5.開かずの扉は開かれる
昔から、開けてはならないものってあるんだよ。
それを開けると悪いものが飛び出してくるとか、悪いことが起きるとか。
その扉を開くと、何か悪いことがあるんだって。
悪いことが何かって言われても、悪いことは悪いことなんだ。
おそろしくてことばにはできないよ。
――月波見学園七不思議 むっつめ【開いてはいけない開かずの扉】
用務員室を出たところで、
旧校舎の裏庭は掘り返されるのだろうか。まだらの池はあの場所にあって、その底に
深く深く、池の底に沈み、そして埋められて。人の手では到底掘り出せない場所に。
「
「何?」
心臓は早鐘を打っている。どくどくと首の
落ち着けと命じたところで、心臓が言うことを聞かないのは分かっている。それでも浅くなりそうな呼吸を努めてゆっくりと繰り返し、いつも通りになれと言い聞かせた。
「七不思議の、ななつめって……暗号とかって言ってたけど」
「ああ、あれか」
月波見学園の七不思議。そのななつめは、知れば死ぬとしか情報がない。そこに近付いた結果、実鷹の兄も
「ひとつめ、その階段は。ふたつめ、これは。みっつめ、にやにやと。よっつめ、しってるか。いつつめ、ずっと。そしてむっつめ、むかしから。正式なむっつめにして七不思議につけられた物語の頭文字を拾っていくと、そこにしずむ――底に沈む、となる。これが、ななつめ。日比野一慶の遺体の
だからこそ、七不思議のひとつひとつに物語が必要だった。だから、入れ替えた七不思議では意味が通じなかった。なぜなら図書室の人皮の本の物語は、頭文字が『と』なのだから。
底に沈む。どこに沈む。何が沈む。
沈められる場所は埋め立てられたまだらの池しかない。沈むものは、まだらの池に浮いた遺体しかない。実際には浮かばず、沈み果てた。
沈んだままのものを浮かばせる。沈んだままの、日比野一慶の真実を。
「君の兄が在学中の頃は、むっつめが開かずの扉のままだった。だから君の兄は、この暗号に気付いたんだろう。
どのようにして兄がそこに辿り着いたのか、もう誰も知ることはできない。兄が知希のように何か記録を残していれば違ったのかもしれないが、家に戻ってきた兄の荷物の中にはそういったものは何もなかった。
旧校舎の扉は、今日も閉まっていた。けれど鍵は開いていて、押せば簡単に扉が開く。
「
「あ、それで体育の時間に」
「そうだよ。俺は体育の授業がなかったから、三砂に頼んだ。それから、父親に聞かせるというのも。あいつの父親が警察官なのは知ってたから。で、ついでに井場先生を用務員室に来させてくれって頼んでおいた。それをどうやってしたのかは知らないが、うまいことやってくれたらしい」
用務員室に行く前、教室で侑里から携帯電話を託された。彼に「親父にかかるようにしてある」とそれだけを告げられて、実鷹は「分かった」と返答をして受け取った。
侑里は父の仕事を公務員と称していたが、確かに警察官も公務員である。
それにしても薬を取ってくるというのは、盗んでくるのと同義ではないのか。侑里が嫌そうな顔をしていたのも納得がいって、実鷹は何とも言えない気持ちになった。
「でも、
芳治もまた、タイミングよく用務員室に現れたのだ。三笠の落とし物らしきものを持ってきて、そしてそのまま用務員室に留まることになった。それを偶然で片付けてしまえるほど、実鷹は単純でもない。
「文芸部の部長」
短く答えた蒼雪は薄く笑っていて、それは先ほどまでの表情に似ている気がした。
「玄関のところで待ち伏せて、ちょうど来たところで困った顔をしていたら声をかけてくれたよ。だから、落とし物を拾ったけど事務室に行ったら誰もいなくて、でもこれから用事があるから困っていると言ったら、
つまり、井場も芳治も、蒼雪によって用務員室に連れて来られたということである。ある意味ではむしろ最初から、すべて蒼雪の手の平の上だったということか。
「俺は
「そうか? あの人、一色栄永のファンだろ? そして、気が強くなくて親切だ。竹村竣の話を聞いた時、そんなもの何回も聞かれたからもう嫌だと突っぱねたりしなかった。同じ作家の本を読んでいる俺の頼みなら十中八九聞いてくれるだろうという予測だ」
何でもないことのように蒼雪は言うが、普通そこまでのことはできないだろう。
人間観察が趣味というのは、それを最大限利用しているのは、おそらくこういう部分なのだ。表情だけではなく、その性格や行動を予測する。
「あと、気になってることは」
「……トモのシャーペン、は?」
「渡瀬のシャーペンは、三笠さんだろう。あの人なら学園内の隅々まで入れるわけだから、鍵を寮監に借りなくても良いはずだ。寮生に何かあったとか寮の部屋に何かあったとか、そういう場合にいちいち寮監に鍵を借りなくていいようにスペアを持っている。渡瀬の遺体は見付けてもらわなければ困るから、
ただの失踪ではなく、何かがあったと示すために。そこに必ず実鷹が疑いを持つように。
共有スペースの机の上にあったシャーペンが、知希のものだろうと実鷹のものだろうと構わなかったのだろう。そこにあったものが消えている。部屋の中を荒らすよりも問題にならない方法で、それに実鷹が気付くことに賭けたのか。
もしかすると、三笠自身が落ちていたシャーペンを拾い、誰のものか聞きに来るつもりだったのかもしれない。
「さて、佐々木。開かずの扉を開ける覚悟は良いか?」
旧校舎の二階の廊下は、薄暗い。重苦しい空のせいで太陽は見えず、旧校舎の廊下は電気もついていない。ただその中を、足音を立てて歩いていく。
「七不思議のむっつめは、本来開かずの扉だった。けれど、図書室の人皮の本に入れ替わった。それは井場先生が開かずの扉へ意識を向けさせることすら嫌だったからだ。別に八年前までは良かった、その中には何もなかったのだから」
「じゃあ、むっつめが入れ替わったのは、お兄ちゃんが死んだから?」
「そういうことだ。君の兄がその向こうに隠された。悪ノリしたら開かずの扉を開けようとしかねない男子中学生高校生を止めようと思うのなら、意識を向けさせない必要がある。ならば七不思議からそれを消してしまうしかない」
そこに意識すらも向けさせたくなかった。誰にも触らせたくなかった。
噂話があればどうしたってそちらに意識は向く。特に七不思議となれば好奇心は煽られる。決して開けるなと言われていた扉を開けてしまったように、開けてはならないと言われた箱を開けてしまったように、人はするなと言われたものを、閉ざされたものを、どうしたって見たくなる。
「それと君の兄は、図書室にあった卒業アルバムや卒業文集から真相に辿り着いたのだろう。けれどそれらを燃やしてしまうわけにもいかない。その年度のものだけなければ当然怪しまれるし、まして自分も載っている。心理的に燃やしたくはなかったのだろうね。井場先生の性格からしても」
写真を燃やすとなれば、特に人が写っているともなれば、燃やすことは
そもそもずっと五十年間蓄積されてきたものだ。どうしてこの年度のものだけないのかと疑問を抱かせることになりかねない。年報くらいならば紛失ですむかもしれないが、卒業アルバムや卒業文集はそれなりの大きさと分厚さだ。
「となれば、図書室の内容にすれば図書室に近付けないという抑止力にもなる。一石二鳥、というわけだ」
だから、開かずの扉は図書室の人皮の本に入れ替わった。
文章が小学生のようだったのは、あれを井場が作ったからだ。卒業文集の井場の文章と同じ、物語としての形にもなっていない。
それでも、そこまでしてでも、入れ替えなければならなかった。七不思議の違和感よりも、井場にとって優先するべきことがあった。
「じゃあ、開かずの扉って……やっぱり」
「
開かずの扉と言われて思い浮かぶのは、たった一つ。
旧校舎の二階から、女子部の校舎に向かって長く伸びる廊下がある。下からはその中を
本来ならば男子部と女子部の交流のために開くはずだったのだろうか。けれど、何があったか開かなかった。
廊下の先、重い重い鉄の扉がある。ぴたりと閉ざされて冷たく、それが開くとも思えない。作られてから一度も開いていないというその言葉が、その扉を閉ざさせる。
「君の兄がいるのは、
蒼雪が鉄扉を指し示す。
冷たく分厚い鉄扉。八年もの間、兄はずっとここに置き去りにされていたのか。誰も開かない、誰にも気付かれない。開かない扉の向こう、どうしてと実鷹が問い続けたもの。
「でも、鍵は」
「当時旧校舎に自由に出入りできた頃は、きっとまだあった。けれど、紛失した。紛失したというよりは、井場先生が意図的に隠したのだろうね。まあでも俺の予想通りなら、鍵は不要だ」
「それは、どういう……」
「前にも言っただろ? 人間とは思い込むとそうとしか思えなくなる生き物だ、と」
まさか。
紡ごうとした言葉は声にならなかった。
蒼雪の言葉が正しいのであれば、最初から扉は閉じていなかったことになる。旧校舎の扉は閉ざされて、鍵がかかっていて、けれどその中のことなど誰にも分からない。
旧校舎という、閉ざされた大きな箱の中。
「さあ、仇討ちも終わりだ。真実を明らかにすることが、きっと何よりの仇討ちなのだから。そして君は、君だけは、その資格があった」
実鷹は兄を失った。
親や上のきょうだいを尊属と呼ぶのならば、確かに実鷹が失ったのは尊属なのだ。三笠の甥とも、芳治のルームメイトとも違う。
鉄の扉の取っ手に蒼雪が手をかける。鍵がかかっていたならば途中で止まるはずの取っ手は、何にも引っかかることなく下まで動いた。
「ああ、やっぱり――鍵なんて、かかっていなかったんだ。多分八年前から、ずっと」
重たい鉄の扉が開く。どこか湿ったような、蒸し暑いような、そんな空気が廊下の中から逆流してくる。
その向こう、床に崩れて落ちた白い骨。まだ残っている制服と、落ちている学生証。
「おにい、ちゃん……」
足は動かなかった。入らなければ、駆けよらなければ、そう思うのに、足が震えてその場所から一歩も動けなかった。
蒼雪が実鷹の横をすり抜けて、落ちていた学生証を拾う。そして戻ってきて手渡されたそれは、八年前のものとは言え今と何も形式は変わっていない。
少しだけ、色が
膝から崩れて落ちていく。泣けばいいのか、どうすれば良いのかも分からない。ああやっと、やっとだ。ただそれだけが頭の中をぐるぐると回っている。
ぎゅうと兄の学生証を右手で握り、胸のところに押し当てる。
僕のせいだ。俺のせいだ。ああでもやっと、僕が、俺が、お兄ちゃんを見付けられた。
「帰ろう、お兄ちゃん。俺と、一緒に」
白い骨は何も語らない。
こんなところに独りぼっちで八年間。実鷹は三年前からここにいたのに、気付いてあげられなかった。御鈴廊下を見上げることはあったのに、兄の居場所を見上げることはあったのに。
蝉の声が遠くなる。落ちたプールバッグを拾い上げた母親の手。
ねえ、帰ろう。
その遺体、まだらの池の、底に沈む。
――月波見学園七不思議 ななつめ【そこにしずむ】
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