1.重なることば

 六月も半ばを過ぎて、本格的に梅雨つゆの季節になった。雨は飽きるほどに降り続き、雨間あままもない。寮の部屋から外を見れば薄暗く、窓ガラスに雨粒が何度もぶつかって筋を作っている。

 共有スペースで雑談をすることもなく、知希ともきと共に実鷹さねたかは黙々と数学の問題を解き続けていた。もうじき前期中間考査で、赤点を取るわけにはいかない。


「あー……」


 知希が声を上げて、べしゃりと机に突っ伏した。彼の手から離れて転がったシャーペンが、机の端の辺りで動きを止める。

 実鷹もちょうど集中力が切れてきたところで、ちょうどいいとシャーペンを手放した。


「つっかれた……腕が痛い」

「考査で悪い点数取るわけにいかないだろ?」

「そりゃそうだけどな。家にテスト結果送られるし……赤点だとまずい」


 深々と溜息を吐いて、知希が肩を落としている。

 月波見学園の考査は、親に結果を隠すことができない。答案を隠そうが意味はなく、結果は自分の与り知らぬところで自宅へと郵送されるのだ。当然、赤点も家族に知られてしまう。

 知希は嫌そうな顔をして、それでも机から頭を上げようとはしない。


「でもちょっと休憩しようぜ、頭がパンクする!」

「少し早いけど食堂は開いてる時間だし、晩ご飯行く?」

「えー……まだそこまでお腹空いてないんだよなあ」


 時計を見れば、午後五時半を示している。食堂は午後五時から開いているので、食べに行こうと思えば夕食を食べに行くことはできる。この時間帯であればまだ人は少ないだろう。

 ただ知希と同じように、実鷹もそこまで空腹というわけでもない。食べようと思えば食べられるが、かといって今すぐ食べに行きたいというわけでもない。


「あ、そうそう。七不思議の話でさ、面白いことが分かった」


 がばりと身を起こして、知希が実鷹の顔を見た。気になるから調べるとは確かに言っていたが、彼は有言実行だったらしい。

 今のところ、呪われたという様子はないだろうか。けれど実鷹は思わず眉間みけんしわを寄せてしまった。


「本当に調べてたんだ」

「まあ、一応? 図書室に古いアルバムとか部活の記録とかあるだろ、奥の一画に」


 特別教室棟の二階に、図書室はある。同じ地区の私学の中ではそれなりの蔵書量ではあるが、かといって地区内で最も蔵書量が多いというわけではない。

 実鷹も時折図書室へ行くことはあるが、知希の言う奥の一画というのは思い浮かばなかった。あまり人が立ち入ることがない辺りにあるのだろうか、少なくとも実鷹は足を踏み入れたことがない場所だ。


「あの辺に古い学園新聞があったんだよ。十年前くらいまではあったらしいよ、新聞部」

「俺たちが入った時にはもうなかったもんな」

井場いば先生にも聞けるかなと思って、三十五年前の読んでたんだよ。そしたら七不思議のことが特集されてる記事があった」


 三十五年前にも七不思議があったのかという話は、前に体育館でした。学校に怪談はつきものなのだから、その当時にも七不思議があるのは何もおかしなことではない。

 それと知希の言うがつながらなくて、実鷹は少し首を傾げる。


「それが面白いこと?」

「まさか。それだけだったら面白くないだろ」


 話はそんな単純ではなかったらしい。知希は少し考えるような素振りを見せてから、机に手をついて立ち上がる。

 ほんの少しだけ机が揺れて、シャーペンが揺らいだ。けれど、転がっていってしまうほどではない。


「内容が……ノート持ってくる、待ってろ」


 知希が自分の部屋へ消えて行くのを、実鷹はぼんやりと見送った。

 三十五年前、随分と昔のことのようにも思える。当然実鷹は生まれていないし、そもそも実鷹の両親は結婚もしていないだろう。

 その頃に、月波見学園は既にここにあった。女子部ができたのは二十年ほど前であるので、女子部はないけれど。

 しばらく待っていると知希が戻ってきたが、その手の中は空っぽだった。


「あれ、ノートは?」

「どうも教室に置いてきたらしい。なかった」


 申し訳なさそうに、知希は眉を下げている。その表情に、安堵あんどを覚えた。

 七不思議には呪われる。七不思議には殺される。竹村たけむらしゅんは七不思議に殺された。ならばこのまま調べ続けていただ、知希も呪われて殺されてしまう。


「考査終わってからでもいいか?」

「いいよ」


 いっそのこと、そのまま忘れてしまってくれればいい。

 蒼雪そうせつはどうなのだろうかと思うものの、彼はそもそも七不思議を否定している。七不思議どころか怪異であるとか幽霊であるとか、そういうものすべてを否定する。


「部活もないし息抜きにもう少し調べてみるかな、図書室。人皮の本とかいうのはどこにあるんだ?」

「いや、そんなの俺も知らないけど……ただ図書室で目の前に落ちてくるって話だし。人皮の本には目があって、ぎょろりと見てくるんだってさ」


 未だ調べるらしい知希が、どう言えば止まるのかは分からない。彼に兄のことを話すべきではなかっただろうかと思うけれども、今更後悔しても意味はない。聞かれたから答えた、別に隠すようなことでもない、そう思って答えただけなのに。


「うっわ、こわ! 出会いたくない!」

「じゃあ図書室で探すの止めろ……あ……」


 怖いから、止める。

 呪われるから、止める。

 不都合を覆い隠すために、近寄らせないために、怪異はそこにある。

 ぐるりと頭の中を巡った言葉に、蒼雪の言葉が重なる。まさに今実鷹が知希に向けた言葉は、その通りのものではなかったか。蒼雪の言葉を肯定するものではなかったか。


「どうかしたか?」

「いや、なんでも、ない」


 人皮の本が怖い。落ちてきてぎょろりと見られるのは怖い。

 それならいっそ

 まさに蒼雪の言う通りになっていないだろうか。七不思議はあるのに、呪いはあるのに、それなのに蒼雪の言葉がこびりつく。

 呪われるからだ。死んでしまうからだ。だから止めている――そのはずなのに。


「……なんでもないって顔か?」

「顔だよ」

「そういうことにしといてやろうか?」


 ふいと知希から視線を逸らせば、子供かと笑われた。けれど彼の顔を見る気にはなれず、実鷹はそのまま窓の外を見る。

 相変わらず雨が降っていて、窓ガラスは濡れている。いく筋もの水が落ちていって、それはいつか土の中へと消えていく。

 知希の笑い声が聞こえて、彼は「分かったよ」と告げた。その言葉でようやく知希の顔を見れば、ぐいと伸びをするようにしていた。


首括くびくくりの木も見つからないしなー」

「探したのか?」

「旧校舎裏は行ってみた。雨降ってたせいで、めっちゃぬかるんでたけど、卒業生が植えた木が多いんだよな、旧校舎の裏」


 図書室の話題から、首括りの木へ。話題は移り変わったけれども、七不思議の内容であることに変わりはない。

 思い描いた旧校舎裏は、じめっとしていて何本もの木が植えられている。等間隔に植えられた木々は薄暗さもあってか、どこか不気味に思えた記憶があった。


「明確にどの木ってなってるわけでもないし、調べても分からないと思うけど」

「そんな変な顔で言うなよな、サネ」

「どんな顔だよ」


 知希の言うが分からなかった。実鷹としては至って普通の顔をしているつもりであったし、何かを思ったというわけでもない。

 顔を覗き込むようにした知希から、今度は視線を逸らさなかった。


「んー、言いたいこととか全部我慢してそうな顔」

「気のせいじゃないのか」

「さあ?」


 机の端に、シャーペンが転がっている。あと少しでも転がれば落ちてしまいそうなその場所で、けれど落ちることなく机の上にしがみついている。

 崖っぷちだなあ、などと思うのはおかしなことか。


「さぁて! あと一時間がんばりますか!」


 落ちそうになっていたシャーペンを手に取って、知希が大きな声を出す。少しだけ肩を揺らして、実鷹はこれみよがしに溜息を吐いた。


「急にやる気出すなよ」

「良いだろ別に。あと一時間もすれば晩ご飯に相応ふさわしい時間だろ。頑張ろうぜ」


 その言葉に従うようにして、数学の問題集を開く。並んだ数字と記号の羅列は整然としていて、いっそ何もかもこうして解けてしまえば良いのにとも思う。

 解を得たい。

 また、蒼雪の言葉を思い出してしまった。明確に一つの答えになるものなど、現実にはほとんどないというのに。学校で勉強するものだけが、答えが存在するだけだ。

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