第2話 シャル・ベルウエザー
また、あの夢を見た。
誰かが泣いている夢だ。一筋の光も射さない闇に、泣き声だけが響いてくる。その声はよく知っているはずなのに、その顔すら思い出せない。何とかしてあげたいのに、身体はピクリとも動かない。何もできずにやるせない気分で、迎える目覚めは最悪だ。
「具合でも悪いの、シャル?」
ベルウエザー子爵夫人マリーナは、シェフ自慢の具沢山スープを飲み干してスプーンを置いた娘を、気づかわし気に見つめた。
「あなたが大好物をお代わりしないなんて。どこか痛い?お腹とか頭とか?」
「なんだか夢見が悪かったみたいで。あまり食欲なくて」
リーシャルーダ・ベルウエザーは、ナプキンで口元を拭うと、重いため息を吐いた。
目の前のテーブルには、空になった大皿が二つ。ベルウエザー領特産のチーズを添えて大きくカットされた焼きたてパンと、シェフ自慢のロースト山豚肉入りのサラダは、すでに影も形もない。
「食欲ない!?それで?」
向かいの席で肉の塊と格闘していた4つ下の弟サミュエルは、思わずジト目で、姉を見つめた。
「姉上、少なくとも僕の2倍は平らげたよね?」
まだ半分以上残っているスープも、明らかにサミュエルは持て余している。
「サミー、もしかしてあなたも食欲がないの?」
「あのね、母上、普通は、朝からこの量はきついと思うよ」
「あら、そんなことないわ。朝はたっぷり頂かないと」
マリーナは、湯気の立つ紅茶にミルクを注ぐと、上品な所作で一口すすった。
その傍らには空っぽの皿2つとスープ皿。
「エルサ、僕にも紅茶をお願い」
サミュエルはフォークを置いてギブアップを明言し、傍に控える侍女に声をかけた。
大柄で筋骨隆々の父はともかく、育ち盛りの自分の倍以上食べる女性って、普通とは言えない気がする。
二人とも、あの華奢な身体のどこにあれだけの量が入るんだろう?特殊体質?
これは、サミュエルの密かな疑問だったりする。
「シャル、本当にもういいの?いつもの半分も食べてないじゃない」
マリーナは、なおも心配そうに愛娘を一瞥した。それから息子の皿に目をやる。
「サミー、サラダだけでももう少し食べなさい。あなたはただでさえ小柄なんだから、好き嫌いせずにしっかり食べなきゃ、お父様みたいな強い騎士には・・・」
唐突に、お定まりのお小言が途切れた。
「?」
何とか後一口とサラダをほおばっていたサミュエルが、顔を上げる。
何やら廊下の向こうが騒がしい。近づいてくる靴音は、聞き覚えがあるものだ。
重い真鍮の扉が、きしんだ音を発てて勢い良く開いた
「今帰ったぞ。皆、変わりはないか?」
ダイニングに飛び込んできた赤毛の大男は、満面の笑みを浮かべていた。
「おかえりなさい、あなた」
マリーナは、夫の予想外の登場にも一向に動じはしなかった。
「予定よりも随分お早いのね?早くても2日後だったはずでは?」
「途中で急ぎの伝言が入った。で、俺だけ先に戻ってきた。どうも俺たちが王都を離れた直後、面倒なことになったらしい」
クレイン・ベルウエザー子爵は、身をかがめて愛妻の頬に軽く口づけた。それから、慌てて後を追いかけてきた執事に上着を渡す。
「5日後、宮廷で舞踏会が開催されることになった」
「舞踏会?この時期に突然?」
「王命が出た。シャルにとって初めての公式の宴になる」
「それは、シャルは絶対参加ってことなのかしら?」
「そうだ。サミーも、魔術院を見学したがってたろう?ちょうどいいから、皆で一緒に上京しよう」
かつては『戦場の赤い旋風』の二つ名で呼ばれたクレインは、今なお何事につけても即決即断。迅速かつ単刀直入、有言実行がモットーな男だ。
まあ、単にせっかちとも言える。
「僕も王都へ行けるってこと?」
口中のサラダを水で一気に流し込むと、サミュエルが、興奮気味に父に問いかけた。
「サミー、お行儀が悪いわ」
すかさず息子の無作法をマリーナが窘めた。それから思案気に
「いささか急なお話ですわね」と呟く。
「ここ数年、君も満足に王都へ行ってないだろ。魔物狩りが本格的に始まる前に、家族みんなで王都で羽を伸ばす。これっていい考えじゃないか?1週間くらいなら、副団長たちに後を任せてもいい。陛下もきっと喜ぶぞ」とクレイン。
そうねえ、とマリーナが小首を傾げた。
「それはともかく、他の者たちは、どうされたの?今回、あなた、新米騎士を何人も引き連れて行かれましたよね?」
ベルウエザー領があるのは、馬で王都まで片道3日はかかる辺境の地だ。
魔物の生息地として知られる『魔の森』とブーマ王国との境界であるこの地は、昔から、守りの地として知られている。ベルウエザー家は、この地に人が住み着いて以来、いわば、『魔の森』の管理者としての役割を任ぜられている家柄なのだ。
当然、領主率いる騎士団は歴代の猛者ぞろい。青の塔~正式には王立魔術院~を優秀な成績で卒業した術師も数人抱えている。
ベルウエザー騎士団は、魔物の活動が少なくなる冬の2か月を除いて、常に多忙であり、けが人も絶えない。
幸いなことに、少なくともここ50年ほどは、伝説時代のように強い化け物が出ることもなく、死者が出ることはほとんどないが。クレインが正式に領主になって以来、魔物の数そのものは上昇傾向にある。
魔物狩りによって得られた貴重な肉や毛皮によって、この地は辺境とは思えないほど潤っているのだから、一概に悪いことでもないと言える。
一昔前まで禁忌とされた魔物の肉は、瘴気抜きの技術の確立以降、それなりに美味な珍味として定評があったりする。その皮や毛皮は丈夫で保温性に富み、簡易鎧や防寒着の材質として高く売れる。特にすべての魔物が大なり小なり体内に持っている魔石は、魔道具~魔力を付加された、誰にでも魔法効果を発動することができる道具~を作成するためには、欠かせない媒介だ。『魔の森』との境い目に位置するベルウエザー領は、魔石の一大産出地であり、魔道具の国一番の、否、この大陸一の生産地でもある。
毎冬、領主は魔物狩りが実質的に始まる前に、新人騎士たちに加護を授けてもらうという名目で、王都にある『大いなる恩赦の書教会』、略して『大いなる教会』を訪れるのが常だった。
まあ、クレインの代になってからも、その口実の下、魔物由来の特産物、魔石や魔道具を売りさばきに王都在住の「お得意様」へ出向いているわけだ。
今年も妻たちに説得されて、というか尻を叩かれて、クレインが王都に向かったのは、ほんの5日前だった。
「皆はまだアルルの町にいる。新米たちと一緒に来るより、俺一人の方がずっと早い。そうだろ?」
妻のご機嫌を伺うように、彼にしては小声で、クレインが言った。
「アルルから、お一人、早馬で?」
マリーナがかすかにその秀麗な眉をしかめた。
「何のための伝言術かしら?」
「術はあんまり得意じゃない。俺の馬なら、一晩もあれば帰れると思ったし。出かけるなら、それなりの準備も必要かと思って」
「術で伝えていただければ、準備くらい、しておきます。領主としての立場を考えてくださいな。何かあったら、どうするんです?」
「俺なら心配ない」
「いえ。残してきた若手たちに、です」
「それは・・・考えてなかった。すまない」
主人に怒られた犬のように、しゅんとなる夫に、マリーナは、表情を和らげた。
「朝食、食べました?」
「携帯食で。夜どうし、馬を走らせてたから。途中で水浴びはしてきたぞ」
あんまり汗臭くはないだろ、な?とばかり、神妙な表情で妻からのチェックを待つ様子は、まさに忠犬。
「水浴びなんて。いくら暖冬だからって、風邪ひいたらどうするんです」
マリーナは立ち上がって、その華奢な指で夫の太い腕に触れた。口の中で小さく清拭の呪文を唱える。
かすかな光がクレインの全身を包み、こびりついた汚れをきれいに拭いさった。
「とにかくお座りになって。詳しい話は、朝食を採ってから伺います」
メイドに夫の分の料理を用意するように命じる。
クレインはおとなしく椅子に座って、出された料理を黙々と平らげ始める。
傭兵から子爵まで上りつめた英雄、勇猛果敢な辺境貴族とも呼ばれるクレイン・ベルウエザー子爵。彼は、家では、妖精めいた美貌を誇る妻に、完全に頭が上がらない。
ほんと、うちの両親って、見た目、美女と野獣。
シャルは、いつもと変わらぬ両親の様子をほほえましく見つめながら、紅茶を飲んでいた。
王都で舞踏会かあ。
みんなで王都へ行けること自体は、ちょっとワクワクするかも。
小耳にはさんだ話から判断すると、両親は王都の貴族社会では、それなりに有名人であるようだ。若い頃は、いろいろ武勇伝もあったらしい。現国王の即位前の悪友だったっていう噂もある。。
照れくさいのか、本人たちは当時の話をあまりしようとはしないけど。
子爵という称号が似合わない武人然とした赤毛の巨漢の父クレインに、鄙にも稀な美女と名高い母マリーナ。
父の燃えるような赤毛もやや赤みがかった茶色のくっきりとした瞳も、個人的には悪くないと思う。顔立ちだって整っている方だろう。それなりにチャーミングだと言えなくもない、と思いたい。顔の作りが、どう見ても父似の自分としては。
体つきは母親譲り。髪と目の色は、どちらにも似ていない。
大いなる伝説の『銀の聖女』と同じ、銀色の髪と光の加減によっては金色に見える琥珀の瞳。自分では、それなりに気に入ってたりする色合いだ。
我が両親は、領地外では、アンバランスなカップルだと、きっと思われてるんだろうな。外見でだけ見ればだけど。
軽くウエーブを帯びた淡い栗色の髪。やや吊り上がりぎみのアーモンド型の魅惑的な
弟のサミュエルは、明らかに母親に似ている。髪や目の色が父親譲りである点以外は。
容貌だけは母上に似たかった。
年頃になるにつれて、シャルは切実にそう感じている。
外見がすべてではないのは、わかっているけども。
華奢な両手首で鈍い光を放つブレスレット~実はベルウエザー一の匠の手による特別誂えの魔道具~が目に入ると嫌でも考えてしまう。
どうせなら、もう少し母上に似ていればよかったのに。そうであれば、母ほどの美貌があれば、令嬢として多少の問題があっても受け入れてくれる殿方がいるのではないだろうかと。
もっとも、嫋やかに見える母の手は、一振りで雷の矢を降らせ、氷のつぶてや風の刃を生み出すのだが。おまけに、弓を持てば、一流の狩人だって裸足で逃げ出すほどの腕前なのだ。
『森の民』エルフの血をひくと言われるベルウエザー一族。実は彼らは皆、見かけを裏切る武闘派ぞろい。多くは魔術の使い手でもある。
我が一族は昔から猛獣慣らしも得意なんだって、おじい様は笑ってたっけ。
それにしても、王都かあ・・・。
まさか、こんなに早く、王都の舞踏会に出るはめになるなんて。
シャルは、ちょっと訳ありのため、生まれてから今まで、ベルウエザー領を出たことがない。
来年、16歳になって迎える最初の赤の月に、王宮で開かれる成人祝いの宴まで、王都に出かける機会はないと思っていたのに。
ダンスの先生に、それまでには何とか見苦しくない程度には、ワルツだけでもマスターしなさいって、この前も言われたっけ。
舞踏会って、ダンスも当然あるのよね。
シャルはハタッと気づいて頭を抱えた。
どうしよう?ダンス、基本もまだ自信がない。
「で、具体的に、陛下からは何と?なぜ急に舞踏会を開くことになったのかしら?」
最後にデザートを運んできたメイドが立ち去るのを見届けて、マリーナは再び口を開いた。
「強制参加だそうだ。青の月の最後の日に生まれた者は」
シャルは、もう少しでカップを粉砕するところだった。
母と弟の視線が自分に注がれているのを感じる。
「我が国にも、とうとう、来られたってことですのね」
マリーナの言葉にクレインが頷いた。
「ああ。あの『黒の皇子』が皇国からやってくる」
クレインは懐に手をやると、手のひら大の金色の小鳥を取り出した。
通信用魔道具<飛文>だ。鳥を模した魔道具は、一度オーラを登録すると、最短距離でそのオーラの主の下へ飛んでいき、伝言を伝えることができる。
「
クレインが一言命じる。
金の小鳥は、ローザニアン帝国第二皇子一行の来訪を高らかに告げた。
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