八百円で人は殺せる

ふじこ

記録授受

 自分の机の上に置かれた、黒い綴り紐で綴じられた一冊の記録を見て、相川は、鳴くのに失敗した蛙のような呻き声をあげた。相川の声を聞いてか聞かずか、同じラインの直属の上司である藤見が「久々だけど、大丈夫だよね?」と、パソコンの画面から目を離さずに問いかけてくる。記録の表紙の左上には「失踪宣告」という事件名が、太字のゴシック体で印刷されている。

「相川さん、前に東北に居たでしょ?」

「そうですけど。あんまり思い出したくないです」

「そりゃそうか。ざっと見た感じ、そんなにややこしそうじゃなかったから」

「ならまだありがたいです」

 調停室から持ち帰ってきたフラットファイルとスケジュール帳を机の端に置いて、相川は自分の席の椅子に腰掛ける。調停の記録もまとめなければいけないし、終わってすぐに取りかかる方が効率がいいのは分かっているのだが、どうにも気が進まないでいた。代わりに、今し方分配されたばかりの事件の記録に手を付けることにして、表紙の厚紙に触れる。

 失踪宣告は、民法三十条に規定されている制度で、七年間生死が不明である者について、利害関係人からの申し立てにより家庭裁判所が失踪を宣告し、その者を死亡したと見なすものである。利害関係人とは、配偶者や相続人等、その人の死亡によって身分関係や財産関係に利害を被る人を指す。家庭裁判所への申し立てがなされる理由は様々だが、相川の以前の経験であれば、相続に関する場合が多かった。金や株式といった流動資産ならともかく、登記が必要な不動産について、相続に伴って名義変更を行おうとするときには、他の相続人が同意しているかどうか確かめられるのが通常だ。生死が不明な者が相続人の中に居ると、その者の同意を確かめることが出来ない。それで、生死不明な者を死んだことにして解決を図ろうというわけだ。七年間生死が不明である者について失踪を宣告して死亡したと見なす。それが、失踪宣告の中でも、普通失踪と類される制度だ。

 普通失踪に対して、危難失踪と類される制度が、同じく民法三十条に規定されている。これは、戦争や船舶の沈没、震災等の災害といった、死亡の原因となり得る危難に遭遇し、その危難が去った後一年間生死が不明である者について失踪を宣告して、死亡したと見なすものである。相川は、藤見が言った「前に東北に居た」間に、危難失踪の申し立てを数多く見た。見ただけでなく、分配を受けて事実の調査を行い、裁判官に意見を添えて調査の結果を報告した。東北で扱った危難失踪はすべて、東日本を襲った未曾有の大地震、それに起因する津波を原因とするものだった。事実の調査で申立人に話を聞くだけでおそろしいほど体力を消耗したのを、相川は鮮明に覚えている。危難失踪の事実の調査を行った日は、風呂に入らずにベッドに倒れ込んだものだ。当事者の苦しみは自分の感じているものの比ではないと分かっていた。分かってはいたが、しんどさを感じないでいることは無理だったし、津波を何度も夢に見た。分配された事件と藤見の言葉をきっかけに自然と思い出された苦く重苦しい記憶を、頭を振って思考の隅に追いやって、相川は改めて、手元の記録に目を落とす。

 「申立人 藁山島」、「不在者 藁山開」。表紙に記された名前を見るだけだと、不在者と申立人がどんな関係にあるかまでは分からない。表紙をめくると、予納郵券の袋の後に申立書が綴られているので、それを見る。申立書の右上には、八百円分の収入印紙が貼られ、消印が押されている。修習を受けていた頃、同期と当時の上司に対して、八百円で人が殺せるなんてすごい制度だと言ったことを相川は思い出す。込められた意味は変わりこそすれ、相川は今でも同じように思っている。申立人の住所は隣県だった。ということは、と不在者の「最後の住所」を見ると、この裁判所の管轄の地域にある。裁判所からも比較的近いあたりだ。失踪宣告は、不在者の最後の住所を管轄する裁判所に申し立てる必要がある。隣県だったら、なんとかこちらまで来てもらえるだろうかと考えながら、相川は申立書の一ページ目をめくる。

 二ページ目の冒頭は、失踪宣告の定型文で始まっている。不在者に対し失踪宣告をするとの審判を求める。ついで「申立ての理由」欄を見る。まず、「申立人は不在者の娘です。」と不在者と申立人の関係性が記されている。失踪宣告を申し立てる権利があるのは不在者の利害関係人である。不在者の娘であれば相続人となるので、申立権については問題ない。続いて、「不在者は平成××年十一月十九日から自宅に帰らず、その後も音信不通でした。不在者の妻が平成××年十二月一日に捜索願を××警察署に出し、知人や友人に照会して不在者の行方を捜しましたが、その所在は今日まで判明しません。」、「不在者が行方不明となって××年以上も経過し、その生死が不明であり、また、不在者が申立人の下に帰来する見込みもありませんので、申し立ての趣旨のとおりの審判を求めます。」と、申し立ての経緯が記されている。これも定型文のようなもので、不在者の所在が分からないこと、生死が七年以上分からないことについて、ごく簡単に書かれている。これらの事情について明細化していくのが、事実の調査と呼ばれる家庭裁判所調査官の活動だ。

 まだ、戸籍や、書記官が行った各種照会の結果が綴られているし、それらを確認することも必要だが、相川は、頭の中で簡単に今後の調査の予定を考え出す。そのとき、机上の電話が内線の着信を告げる呼び出し音を鳴らした。ほとんど反射のような動きで、相川は受話器を手に取り「はい、調査官室相川です」とあいさつをする。

「あ、相川さん。さっきの調停の事後評議、相川さんにも入ってもらいたいから来てもらえますか?」

 年配の女性裁判官の柔らかい声がそう言う。潰れた蛙の鳴き声のような声が出そうになるのをとっさにこらえて「分かりました」とだけ返事をし、受話器を置く。それから、さっき持ち帰ってきたばかりのフラットファイルとスケジュール帳を手に持って立ち上がる。「いってらっしゃい」と、パソコンの画面から目を離さないままで藤見が言うので、相川は「評議行ってきます」とため息交じりの声で返事をして、歩き出した。

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