笑わない(らしい)黒の皇子の結婚~ダンジョン攻略からお菓子作りまでこなす、元聖女の皇子の強すぎる執着を、元黒竜の訳あり令嬢は前向きに検討することにしました~
浬由有 杳
第1話 プロローグ
~すべての始まりと終わりの始まり~
<彼>
胸部にざっくりと穿たれた穴。絶え間なく滴り落ちる血潮。黒曜石のきらめきを誇った鱗の大半は炭と化し、今や白い蒸気を上げる皮膚のところどころにへばりついている。もはや痛みさえ感じない。いや、これこそが痛みなのだろうか。熱いはずなのに、体の中にじんわりと広がっていく凍てつくような感覚が。
たぶん、これが死なのだ。
自分の死を静かに受け入れながら、彼は思った。そして同時に、かろうじて残る感覚に感謝する。ああ、彼女の声が聞こえる。傍らに彼女の柔らかなぬくもりを感じる。彼女は無事だ。彼は守り切ったのだ。この世に生を受け100年余り、初めて手にした宝、何よりも愛しい存在を。
「・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
嗚咽の合間に繰り返される謝罪を、彼は不思議に思う。なぜ、謝る必要がある?すべては彼が自分で選んだ道。彼の死は彼女のせいではない。
『泣かないで、愛しい娘こ。私は満足して逝くのだから』
残された力を振り絞り、穏やかに愛し子に語りかける。
誰も泣く必要などないのだ。世界は救われた。彼女は過去に別れを告げ、救い手の一人として輝かしい未来に手を伸ばせばいい。彼女の幸せを見届けられないことは残念だが、まあ、仕方がない。私の願いはかなったのだから。ただ一つ心残りがあるとすれば・・・彼は消えかかる意識の中で苦笑した・・・泣き続ける彼女を抱きしめられないこと。
誰かに名を呼ばれていることに、ふと気付く。そうか、彼はやはり来てくれた。彼が来てくれたのなら、もう安心だ。
『どうか、彼女を頼む』
最期の言葉を友に告げ、彼の意識は穏やかな闇に飲まれた。
<彼女>
母親のことは顔も覚えていない。父親はたぶん元からいなかったのだろう。物心ついた頃には、浮浪児として、町のごみ溜めを漁ってなんとか一人で生きていた。ぼろ布で全身を覆い、なるべく人目につかないようにして。
自分の容姿は明らかに人とは違う。そのことだけは、幼いながらも理解できていた。十分なほどに。今思えば、人外の血をひく子供を、母親はさっさと見捨てたのだろう。彼女がこうして生きているということは、乳飲み子の間は面倒を見てくれたわけだ。そのことだけでも、感謝すべきかもしれない。
姿を見られると必ず、罵声とともに情け容赦なく追い払われる。時には石礫を投げつけられることもあった。あの頃、自分は毎日何を思っていたのだろう?生きるのに精いっぱいで、飢えや寒さから少しでも逃れようともがいていた小さな子供は・・・
そして運命のあの日。
あの日のことは、今でもよく覚えている。
寒さに震えた、瘦せこけた子供を気の毒に思ったのか。ゴミを漁っていると、裏口が開き、一人のメイドが現れ、彼女に手招きすると、一切れのパンを恵んでくれた。一瞬の躊躇ののち、そのパンにむしゃぶりついた。かちかちに干からびたパンでさえ、彼女にはめったにないごちそうだったのだ。
あれは雪がちらつくとても寒い日だった。せっかく見つけた残飯さえ他の浮浪児に奪われ、おなかは空っぽ。空腹のあまりいつもの警戒心が薄れていたのだと思う。気が付いたときには、すでに泥まみれの布切れが取り払われていた。おそらく、ずぶぬれの身体を拭いてやろうというメイドの親切心からだったのだろう。一陣の風に髪が舞い上がり、ぼろ布で覆っていた異形<もの>が、露になる。その瞬間のメイドの驚愕に凍り付いた顔。ああ、この人も同じなんだ。彼女は思った。メイドの手からタオルが落ちた。善良そうな顔が恐怖に満ち、次の瞬間、嫌悪にゆがんだ。怒声とも悲鳴ともつかぬ声が響きわたった。逃げなければ。ふらつく足をだましだまし、必死に逃げ込んだ路地には運悪く、警備隊員らしき男がいた。容赦なく振り上げられた刀を必死に躱し、森へ、魔物が住むという森へ逃げ込めたのは、まさに奇跡だった。
森はうわさとは違い、案外と静かで居心地よく感じられた。少なくとも人で賑わう街よりはずっと。
『ここで何をしている?』
朽ちかけた木の根元にもたれかかったまま、飢えと寒さで動けなくなって目を閉じたとき、『声』が頭の中に響いた。
『おい、そこの人の子、ケガをしているのか?具合が悪いのか?』
それは彼女が知る『声』ではなかったが、そこには生まれて初めて聞く、彼女への労りがあった。
かすむ瞳に映ったのは、巨大な影。漆黒の大きな瞳は優しさと英知に満ちていた。
奇麗だと思った。彼女の今までの短い生の中で見たことがないほどに。
その日から彼は彼女の唯一になったのだ。
彼女が知る誰よりも勇敢で優しい存在。なのに、なぜ彼は死ななくてはならなかったのだろう?欺瞞に満ちた輩の、不条理な卑劣な罠で?
全てに寛大で聡明な彼。なのに、どうして、最後まで信じてくれなかったのだろうか。彼と一緒に居たいという、彼女の言葉が本心なのだと?
彼女を同族と呼ぶ生き物たちを、彼が彼女が戻るべきだと考えていた一族を、彼女は決して許さない。
彼らは彼を彼女から奪ったのだから。だから、彼らから大切な者を奪うことに、何を躊躇う必要がある?
彼を取り戻すためなら、どんなことだってしてみせよう。この命、いや魂をかけても。
彼を失って初めて、彼女はうっすらとほほ笑んだ。
<友>
馬鹿なことをした。取り返しがつかないことを。
圧倒的な魔力に動きを封じられながら、彼は自分の愚かさを悔いた。
わかっていたはずだ。彼女が決して彼らを、彼を、許しはしないと。何よりも大切な存在を結果的に彼女から奪った彼らを。
彼女のほほ笑みに、思いがようやく通じたのだと勘違いして、何の警戒もせずに呼び出しに応じた自分は、恋に目がくらんだ大バカ者だ。ずっとわかっていたはずなのに。彼女の一番は決して自分ではないと。驕りがあったのだ。今の自分なら、彼女を幸せにできるはずだと。そうすることが、友への償いだと言い訳して。
ここは、一体どこなのだろう?
彼女の部屋に通じる扉を開けたはずだったのに。
彼が囚われているのは、まるで夜を切り取ったかのような漆黒の空間。上も下もない闇に、至る所で煌めいているのは、クモの糸のように張り巡らされた、数限りない銀色の魔法陣。
よどんだ静寂を破るのは、彼女の高く澄んだ滔々とした声。
いつもながらの見事な詠唱・・・
闇に煌めく、銀色のオーラ。
ああ、なんて美しい。こんな時でさえ彼の目をくぎ付けにする。
まるで誰かを、いや何かを、招くように、彼女の白い両手が大きく広げられた。
やがて、その先に浮かび上がる、二つのもの。ひとつは闇の中でさえ黒く光る剣。もうひとつは・・・彼女の真意を理解して、彼は大きく息を飲んだ。
彼女は禁呪を行おうとしている。
だめだ。『彼』は、わが友は、そんなことを望んでいない。
その声が聞こえたかのように、彼女の琥珀色の瞳が彼に向けられた。微笑みを形どった唇から、古の言葉に混じって、彼の名が零れ落ちた。
体中からマナが、魔力が絞り出されどこかへ流れ出す。なんとかそれを止めようと、彼は無駄にもがき続けた。
やがて、唐突に呪文を唱える声が止んだ。絶望に染まった彼の目の前で、彼女は漆黒の刃を握りしめると、自らの白い喉元を刺し貫いた。
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