と会話をすることにした。


「ところでさ。そのフルフェイスのヘルメットはどうしたんだ? まさか今日のために買ったとか……」


「ん? これ? 違う違う。これは私用のヘルメットで昔から使っている物だよ」


「え? 菜花さんってバイクの免許持ってるの?」


「ううん、持ってないよ。前にも話したけど、私のおばあちゃんがカブに乗ってるんだ。だからおばあちゃんは私が小さい時から私をよく後ろに乗っけて色々な所に連れて行ってくれてね。その時から使い続けている物なの」


「あぁ、そういうことか」


 菜花さんの話を聞いて、僕は彼女を後ろに乗せて走り出してから感じていた些細な違和感の正体と、その理由に納得がいった。

 家を出る前に父さんから「2人乗りは1人の時と感覚が違うから気を付けて運転するんだぞ」と僕は注意されていた。しかし、菜花さんが僕の後ろに乗せてから登りの加速の伸びの悪さを感じつつも、父さんの言っていた曲がりづらさや運転のしづらさは感じず、乗っている感覚は1人の時と然程変わらなかった。

 小さい頃から菜花さんはおばあちゃんの後ろに乗せてもらっていたと菜花さんは言っていたので、2人乗りだけとはいえ、もしかすると菜花さんは僕よりもバイクに乗っている回数は多いのかもしれない。


「四葩君は半キャップにゴーグルなんだね」


「こういうバイクならフルフェイスやジェットヘルよりもこっちの方が様になるかなぁ、と思って」


「確かにそっちの方が合っているかも。でも、四葩君のお母さんは四葩君が危ない目に合ってほしくないからバイクに乗らせたくはないんだよね? だったら、安全性の高いフルフェイスのヘルメットにしなさいとかって言われなかったの?」


「そういことは全然言われなかったよ。状況によってはフルフェイスやジェットヘルが必ずしも安全って訳ではないしな。ある芸人さんがバイクの事故に遭った時の話なんだけど、その芸人さんは一命を取り留めはしたけど、半キャップだったから顔面がぐしゃぐしゃになってしまったんだ。でも、もしその芸人さんがフルフェイスを被っていたら顔面は無傷でも首に全部の衝撃がきて死んでたかもしれないんだってさ」


「うえぇ⁉︎ 私がフルフェイスを被ってるのにどうしてそんな怖がらせるような話をするの⁈ やめてよね!」


「いや、そんなつもりはなかったんだけど、話の流れというか……まぁ、さっきの話は特例で、色々な面で言えば半キャップよりフルフェイスやジェットヘルの方が安全性が高いのは確かだから、そっちの方がいいとは思うよ」


「……絶対に事故らないでよ」


「そんなに心配しなくたって、事故らないように細心の注意を払って運転するから大丈夫だよ。……多分」


「多分って言った⁈ 嘘でしょ⁈ もっと自信を持ってよぉ!」


「いくら自信を持とうが注意して運転しようが、起こってしまうのが事故だろ? 絶対に大丈夫だとは言えないな」


「それは……そうかもだけどさぁ……」


 菜花さんは弱々しく言って、押し黙った。

 運転中だから後ろを振り返れないので、菜花さんがどういう表情をしているかは分からない。

 僕はもしかしたら、いらない不安を菜花さんに抱かせてしまったのだろうか?

 ハンドルを握っている人間が自分の運転を過信しているよりも、事故が起こらないとは限らないという心構えで運転していた方が僕的には安心なんだけど……。まぁ、でも、運転に自信がないので事故るかもしれませんと運転手が言っているのも、確かに怖い気がする。

 嘘でもいいから「絶対に大丈夫」と言っておくべきだったな……というか、今からでも遅くはないか。

 まだ1度も事故ったことないから絶対に大丈夫だよ――そう僕が言おうとした、その時だった。


「顔面がぐしゃぐしゃになるよりは、綺麗な顔のまま死んだ方が家族は悲しまないかもね……」


 菜花さんはボソッと呟くような声で、いきなりとんでもないことを言い出した。


「不安にさせるようなことを言った僕が悪いとは思うけどさ……縁起でもないことを言うのはやめてくれ……」


「あっ、ごめん。独り言みたいなものだから気にしないで」


「どんな独り言だよ。完全に僕に対してのあてつけだっただろ」


「違うよ⁈ 本当にただの独り言だったの! ほら、私さっき家族は悲しまないって言ったでしょ? あてつけだったら、私は顔面ぐしゃぐしゃになりたくないなぁ、とか、今日が命日かぁ、とかって言うよ」


「家族を使うことによって、より一層強い精神攻撃をしようっていう菜花さんの作戦じゃなくて?」


「四葩君は私のことをどれほどの悪女だと思ってるの⁉︎ ほんと〜に独り言だったんだってば! もう……はい、この話はこれでお終い! ちゃんと運転に集中する! じゃないと私、四葩君のせいで本当に死んじゃうかもよ!」


「やっぱりさっきのあてつ――」


「しゅーうーちゅーうっ!」


 菜花さんに背中をバンバンッと叩かれ、僕の体――というよりカブごとぐらりと小さく揺れた。

 これ以上この話を続ければ本当に僕たちの命は危ないと、身の危険を感じた僕は黙って運転に集中する。

 ……賑やかな音がなくなり、カブのエンジン音と風を切る音だけが僕の耳に届く。

 慣れているはずの音。なんなら数分前までは当たり前だった音に、どうしてか僕は心寂しさを感じていた。

 そんな気分になっていたからだろうか。先ほど菜花さんが言っていたことが頭の中で甦り、ふとそれが気にかかった。

 顔面がぐしゃぐしゃになるよりは、綺麗な顔のまま死んだ方が家族は悲しまないかもね――というその言葉。

 家族なら普通そうは思わないのじゃないだろうか?

 ……あぁ、いや。家庭内事情なんて人それぞれだから普通なんて言葉を使うのは間違いか。でも、少なくとも僕の両親なら、僕が死ぬよりも顔面がぐしゃぐしゃになっても生きていた方が悲しまないと思う。

 顔面の潰れ具合にもよると思うが、今の医療ならある程度の回復は見込めると思うし、元に戻る可能性があるのなら元に戻らない命を失うよりはマシなはずだ。

 ……まぁ、でもそれは元々の顔が大したものではない僕の話であり、菜花さんのように顔が整っている人なら話は別なのかもしれない。

 それに僕と違って菜花さんは女性だ。僕が小学生の頃、クラスメイトの男子が女生徒を突き飛ばして顔に怪我をさせ、担任の先生が凄く怒っていた記憶がある。その担任の先生は顔を真っ赤にさせながら「女性にとって顔はとても大切なもの」だと怒っていた。

 もしかしたら菜花さんの両親もその時の担任と同じで、そういった考えを持っているのかもしれない。

 ……結論、人の家庭は人の家庭であり、僕はただ思考を巡らせるところまでは許されるだけで、人の家庭内事情に対してとやかく言うべきではないことは確かだ。

 ……あぁ、そうだ。結局は他人事だ。僕と菜花さんの関係は所詮クラスメイトなんだ。

 だから考える時間は無駄であって、ただただ僕は傍観していればいい。

 それが無難かつ、きっと正しい選択のはずだ。

 でも……それでも僕は――


「菜花さんが死んだ方が悲しいな……」


 気が付いたら、そう言葉が勝手に口から出ていた。

 ポツリと囁くように出た言葉。

 だからか、僕がその後しばらく黙って運転していても、菜花さんからは何の反応も返ってこなかった。

 意識して出した声ではなかったから、きっとエンジン音や風の音に遮られて僕の声はかき消されてしまったのだろう。

 伝えたかった訳ではないし、聞こえていないのであれば、それでいい。

 そう思った瞬間だった。

 掴まれていた両肩から菜花さんの手が離れ、僕の腹にぎゅうと圧迫感がかかった。

 ヘルメットの後ろ部分にコツンと硬い物が軽く当たる。そして――


「ありがとう……」


 菜花さんの消え入りそうな声が、首元のすぐ後ろから聞こえた。

 それと同時に僕は今、菜花さんに背後から抱きしめられている形になっていることに気付いた。

 異性と体が密着している動揺と羞恥が濁流のように一気に僕の心になだれ込む。

 思考がピタリと止まり、耳に勝手に入り込んでくるエンジン音と風の音を、ドッドッドッと自分の心臓が早鐘を打つ音が内側から呑み込んでいく。

 どうしたらいいかも、何を言えばいいかも分からないまま、僕はただカブを走らせる。

 その状態はかなり長く続いて、時間にすると3分ぐらい……いや、もしかしたら僕が体感的にそう感じただけで、本当はたったの3秒にも満たないぐらいの一瞬の出来事だったのかもしれない。

 菜花さんは僕から体を少し離し、腹の前に持ってきていた手を解いてまた僕の肩の上に置き直した。

 

「あはは……いやぁ、ごめんごめん。これから綺麗な景色を観に行くのに、なんか私のせいで……変な空気になっちゃったね……」

 

 ぎこちない調子で菜花さんはそう言ってから、また、あははと笑う。


「別に……そんなことはないと、思うけど……」


 平然を装うとした僕もまたぎこちなかった。

 お互いの顔は見えないけど、多分僕たちは同じような表情をしているんだと思う。


「そう? なら……いいんだけど……」


 菜花さんのその言葉を最後に会話はそれ以上は続かなかった。

 今までに味わったことのない沈黙が僕たちの間に流れる。

 それがなんともむず痒くて、もどかしくて……なんでもいいからとにかく話をしようと思った矢先、菜花さんが突然「あっ!」と大袈裟に声を上げて目の前の上の方を指差した。

 菜花さんが指を差す先には悩みなんて一つも抱えていなさそうな、バカみたいに真っ青な空がどこまでも広がっていた。


「見て見て! 今日の空、すっごく綺麗だよ! 雲が無くて、濃くて色鮮やかな青色で、いつもよりも高いところにあるように見えるのに……でも、あと少し手を伸ばせば届きそう」


 菜花さんは伸ばしている手をパーに広げ、届くはずなんてないのに空を掴もうとする。

 菜花さんが掴もうとしている青空は彼女の言う通りで、確かに美しかった。

 目の前に広がる空は本当はいつもとなんら変わらないものなのかもしれない。

 僕が1人で見上げていたのなら、なんとも思わないような空だったのかもしれない。

 菜花さんが綺麗だと言ったから、僕はただ同調してそう想っているだけなのかもしれない。

 それでも、美しいと感じたこの心に嘘はなかったから、僕は「そうだね」と相槌を打ってカブを走らせ続けた。



 


 カシャンッ――とシャッターの切られる音が僕と菜花さんしかいないコスモス畑に響いた。

 菜花さんは撮った写真を確認し、ふふっと微笑すると、妖精みたいな軽ろやかな足取りで次の撮影スポットに走っていく。

 ここに着いてからというもの菜花さんはずっと上機嫌で、何枚も何枚も沢山の写真を撮り続けていた。


「う〜ん、綺麗なコスモス畑! ところで――」


 菜花さんは両腕を広げながら大きい声でそう言って、くるりとこちらを振り返る。

 その彼女の顔はここに来てから初めて見せる、不機嫌そうな表情だった。


「四葩君はどうしてそんな不満そうな顔をしているの?」


 菜花さんのその質問に僕はすぐに答えを出さず、辺りを見渡す。

 彼女が言った不満そうな顔をしている自覚は正直あった。

 その理由は……この場の風景にある。

 僕たちの周り一面にはコスモスが咲いていた。

 …………うん。確かに一面には咲いてはいるんだけど、満開というよりは全体的にまばらといった、それぐらいの咲き加減だった。

 しかもそれらの更に周りを人よりも大きな電気柵が囲んでおり、真っ黒なそれは檻のようにも見えた。

 家を出る前に父さんから、高原のコスモスは早咲きのものが有名であり、見頃の時期が過ぎつつある事と、鹿にコスモスを食い荒らされて全滅した過去の出来事から電気柵に囲まれていて、僕が期待している景色は見られないかもしれないと聞かされていた。

 行く場所を変えた方がいいんじゃないかとも言われたが、それでも僕がここを選んだのは、家のリビングに飾られている家族写真に写っている場所がこの場所であり、その写真の中に写る僕たちはみんな満開に咲き誇るコスモス畑をバックに幸せそうに笑っていたからだ。

 多少の違いはあれど大きな変化はないと、そう思っていたけど……それは見通しが甘い僕の思い違いだった。

 

「昔来た時は電気柵なんて無かったし、もっとコスモスが咲いていたから……」


「えぇ〜? なになに? もしかして私に綺麗な景色を見せようとしてたけど、思った様な景色じゃなかったから落ち込んでるってわけ?」


 菜花さんはニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。

 いつもの僕なら「そんなわけないだろ」と言うところだが――今の僕はそんな軽口を叩けないほどに気落ちしていた。


「……そうだよ。菜花さんは僕に綺麗な景色を見せてくれたのに、なんか申し訳ないなぁ……って思って」


 それは嘘偽りの無い本音だった。

 まさか僕の口からそんな言葉が出るとは菜花さんも思っていなかったのか、彼女は面を食らったような顔をして、急にあたふたとうろたえた。


「い、いやいやいや⁉︎ ちょっと意地悪な言い方しちゃったかもだけど、私はこの景色だって美しいと思うよ⁉︎ 前にも言ったけど景色の美しさって優劣が付けられないものだって私は思ってるし、だっ、だからそんな顔しないでよ!」


 菜花さんは握り拳を上下にぶんぶんと振り、言葉だけではなく体を使ってまで自分が嘘を言っていないことを表そうとし、僕を一生懸命に元気づけようとしてくれた。

 わざわざそんなことをしてくれなくても、コスモスの写真を撮っていた時の菜花さんの反応を見れば、彼女が嘘を言ってないことは分かる。

 でも、そういうことじゃないんだ。

 僕はここが今よりも美しかった時代を知っている。家族写真に写っていたあの景色。あれと同じ景色を菜花さんに見せてあげたかった。

 さらに言うなら、菜花さんが今の景色で喜んでくれているからこそ、もっと美しかった時の景色を見てもらいたかったのだ。


「そう……だね。菜花さんが満足してるならそれでいいか」


 そう菜花さんに向けて言いはしたものの、それは満足してない自分を納得させるためのものだった。

 今出来る精一杯の笑顔を作って、元気になったフリをして……でも、それはすぐに菜花さんにバレてしまったようで、彼女は頬をぷくっと膨らませて僕を睨めつける。


「そうだよ。私が満足してるんだからそれで良いじゃん」


「いや、だからそう言って――」


「四葩君は口で言うだけで、心ではそう思ってない!」


 菜花さんはそう言うや否や、首に掛けられているカメラを操作し、それを僕にへと差し出した。


「この写真見てみて」


 写真を撮る時と同じ鋭い眼差しで菜花さんに言われ、その迫力に押された僕は何も言えずに差し出されているカメラをおずおずと受け取る。

 カメラのモニターに映し出されている1枚の写真。

 それは画面のど真ん中で一輪の薄ピンク色のコスモスが堂々と写っている写真だった。

 真ん中に写るコスモス以外の景色はぼかしが入ったようにボヤけていて、赤や白や濃いピンク等の濃い色の陰に隠れている普段はパッとしない薄ピンク色のコスモスが、まるで自分だけを見ろと言わんばかりに咲き誇っている。

 全体から単体に焦点を変えるだけでこんなにも見方は変わるのかと、僕は感心しながらその写真に魅入っていた。

 その僕の感情はたぶん表情にも出ていたんだと思う。

 ふふんと菜花さんは鼻を鳴らすと、誇らしげな表情を浮かべた。


「風景なんて天候や時期や状況に凄く左右されるし、目に見えている範囲の全てが良い景色の時なんてほとんどないよ。美しい部分もあれば、悪い部分もある。だったらさ、その時その時の良い部分だけを切り取って見れば良いんだよ」


 菜花さんはそう言って最後に「……そんなのはただの都合のいい考えだって、人によっては言われちゃうかもしれないけどね」と付け足し、へへへっ、と苦笑した。

 さっき菜花さんが言ったあれは、きっと彼女にとって写真を撮る上での心構えのようなものなのだろう。

 ポジティブなだけなのか、人としての性格が良いのか……いや、きっとその両方か。

 ネガティブな僕と違ってポジティブで、性格が良くない僕と違って性格の良い菜花さんのことが、また少しだけ……前よりも本当に少しだけだけど、羨ましく思えた。

 そして少しだけ……それも本当に少しだけだけど、僕は菜花さんのことをもっと知りたいと思った。


「菜花さんはどうして写真家になりたいと思ったの?」


「うぇ? ど、どうしたの? 藪から棒に……」


「それは……菜花さんの小説を書く上でとても重要なことだから」


「あぁ、なるほどねぇ。でも、写真を撮るようになったきっかけは前に夕日を見た時に話したよ?」


「写真を撮るのは趣味でも出来るだろ。だけど菜花さんはプロになろうとしている。僕はそれが知りたいんだ」


 自分でもどうしてしまったんだろうと思うくらいに僕は真剣だった。

 先に言った通り、菜花さんの小説を書く上で彼女の夢に対する想いを書くことは絶対に無くてはならない程に重要なものだと思う。しかし、それ以上に僕は小説うんぬん関係無しに、菜花さんの夢に対する想いを知りたかった。

 菜花さんにもいつもの僕とは違う真剣さが伝わったのか、彼女はすぐには語らずに、考え込むような表情で視線を落とした。

 そしてしばらくして考えが纏まったのか、菜花さんは顔の前に両手でカメラのポーズを作り、それをコスモスへ向けた。


「そりゃあもちろん、写真を撮ることが好きだからだよ」


 そう言って菜花さんはカメラのポーズを僕に向ける。


「その時その時にしか訪れない、一期一会の忘れたくない美しい景色を自分の手で切り取りたい。そしてその美しい景色を見えなかった誰かに伝えてあげたい。だから私はプロの写真家になりたいの」


 菜花さんはいつもの調子で明るく笑いながらそう言って、カメラのポーズを解いて両手を下に降ろした。

 顔を隠すものが無くなった菜花さんの大きな丸い瞳は……どうしてか揺らいでいた。

 口をほんの少し開いて、閉じて。またほんの少し開いて、閉じてを菜花さんは繰り返す。

 菜花さんがまだ何かを言おうかどうかを迷っていることは明確だった。

 どうしたの?――と僕は催促せずに菜花さんの言葉を待つ。

 僕が何かを言ってしまえば、菜花さんが言おうとしている話の続きを聞けなくなるような、そんな気がしたからだ。

 少しの間菜花さんと見つめ合いを続けていると、彼女は唇を噛み締めるように閉じ、瞳いっぱいに涙を浮かべた。

 僕は菜花さんがそんな表情をするなんて思っていなかった。

 そんな表情をするくらいなら、言わなくたっていいと思った。

 でも、僕は菜花さんを止めることが出来なかった。

 菜花さんのその表情は悲しみだけで出来る表情ではなかったから。

 菜花さんのその表情の中には、確かな覚悟があったから。

 

「そう思っているのは本当だよ……」


 菜花さんが悩みに悩み抜いた末に出した開口一番のその声は震えていた。


「でもね……1番の願いは……私の存在を誰かに覚えておいて欲しいという想いなのかも……」


 喋りづける菜花さんの声に泣くのを我慢しているかのような声が次第に混ざる。


「ははは……酷い話だよね……。自分がすごい人だって思われたいがために……私は写真を撮ってる……」


 つっかえつっかえで喋る菜花さんの姿は今にも崩れ落ちてしまいそうな、そんな危うさがあった。


「プロの写真家はさ……きっとこれっぽっちもそんなこと思ってないよ……。ひたむきに写真と向き合ってる。撮っている自分の姿なんて頭の片隅にもないはずだよ……」


 瞳いっぱいに溜まっていた涙が、ついにぼろぼろと菜花さんの頬を伝って流れる。

 泣きかけな顔をしている菜花さんを何度か見たことはあったけど、涙を流す姿を見たのはこれが初めてだった。

 ギュッと心臓を鷲掴みされているような痛みが、僕の胸を襲う。

 

「私にはこれしかないのに……写真家になれるような心構えを持っていない……。私みたいな人間が写真家になっていいはずがない……」


 綺麗な顔で涙を流すだけだった菜花さんの顔がとうとう瓦解した。

 抑えきれなくなった感情が表情に溢れ出していた。

 クシャクシャにして、真っ赤にして、涙でビショビショになったその顔は人に見せられたもんじゃないくらいに酷いものだった。

 けれど、葛藤し、苦悩し、傷心し、夢に対して一生懸命な菜花さんのその姿は、とても美しいものだとも思えた。

 だけど、やっぱりその姿は菜花さんには似合わなくて……。


「うわぁ……なに泣いてるんだろう……ごめんね。いきなり、こんなの……困っちゃうよね……」


 菜花さんは何度も何度も涙を拭うけど、その度に涙はどんどん溢れて、彼女の顔をさらに濡らした。

 どうしようもなくなった菜花さんはそのままその場にしゃがみ込む。

 僕と菜花さんの2人だけしかいないコスモス畑に、彼女の啜り泣く声だけがこだましていた。

 僕は泣き続ける菜花さんをただ黙って見ていた。

 今の菜花さんにかけるべき言葉が何も浮かばなかった。

 きっと僕は菜花さんに対して、勝手な人物像を抱いていたんだと思う。

 菜花さんは夢に対してひたむきに真っ直ぐで、迷いなんてなくて、自信家で、そんな強い人間だと決め付けていた。

 だけど……それは違った。

 菜花さんに神社で話しかけられる前までは僕たちに似ているところなんて、何一つとしてないと思っていた。暗い僕と明るい彼女。その性格は真逆で……けれど、夕陽を見た時に話した『幸せなまま終わりたい』という思想といい、僕と菜花さんには通じ合えるところがあった。

 そして、今回も――


「僕も一緒だ」


 言おうかどうか、それを考えるよりも先に言葉が出ていた。

 菜花さんは「え?」と声を上げ、僕を見上げる。

 彼女と目が合った。

 その目には悲しみやら驚きやら期待やら、色々な感情が入り混じっていた。

 もう僕の頭の中には、これ以上言うのをやめておく、という選択肢は残されていなかった。


「菜花さんと同じことを思いながら小説を書いてる。自分が誰かの記憶に残りたいって」


 菜花さんと違って、僕はそれを言うのに悩む必要なんてなかった。覚悟も必要なかった。

 僕の口から次々とスムーズに言葉が綴られていく。


「自分が創ったもので誰かを笑わせたり、感動させたり、そうやって誰かの心を動かすことが出来れば、勉強も運動も出来ない、なんの取り柄もないこんな普通以下な僕の人生にも……何かしらの価値が付くと思ったんだ。こんな自分でも存在していいんだって、そう思ったんだ」


 喋っていて、ほんの少しだけ悲しくなった。

 僕は読んでくれている読者のためではなく、自分のためだけに小説を書いてる。


「まったく……自分勝手な願いだよな。顔も知らない誰かを利用して自分が救われたいだなんてさ」


 そんな最低な自分を僕は嘲笑った。

 心情を吐露していた時の菜花さんは泣いていたけど、僕は泣けなかった。

 それはとどのつまり、菜花さんにとって写真家は夢であって、僕にとって小説は所詮ただの趣味であることを表しているようだった。

 それに気付いた時、僕の中の何かにヒビの入った音がした。


「……多少の想いの違いはあるだろうけど、ここまでが君と僕の共感し合える部分だ」


 そう言って僕は菜花さんの顔が見えないように、彼女から少し視線をずらした。

 ……これから僕は言わなくてもいい余計なことを言おうとしている。

 やめておけ、と心が激しく警鐘を鳴らす。

 君が写真を撮るのが好きな気持ちに嘘はない。だから君が写真家になりたいと思うなら、理由がどうであれ君は夢を叶えるべきだ。――そう言って菜花さんを励ましてまえば、この話は綺麗に丸く収まるのに。それを分かってはいるのに……けど、止まることが出来なかった。


「僕と菜花さんには決定的な違いがある。僕には才能がない。菜花さんには才能がある。プロの写真家になれるような才能が……夢を叶えられる才能が菜花さんにはあるんだ」


 たったそれだけの違い。

 しかし、それは大きな違いでもあった。

 僕の声に……段々と熱と力がこもっていく。


「したいことがあるのに……その才能がないせいで諦めてしまう人間はそこらじゅうにいる」

 

 思ったような絵が描けなくて、イラストレーターを諦める人がいる。

 思ったような歌声が出せなくて、歌手を諦める人がいる。

 思ったようなセリフや、文章や、物語を書けなくて――小説家を諦める人がいる。

 才能があるのに自分の心構えがどうとかぬかして夢を叶えていいはずがないだなんて……なんと贅沢な悩みだろう。


「承認欲求や自己顕示欲なんて誰にでもあるし、そんなことどうでもいいだろ。したいことがあって、しかもその才能があるのなら絶対にそれをするべきだ」


 そこまで言って、僕はハッと我にかえり、やっと菜花さんの表情に意識を向けた。

 菜花さんはただ辛そうな表情を僕に向けていた。

 あぁ、最低だ。僕がやったことは励ましなんかじゃなかった。才能のない自分自身に対する怒りをぶつけただけだった……。

 本当の本当に……最低だ。


「ごめん……」


「……どうして謝るの? 四葩君が謝ることなんて何もないよ。私を励まそうとしてくれたことは分かってるから」


 僕の謝罪に菜花さんは優しく言って微笑み返した。

 精一杯作ったであろう、壊れかけの微笑みを。

 それは今まで見てきた菜花さんの表情の中で、1番酷いものだった。

 僕はその表情を見て……泣きそうになった。心に感じたことのないくらいの痛みを覚えた。

 ――僕が菜花さんにして欲しかった表情はこういう表情だったか?

 ――僕が菜花さんに言いたかったのはああいうことだったか?

 ――僕が菜花さんに伝えたいと思っていたことは本当にあれだったか?

 いや、違う。そうじゃない。僕が本当に彼女にして欲しかった表情は、言いたかったことは、伝えたいと思っていたことは、そういうものじゃなかったはずだ。

 僕はポケットからスマホを取り出し、小説のファイルを開く。

 それはまだ菜花さんに読ませるはずのなかった『夕焼けと共に』と題を打った小説だった。

 僕はスマホを未だにしゃがみ込んでいる菜花さんに差し出す。


「えっと……これは?」


「小説だよ。前に読ませた菜花さんのことを書いた小説の続きだ」


「え……? でも小説はまだ書けていないんじゃ……」


 菜花さんは濡れている瞳を大きく見開く。

 夕陽を菜花さんと一緒に見たあの日の夜にはほぼ書き上げていたくせに、僕は彼女に前に読ませた部分から何も進んでいないと嘘を吐いていた。

 その理由は色々とあるのだが……1番の理由は『夕焼けと共に』と題を打った小説がまだ納得のいく出来まで仕上がっていなかったからだ。

 カメラを構える菜花さんの姿やあの日見た夕陽の美しさ、それを見た時の僕の感動を僕はまだまだ表現しきれていなくて……だから僕はこの小説をまだ菜花さんに読ませる気がなかったのだが――。


「今の菜花さんに読んで欲しいと思ったんだ」


 僕が本当に言いたかったこと、伝えたかったことはこの小説に込められている気がした。


「……うん。分かった。読んでみる」


 菜花さんは頷いて立ち上がり、僕のスマホを受け取る。

 そして、一途な表情で僕の小説を読み始めた。

 前に読ませた時と同じで、小さな口をキュッと閉じ、大きくて丸い瞳を細かく動かし、画面の端を押さえる右手の親指を少しずつスワイプさせて。

 その読み進めるペースは以前よりもかなり遅かった。

 一言一言を読み逃さないように、しっかりと脳に焼き付けるように、菜花さんは僕の小説を読んでいく。

 声を出して笑ったり、寂しそうな顔をしたり、怒った顔をしたり、目に涙を浮かべたり――小説を読む菜花さんの表情はころころと変わっていった。

 つくづく読ませがいがある人だなぁ、とそう思いながら菜花さんを眺めていると、小説を読み終えたのか、彼女は自分の胸にスマホを押し当て、下げていた視線を僕に戻した。


「やっぱり……四葩君はすごいなぁ……」


 そう言って菜花さんは顔を緩やかに、優しく、破顔させた。

 僕も菜花さんの表情につられて顔を綻ばせた。

 ――あぁ、やっぱり彼女には笑顔がよく似合う。

 僕は預かっていたカメラを菜花さんに渡し、彼女から自分のスマホを受け取る。

 ……才能があれば、小説を読んで貰っただけで僕が菜花さんに伝えたかったことは全て伝わったと思うけど、僕にそんな才能なんて無いし、あの小説はまだ納得のいく出来ではないから……だから、もし菜花さんがあれで満足していたのなら蛇足になってしまうかもしれないけれど、僕は少し言葉を付け足すことにした。


「1番の願いは誰かの記憶に残りたいという想いだって言っていたけど、やっぱり菜花さんにとっての1番は写真を撮るのが好きという想いなんじゃないかな? 好きじゃなけりゃ、何気無い日常の風景なんか撮らないし、前みたいに何枚も真剣な顔して写真を撮ることもしなければ、今日みたいに楽しそうに撮る風景を探すこともしないはずだろ? 多分、菜花さんは自分が思っている以上に写真を撮ることが好きなんだよ。それに、さっき菜花さんは写真とちゃんと向き合えてないって泣いていたけど、向き合えていない人間が泣いたりなんかそもそもしないよ。苦しみながら涙を流して……それが写真に対してちゃんと向き合っている何よりの証拠じゃないか」

 

 少し言葉を付け足すつもりだったのに、喋り出したら言葉は全然纏まらなくて、出てくるのは陳腐な言葉の連続で……でも、それを菜花さんは泣くのを我慢するかのような顔をして、不器用な僕の話を一生懸命に聞いてくれていた。

 もう僕の言葉はこれ以上必要ないのかもしれない。

 でも、最後にこれだけは菜花さんに伝えておきたかった。


「大丈夫。菜花さんは写真家に……いや、きっと凄い写真家になれるよ」


 それはなんの根拠もない言葉だ。

 僕じゃない誰でも言えてしまいそうな、ありふれた台詞だ。

 けれど、菜花さんは大粒の涙を一筋流し――「ありがとう」と、優しく微笑みながらそう言った。





 コスモス畑からの帰り道。その途中にある展望台に僕と菜花さんは立ち寄っていた。

 僕たちが住んでいるこの町は紙の町と称されるほどの工場地帯だ。その工場夜景の灯りと周りの住宅街の灯りが町を煌びやかに彩り、僕たちの視線の先には星空を落としたような景色が広がっていた。

 日本夜景百選に選ばれている、この町の数少ない観光地。

 

「それにしても……」


 菜花さんは小声で言ってから一旦言葉を止め、チラリと横目を向ける。

 そこには1組の若い男女が互いの体を寄り添わせながら、目の前の美しい景色を楽しんでいる姿があった。

 

「どうして美しい景色を次々と恋人の聖地にしていくかなぁ……」


 菜花さんは唇の先を尖らせて不満を吐露する。

 ここの展望台は駐車場にデカデカと赤い文字で【恋人の聖地】と書かれている大きな看板が立てられているくらい、それを売りにしている場所だった。


「独り身にも何の気兼ねなく美しい景色を見せろっつーの。行くとこ行くとこのほとんどが恋人の聖地でほんと嫌になっちゃうよ」


 そんな悪態をついて菜花さんは視線を目の前の景色に戻し、手すりにもたれながら小さなため息を吐いた。

 物憂げな表情で吐かれた白い息はすぐに霧散し、秋の夜空に溶けていく。


「……なんか意外だな」


「何が?」


「菜花さんが撮る写真って景色がメインの時が多いけど、美しい景色プラス幸せそうにしている人たちって構図の写真も多いからさ。恋人の聖地なんてまさにその構図が撮りやすい場所だから好きなんだと思ってた」


「いやいや、そういう場所は確かに好きだけども、恋人の聖地って名前が付けられているのが嫌なの。やっぱそういう場所って自然とカップルが集まってくるでしょ? みんながスマホ使ってツーショットを撮ってる中で、私だけがガッチガチのカメラで写真を撮っているのは場違いな感じがするし、シャッター音とかで周りの雰囲気ぶち壊してないかなぁとか色々と考えちゃうところがある訳でして……」


「へぇ。それこそ意外だ。菜花さんって写真を撮り始めたらそれだけに集中してるって感じだけど、周りのことも気にしたりするんだな」


「そりゃあするよ。景色は私だけのものじゃなくてみんなのものだもん。四葩君だって好きな人と幸せな時間を過ごしている時に邪魔が入ったら嫌でしょ?」


「それは嫌だけど……でも僕は横でシャッター音が聞こえたぐらいで、それが邪魔だとはこれっぽっちも思わないけどな。景色はみんなのもんなんだろ? だったらそのみんなに菜花さんも含まれているはずだ。だからさ……」


 僕は視線を菜花さんが斜めがけに掛けている白いバックに移す。

 この展望台に来てから菜花さんは写真を撮ることはおろか、カメラを取り出すことすらしていなかった。

 僕が何を言いたいかを菜花さんは理解したらしく、「あっ!」と声を上げたが、そのあとすぐに「あー……」と間の抜けた声を出し、どうしてか彼女は気不味そうに僕から顔を背ける。


「大変申し訳ないんだけど……それは四葩君の勘違いなんだよね……」


「勘違い? 隣のカップルに遠慮して写真を撮っていないわけじゃないのか?」


「うん、それが勘違い。私、実は夜景や星空を撮るのは苦手で……三脚を持ってきてたら頑張ってみようかなぁぐらいは思えたんだろうけど今は持ってないし……それにね――」


 目を泳がせながら喋っていた菜花さんは急に険しい顔つきをして口元に手を添え、コソコソ話をするように言葉を続けた。


「もし隣のカップルが『私たちも撮ってもらっていいですか?』って言ってきたらどうするの?」


 ……ん?

 深刻な顔をしている菜花さんと違い、僕は彼女が何をそんなに恐れているのか分からなかった。


「えっと……普通に撮ってあげればいいんじゃない?」


「四葩君は何も分かってないなぁ。人によって撮って欲しい構図は違うし、スマホの機種によって設定の変え方は違うから色々と大変なんだよ? 他人のスマホだからおいそれとは弄れないし……。それに撮ってあげた後に、あれ? なんか思っていたのと違うなぁ……ってリアクションを一瞬してからの『ありがとう』を言われることの心苦しさったらありゃしないのっ!」


「じゃあ菜花さんのカメラで……あぁ、いや。そういうカメラの写真ってパソコンにデーターを落としてからじゃないとスマホに送れないか……」


「それがね、なんと専用のアプリがあるから簡単に送れるんだよ。だから私のスマホに送ってからエアドロップで相手に写真をあげることは出来るんだけど……最初に言った通り、私夜景を撮るのは自信がないから、ガッカリさせるのは目に見えてるので撮りません!」


 手すりに両手を掛けて体を仰け反らせながら宣言する菜花さんに、そこまで嫌なんだなぁと思いながら「ハハハ……」と僕は苦笑する。


「それじゃあ、夜景以外だったなら撮ってあげたんだな」


「うっ……まぁ……そう、だけどさ……」


「やけに歯切れが悪いなぁ。本当は景色関係なしにカップルの写真を撮るのが嫌なんじゃないか?」


「うぅ〜……そうじゃないけど……。だってだって仕方ないじゃん! 前に夕焼けの綺麗な恋人の聖地に行った時、カップルにお願いされて私のカメラで写真を撮ったら大はしゃぎされてさ。その反応を見た周りのカップルも次々にお願いしてきて、私はここの撮影ボランティアかってツッコミたくなるぐらいカップルの写真を撮らされたんだよ⁉︎ 写真を撮る、私のスマホに送る、エアドロで相手のスマホに送るをひたすらに繰り返して、収束した時には夕陽はすっかり落ちて周りは真っ暗で自分が撮りたかった景色が……うぬぅぁぁぁぁぁ……!」


 当時のことを思い出しているのか、菜花さんは頭を抱えながら鬼気迫る表情で変な唸り声を上げる。

 それが原因か、はたまた夜景を堪能し尽くしたのか……間違いなく前者だろうけど、横にいたカップルが僕たちを怪訝そうな顔で一瞥してから駐車場にへと戻っていった。

 写真を撮らなくても君は雰囲気をぶち壊して周りに迷惑を掛けてるよ――と今の菜花さんに言うのは野暮だろうし、思いもしないとばっちりを受けるかもしれないのでやめておこう……。


「でも、幸せそうな人たちを沢山撮れたんだからそれはそれで良かったんじゃない? その時その場所に菜花さんとその人達が偶然居合わせたから撮られた写真。それこそまさに一期一会の美しい景色じゃないか」


「おっ、良いこと言ってくれるねぇ。……でもさ、他にも理由があるんだよね……」


「理由? って何の?」


「恋人の聖地で写真を撮るのに抵抗がある理由」


 菜花さんはそう言って俯きがちに表情を落とした。

 その表情はコスモス畑で写真家になりたい本当の理由を語ろうとしていた時と近しいものを感じさせる顔だった。

 いったいどんな重々しい理由が今から語られるのか?

 僕は覚悟を決め、ごくりと唾を飲み込む。


「恋人の聖地で写真を撮っていてふと我に帰った時さ……私って花の女子高生なのにどうしてこんなカップルだらけの場所で1人写真を撮っているんだろう、って虚しさや寂しさが心に押し寄せて来るんだよね……」


 それを聞いた途端、僕はつい吹き出してしまった。

 そしてそのまま腹を抱えて痙攣しながら、声を押し殺して僕は笑い続ける。

 いや、ほんと。あの覚悟を決めた一瞬の時間さえも返して欲しい。


「うわぁ⁉︎ び、びっくりした〜……。四葩君もそういうふうに笑うことあるんだね。……ん? 笑ってる? ……あー⁉︎ さては私のことを馬鹿にしてるなぁ⁉︎ 笑うな笑うな笑うな笑うなぁっ!」


「いやいや、そりゃ笑うだろ。あまりにもくだらなさ過ぎるし、菜花さんみたいな人がザ・モテない奴のお手本みたいなことを言うなんて思いもしてなかったんだからさ」


「なっ……ザ・モテないぃ? ……あーあっ! そうだった! 今日の四葩君はなんだか優し過ぎたから忘れていたけど、そうやって私のこと虐めてくるような人でしたね! もういいもんっ! 私歩いて帰る!」


「おいおいおい⁉︎ 待て待て待て待て⁉︎ 悪い部分だけをピックアップしすぎだ! 菜花さんみたいに男と簡単に付き合えるぐらいモテそうな人がって意味で言ったんだ!」


「余計に馬鹿にされてるように聞こえるんですけど⁈」


 菜花さんは相当ご立腹なようで僕の制止を聞かずに帰ろうとする。

 ……うん。帰ろうとはしているが、僕が菜花さんの腕を掴んでいるので、か弱い彼女は足を進めようとはしているけど一歩たりとも進んではいない。


「んっー! 離せーっ! この人痴漢ですっ! 誰か助けてー!」


「おまっ、バカっ⁉︎ マジで通報されたらどうすんだよ⁈」


「そん時はそん時! ていうかそれが嫌なら離せばいいでしょ⁉︎」


「ふざけんな! 離せるわけないだろ!」


「ひっ……」


 怒りが込もってしまってつい出てしまった荒々しく大きな声に、菜花さんは小さく悲鳴を上げて怯えた顔を僕に向けた。

 「あっ、ごめん……」と僕は菜花さんの腕から手を離し、頭を下げる。


「……でも、ここからの帰り道は街灯の少ない山道で本当に危ないから……」


「そ、そんなこと分かってるよ。冗談に決まってるじゃん。ここから歩いて帰るなんて、そんなの馬鹿がすることだよ」


「……じゃあ菜花さんは馬鹿ってことでいい?」


「ううう嘘でしょ⁉︎ この後に及んでまだそんなことが言えるの?」


「じょ、冗談だよ。僕のせいで悪い空気になったから場を和ませようかなぁと思って……」


「だとしたら凄い大失敗だよ?」


 ジトーとした冷めた目付きで菜花さんは僕を見つめる。

 ……なんだろう。さっきは流されるがままに僕のせいで悪い空気になってしまったと言ってしまったが、正直なところ菜花さんにも非があると思うのでそんな目を向けられる筋合いはないのだが……。

 ていうかそもそも何の話が原因でこんな状態になっているんだっけ?

 …………あぁ、思い出した。菜花さんが恋人の聖地で1人で写真を撮るのが寂しいと言ったのを僕が笑ってしまったのが原因だ。

 なら、彼女の機嫌を直すには……。


「菜花さんは恋人の聖地で1人で写真を撮るのが寂しいって言ってたけど、そんなこと気にする必要はもうないんじゃないかな? これからは僕が隣にいるわけだし……なんならさっきのカップルだって僕たちをそういう関係だと思っていたかもしれないよ」


「はぇ?」


 菜花さんはすっとんきょうな声を上げて、呆気に取られた顔をする。

 そして、その顔は徐々に赤に染まっていき――今になってやっと僕は自分が言ったことの意味を理解した。

 僕の顔の表面温度もまたぐんぐんと上昇していく。


「それって――」


「ほ、ほら! 僕は菜花さんの小説をこれからも書かないといけないわけだし! だから菜花さんが撮りたい場所に同行しなきゃいけないからさ! 菜花さんからすれば、僕とそういう関係に見られるのは迷惑な話かもしれないけど……」


 何かを言おうとしていた菜花さんの言葉を遮って、僕は一生懸命に誤解を解きにかかった。

 それにしても最後の一言は余計だったかもしれない。

 言いながら僕は自分の言葉に少し傷付き、気不味くなって菜花さんから目を逸らした。


「迷惑だなんて……思わないよ……」


 ぽつりと呟かれた言葉に今度は僕が驚いた顔をさせられる番だった。

 菜花さんの方を振り向くと、彼女は顔を赤くしたまま僕を見つめていて、どうしてかパーに開いた左手を僕の方に差し出していた。 


「なんなら今ここで手ぐらい繋いどく?」


「いや。それは遠慮するよ」


「……あのさ、断るにしてもそうやって即答するのは良くないよ。ていうかなんで遠慮するの? 私の手ばっちくないと思うけど?」


「別に菜花さんの手が汚いなんて思ってない。でも、僕たちって本当に付き合っているわけじゃないんだからさ。そういうのは本当に好きな相手とじゃないとしちゃ駄目だ」


「えー、何それ。手ぐらいで大袈裟過ぎでしょ」


 菜花さんは僕の言ったことが可笑しかったみたいでケラケラと笑う。

 僕はそれに対し怒ることも悲しみを抱くこともしなかった。

 おかしいのは確かに僕の方であって、その程度の価値観は中学生までに破棄しておくべきで、気持ち悪い想いであることは自分自身がよく理解していたからだ。

 だから、笑っている菜花さんが正しいと……思うんだけども……。


「あのー……そこまで笑うことではないんじゃないかな……」


 とうとう涙まで流し、それを拭いながら笑い続ける菜花さんに僕は呆れながら言った。 

 まさかこんなにも笑われるとは思ってなかった。

 怒りや悲しみを抱くことはやはり無いが、それでも恥ずかしさが僕を襲う。

 先に僕は菜花さんのことを笑ってしまったが、その時の彼女もまた今の僕と同じ気持ちだったのかもしれない。


「あー、笑った笑った。四葩君って恋愛小説書いているからもっと大人らしい恋愛観を持っているんだと思ってたけど、意外と可愛らしいところもあるんだね」


 ひとしきり笑ってから菜花さんはそう言うと、まだ笑いきれていないのか「ふふっ」と軽笑いを漏らした。


「はいはい。そうですよ。子どもっぽい考えであることは自分でもよーく理解しています」


「あっ、へそ曲げた」


「……別に曲げてないけど?」


「もう、そんなに拗ねないでよ。笑いはしたけど馬鹿にはしてないんだから。むしろその逆で……四葩君のそういう恋愛観、私は好きだよ?」


「…………やっぱり馬鹿にしてるだろ」


 そうは言いながらも、菜花さんが本当に馬鹿にしていないことは分かっていた。

 菜花さんと一緒に過ごしていて気が付いたことだが、案外僕は単純な人間らしい。

 それと、菜花さんが嘘を吐くのが下手な素直な人というのも相まって、大勢の人が気持ち悪がるような考えに好感を抱いてくれている彼女に僕は少しだけ……本当に少しだけだけど、嬉しさを感じていた。

 だから僕が言ったあれは照れ隠し。

 しかし、そんな僕の本意を知らない菜花さんは「してないってば!」と頬を膨らませて反発する。


「軽い気持ちでしちゃうよりは全然いいじゃん。私だって手を繋ぐ以上の……例えばハグだったり、キ……キスだったりはお互いの信頼関係が相当のものじゃないとしちゃダメだと思うし……だからさ、四葩君のその恋愛観を四葩君は大切にしていくべきだよ」


 菜花さんはそう言って朗らかに笑った。

 それは彼女の奥に見える煌びやかな景色に負けないくらい、輝いていて綺麗な笑顔だった。

 僕にとってそれはあまりにも眩しく、僕は菜花さんから視線をズラして夜景に目を向けた。


「言われなくたってそうするつもりだったけど……でも、ありがとう」


 僕のその礼に菜花さんはふふっと嬉しそうな笑い声だけを返し、彼女もまた視線を夜景に向けて、僕との距離をわざわざ詰め寄る。

 人1人分が入れるくらいのスペースが狭まり、体を少しでも揺らせば菜花さんの体に当たりそうな程に、僕と彼女の距離は近かった。


「……急に何?」


「んー? 手を繋ぐのは嫌みたいだけど、これぐらいなら許されるかなぁと思って」


「……僕の余計な一言のせいで勘違いしているけど、僕がさっき言いたかったのは付き合っているわけじゃないからわざわざ恋人っぽいことをする必要はないってことで――」


「ねぇ」


 たったそれだけの言葉だった。

 怒鳴り声でなければ威圧するような声でもない、いつもよりも僅かに低いぐらいの声だった。

 僕の言葉を遮ったその菜花さんの声に、どうしてか僕は喋るのを中断した。

 彼女が今から言おうとしていることを聞かなければならないと、そう思った。


「四葩君は好きな相手とじゃないと手を繋ぐ気もなければ寄り添い合う気もないんだよね。なら……その、恋人ってやつ? それってさ――」


 手すりに乗せている両腕に顔の下半分を隠すように埋める菜花さんが、僕の方に目を向ける。

 その目は酔人のようにまどろんでいた。

 妙に惹き込まれる、そういう目だった。

 

「私じゃあ……ダメかな?」


 ――その言葉が僕の耳に届いた瞬間、時間が止まってしまったような、そんな錯覚を覚えた。

 言葉を失うというのがどういうことなのか、その本当の意味を今になってやっと実感した。

 僕には菜花さんの言ったあれが本気なのか冗談なのか見当もつかなかった。

 告白にしてはあまりにも淡白で、勢い任せな感じがして……そもそもあれは本当に告白なのだろか? 

 告白とは――誰かに愛を伝えるということは――人生に於いて重要なもので、流れだったり雰囲気だったりではなく、もっと考えに考え抜いた末にしなくちゃいけないものであって欲しいと、僕は想っていた。

 恋心なんてほとんどの人が抱くもので、だからその分だけ人の恋愛観なんてそれぞれで、それを十分に理解しているから自分の恋愛観を人に押し付けたくは無いけれど……でも僕は自分が大切にしたいと想っている恋愛観や信念を誰かの干渉で曲げたくはなかった。

 だから……きっと僕はいい顔をしてなかったんだと思う。

 菜花さんは両腕に埋めていた顔を上げ、そして――寂しそうに微笑んだ。


「冗談だよ。じょーだん。だからそんな困った顔しないでよ。傷つくなぁ」


「……元はと言えば、菜花さんが変な冗談を言わなければよかったんだ」


「……うん、確かに。それもそうだね」


 「さあって、遅くなる前に帰らないと」――いつもの明るい調子でそう言って菜花さんは踵を返し、駐車場に向かって歩き始める。

 そんな菜花さんと違って、僕はすぐには動けなかった。

 ……さっきからずっと自分の心臓の音がやけにうるさい。――もし僕が「いいよ」と返事をしていたら僕たちの関係はどうなっていたんだろう?

 いや、きっとそれこそ冗談だと、からかわれるに決まっている。――本当に菜花さんがそういった人を傷付けるようなことをするだろうか?

 現に菜花さんは冗談だと言ったじゃないか。――僕が長い間ずっと黙ったままだったからじゃないか?

 そもそも僕は承諾も拒絶もしていない。――じゃあ僕は菜花さんのことをどう想ってる? ……分からない。

 考えても仕方のない自問自答がずっと頭の中で回り続ける。


「おーい? 四葩くーん?」


 遠くから聞こえる菜花さんの声にハッと我に帰り、僕は「ごめん。今すぐ行く」と返事をして駐車場に向かった。


 それからの帰り道、僕たちはほとんど会話らしい会話を交わさなかった。

 疲れもあったけど、やはり展望台での最後の出来事が、現状の居心地の悪い雰囲気を作りだした大きな要因であることは言うまでもなかった。

 住宅街まで下り、そこからは菜花さんの家までの道を彼女に案内してもらって、そして家に到着し――


「バイバイ。またね」


「うん。また」


 と、簡素な挨拶だけを交わして僕たちは別れた。

 人1人分の重量がなくなって軽くなったカブを走らせると、さっきまで菜花さんが触れていた両肩からすぐに熱が消え失せた。

 この季節の夜はこんなにも冷え込むものだったっけ? そんなことを思いながら僕はカブを走らせ続ける。

 自分の家に帰るまでの道中、そして家に帰ってからも、展望台での『私じゃあ……ダメかな?』という菜花さんの言葉が、寂しそうに微笑んだ菜花さんの顔が、何度も何度もフラッシュバックした。

 その度に僕は、あの時どうすれば良かったんだろう、と考える。でも、一度たりとも答えなんてものは出やしなかった。

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