第31話 エルサ、心配する
男性にしては繊細な美貌だと思う。どちらかと言えば中性的なのだろうか?こうして印象的な黒い瞳が閉じられていると、特にそう感じられる。
生気が感じられない、美しい彫像のような顔だ。
ベッドの上で羽根布団に包まれて微動だにしない皇子の、額に、頬にそっと触れてみる。その驚くほどの冷たさに、シャルはぞっとして、身体を震わせた。
震える指で唇に触れ、息をしているのを確かめて、漏れかけた嗚咽をこらえる。
大丈夫。死んでいるわけではない。意識が戻らないだけだ。シャルを救い出してくれたあの日から。
ほぼ一日眠り続けたシャルは、目覚めるとすぐ、両親から事のいきさつを、両親が知る限りのことを、聞かされた。自分がブチ切れてやらかしたことも。その後、皇子が助けてくれたことも。
シャルが皇子の安否を尋ねると、両親は、傷の方は大丈夫だと言った。が、見舞いに行くのは、少し待つようにと。せめて、マリーナが注文した
向こうは後始末でいろいろ大変なのだと言われると、
二日後、思いのほか早く転送されてきた新たな
アルフォンソがシャルを救い出した直後に倒れたこと。傷そのものの治療はうまくいったはずなのに、それから意識が戻らないのだということを。
今なお、皇子の意識が戻る兆しはない。今日で、あの日から数えて、そう、かれこれ6日も経つのに。
急ごしらえの
「アルフォンソ様、あの女との戦いで、少しは私はお役に立てたのかしら?それとも、邪魔になっただけかしら?」
深い眠りに沈むアルフォンソの表情はなぜかひどく穏やかに見えた。
その額にかかる黒髪をかきあげてやる。思いのほか柔らかな、その感触にまたもや泣きたくなる。
自分のせいだ。皇子がこんな目にあったのは。あの時、迂闊に魔障壁バリアの張られた部屋から出てこなければ。あの女の口車に乗せられて拉致なんかされなければ。
そもそも自分が人質なんかにならなければ、皇子が深手を負うことなどなかったはずだ。
レダと名乗っていた、あの暗殺者。
あの女が語ったことは、どこまでが事実なのだろう?
大いなる伝説の『銀の聖女リーシャルーダ』。彼女は本当にこの世の滅亡を願って転生し続けたのだろうか?
そんなことありえない。リーシャがそんなことを願うなんて。
囚われて眠らされてからベッドで目を覚ますまでの記憶は、正直なところ、かなり曖昧だ。ただ、とても鮮明な夢を見たことだけは覚えている。あれは、たぶん、黒竜の最後の記憶の名残。その夢の中で、あの時、確かに、別れを告げる声を、アルフォンソの声を聞いたのだ。そして、その後は・・・
朧気に思い出せるのは、怒りと焦燥。
そう。わかってしまった。自分が、伝説に語られる、聖女を守って死した守護竜、黒竜ゾーンの生まれ変わりなのだと。
そして、彼、アルフォンソ皇子こそが、黒竜が愛した銀の聖女、リーシャの生まれ変わりだと。
過去世の、黒竜だったころのことは、実際のところ、ほとんど思い出せない。なのに、なぜか、その感情だけは、今なお、彼女の胸に生々しく存在していた。
ノックの音に、シャルはふっと我に返った。
「お嬢様、少しお休みになられたらいかが?」
侍女のエルサが、お茶とお菓子が載ったトレイを手に思案顔で立っていた。
「皇子殿下の目が覚められたら、真っ先にお礼を言うんでしょう?お嬢様がそんなにやつれられていたら、殿下が悲しまれますよ」
エルサは部屋の隅にあった小テーブルとイスを動かして、さっさとお茶の準備を整える。
「エルサ特製のカップケーキとハーブティーをお持ちしました。大食漢のお嬢様が3日間もほとんど何も召し上がらないなんて、エルサは我慢できません。絶対美味しいですから、どうか召し上がってください」
ベッドサイドから動こうとしないシャルに声をかける。
「ほら、少しくらい離れたって、皇子様は消えたりしませんって。それに、お嬢様、婚姻前の男女がそのようにくっついているのは、エルサは感心しません。そういう親密な接触は、正式なご婚約後に、未来の旦那様の意識があるときにすべきことです」
エルサの茶化した物言いに、シャルは微かに笑って立ち上がった。
促されるまま、腰を下ろし、ハーブティーに口をつける。
ほのかに甘い優しい香りが鼻孔を擽った。
黒竜も、結構、甘党だったっけ。食いしん坊だったんだろう、たぶん。なんとなく脳裏を過った記憶らしきものの断片に思う。
シャルは、思い立つまま、エルサに尋ねてみた。
「ねえ、もし、もしもよ、私が人間じゃなかったら、エルサはどうする?」
エルサは目をパチクリさせた。
「人間じゃない?どう見ても人間ですよ、お嬢様は。そりゃ、人間離れしたところはいろいろありますけど」
「そういう意味じゃなくて。もし、私の本性が、その、魔物だったとしたら、やっぱり嫌いになる?」
「お嬢様は、エルサが実は人に化けた化け物だったら、どうですか?嫌いになります?」
逆に聞き返されて、シャルは少し考えて首を振った。
「エルサがエルサである限り、嫌いになんかなれないと思う」
「でしょ?お嬢様とエルサの絆はそんなことで、壊れやしません。エルサにとって、お嬢様はお嬢様。たとえ、お嬢様がなんであったとしても。なにせ、お嬢様がおむつをしていたころから、傍にいるんですからね。ご両親が狩りに出かけられている間は、お嬢様の専属世話係でしたから。思い出しますねぇ。物を壊しまくってべそをかいているお嬢様と一緒に被害者たちに謝りに行ったこと。小さな破壊者と呼ばれていた、あのシャルお嬢様が、今や、こんなに立派なご令嬢になられて。ご結婚まで申し込まれるとは、エルサは感無量ですよ。物も、今はめったに壊されませんし」
エルサの大げさなジェスチャー付きの言い回しに、シャルはくすっと笑った。
「エルサって、私と6つしか違わないくせに、なんか時々おばさんっぽい」
「こう見えても、いろいろあるんですよ、私には。この世界のことは、実年齢以上に知っている自信があります」
エルサは、隅に放置されていた椅子をもう一脚持ってきて、シャルの向かいに勝手に座った。手を伸ばして、乱れた銀髪を撫でつけてやる。
「だからね、心配しなくても、大丈夫ですよ」
何もかもわかっているかのようなエルサの優しいまなざしに、シャルは何も言えなくて、ハーブティーをむやみに啜った。
「ね、絶品でしょ、エルサ特製ブレンド?さ、ケーキもどうぞ」
エルサは、フォークを添えた、アイシングたっぷりのカップケーキの載った皿をシャルの方へ押しやった。
シャルがおとなしく食べだすのを、しばし、黙って眺める。
ほぼ断食した後の、ケーキはとても美味しかった。エルサがふだん作ってくれるケーキよりもはるかに甘かったけれど。
皇子のことで胸がいっぱいで、全然空腹感はなかったのに。やはりお腹は空いていたらしい。
「少しは気分がよくなりました?お嬢様が身体を壊してしまっては、元も子もありませんよ。アルフォンソ殿下なら、きっと大丈夫ですから」
シャルがあっという間に空にした皿を手早く片付けると、エルサはお茶のお替りを注いでくれた。
「本当に、そう思う?もし、このまま、意識が戻らなかったら・・・」
「逆に考えれば、意識さえ戻れば、問題ないってことです。幸いなことに、傷自体は致命傷じゃないんですから」
お腹に食べ物が入ったからだろうか?
なんだか、急に眠気に襲われて、シャルは小さくあくびをした。
「お疲れですよね。ここのところ、ろくに寝ていらっしゃらないから」
だんだん瞼が重くなる。エルサの声が妙に遠く聞こえた。なんだか、変。身体に力が入らない。
「アルフォンソ皇子のことは、エルサが何とかしてみせます。この命に代えても」
意識が途切れる寸前に、エルサの声が聞こえたような気がした。いつになく真面目な声が。
シャルの手からほぼ空になったカップが滑り落ちた。それを巧みに受けとめ、エルサが囁く。
「だから、お嬢様、安心してお休みくださいな。けりが付くまで、ぐっすりと」
エルサは瞬く間に眠りに落ちたシャルの頭をそっと支えて、できるだけ楽な形でテーブルに突っ伏せさせた。眼鏡を慎重な手つきで外して、テーブルの上に置く。自分の上着をその背にかけてやってから、エルサはカップ類を乗せたトレイを別のテーブルに置いた。これから起こることの邪魔にならないように。
満足げに一瞥すると、すたすたと扉に向かう。
「そろそろ、お入りになってかまいませんよ、エクセル様。私も、ちょうど、お話ししたいことがあったんです」
扉を開けると、エルサは、部屋の前で立ち尽くしていたエクセルに声をかけた。
その体から、奇妙な気オーラが立ち昇っていた。ふだんは完全に隠している彼女本来の闇色のオーラが。
「お前は誰だ?いや、何者だ?」
緊張した面持ちのエクセルが、腰の剣に手をかけた。
「おかしなことをおっしゃいますこと。もちろん、エルサですわ。シャルお嬢様の専属侍女の。私の顔ぐらいご存じでしょ。直接お話しするのは初めてですが。エクセル様、あなたとは」
そこにいるのは、ベルウエザー家の忠実な侍女の姿でありながら、完全に異質な存在。
「いえ、元伝説の勇者様とお呼びするべきでしょうか?エクセル・カッツェルではなく。『金の勇者』マリシアス・エイゼル様と?」
それは、殺意を漲らしたエクセルの手をそっと抑えて、艶やかな笑みを浮かべて問いかけた。
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