#34 「”魔法少女”が──大好きだ」

『──お怪我はございませんか?』


コツリ、と地を打つヒール。

拭った頬の汚れ、スカートを軽く持ち上げると、”魔法少女”は一礼する。


『もう、大丈夫ですよ。敵は──私が絶対に倒しますから』


ひらりと身を翻した先、正面から相対する敵は、上空から攻撃してくる。

ともすれば、捉えどころがなくて、地を進み、ジャンプするのが精一杯な”魔法少女”には、荷が重い相手である。


『──地を這うことしかできぬお前では、私に手を出すこともできまい!』


”魔法少女”が地を踏み、跳躍し、一撃喰らわそうとしても全てが躱される光景。

画面越しに眺めていても、後ろで”魔法少女”に守られている民間人に感情移入してしまって、緊張しっぱなしだったのを覚えている。

何せ、その姿が重なってしまったのだ。


『……届かない、結構です』


当たらなくとも拳を解かず、決して諦めまいとするその姿勢が。

たとえ頬に泥が付こうが、拭って強がり、上を向き続けるその表情かおが。


──大丈夫だよ。家族は、あたしが絶対見つけるから。


『私は、諦めません!』


幼い日にショッピングモールで手を差し伸べられた日。

どれだけ暑い中だろうと、どれだけ見つからなくとも、家族を探し続けてくれた”魔法少女”に、その姿を重ねたのだ。


だからこそ、遥は拳を突き上げた。

幼い体を目一杯に揺らし、声を張り上げた。


「行けーっ! ”ピュアフリューゲル”──っ!」


”魔法少女”の──”ピュアフリューゲル”の背には、確かな翼があった。

敵を前にしても逃げ出すわけがない。その翼で追い、拳を以て打ち倒す。


遥は──どうだったろう。

その背に、真正面から障害と相対するための翼は備わっていただろうか。

眺めていただけのフリューゲルの背に、どれぐらい近づいたのだろうか。


……翼なんてない。近づけているわけがない。

でなきゃ、こうしてうずくまって、身を横たえているわけがない。

今の遥がこうあるはずがないのだから。



◇ ◇ ◇



「……はぁ、はぁ……っ」


肌に張り付いたシャツ、額を流れる汗。

飛び起きたまま止まない動悸、ただ良くない夢を見ていた、ということ。

それだけは起きたばかりでも理解できた。

そして、もう一つ。


「おはよう、よく眠れた? ……って、その調子じゃ微妙だったみたいだね?」


ジャージ姿で床に散乱したものを拾うピンク髪の少女がそこにいた。


「……杏、先輩……?」


フリーズする遥に向けられた屈託のない笑み。少しばかり悪戯っぽく目の前で振った手。

頬をつねってもただ痛いだけ。ともすれば、夢でもなくて確かにそこに杏がいた。


「いつまでも寝ぼけてないで。散らかってる部屋のお掃除してあげてるんだから! それにしても遥くん、少し痩せたんじゃない?」


杏は、いつもパーソナルスペースが若干狭い。

だけれど、まさかこんな形で意表をつかれることになる日が来るとは、遥はちっとも予想していなかった。


「……帰ってください」

「つれないなあ。先輩からのご忠言、そのために今日は来たんだからさ、せめて、掃除が終わるまでで良いから……聞いてよ」


上目遣いに、か細い声音。

遥のささやかな抵抗すら打ち払い、杏は要求を通してくる。

そこでピシャリとドアを閉め、杏を締め出せる──ほどに、遥は彼女に対して大きな顔ができなかった。


「……わかりました。掃除の間だけ、ですからね」

「さすが遥くん、話がわかるっ!」


ポンポンと杏が肩を叩いてくる。

満面の笑みを浮かべ、先に自分で付けた条件すら忘れたかのように。

ここまで杏が遠慮なく話しかけてくるようになったのは紗の一件以降、だっただろうか。


「……それじゃあ、まずどこから話そうかな……あたしのことから……? うん、遥くんにまず知ってもらうべくはそこからかも」


顎に手を当て、ブツブツと何やら呟くと、杏は大きく頷いた。


「まだ紗ちゃんにしか話してなかったと思うけど……あたし、学校行ってないんだ」

「……まあ、薄々は……」


遥も、ある程度は勘づいていたことだった。

いくらなんでも、杏はシフトを入れすぎている。

その上、いつだって私服のジャージか”魔法少女”姿、髪だってピンクだ。

ちっとも学校に通っているらしい素振りは見たことがなかったから。


「もっとさ、理由とか聞いてくれたって良いんだよ? まあ、あたしから話しちゃうんだけど」


唇をとがらせ、少し不服そうに、上辺だけはいつも通りの杏だった。


「あたしね、病室育ちだった。中々治らない病気で、小学校はほとんど行けなくて。初めてまともに通えるようになったのは、中学一年生の三月だったと思う」


微笑んでいて、それでも、弧を描いた目尻が僅かに震えていて。

きっと、杏のその横顔は普段よりも強がっていた。


「……知らなかった。周りがみんな、変わってたってこと。あたしが入院したのってまだ小学校に入学する前だったから。それこそ、あたしの”好き”はその時で止まったままだったの。キラピュア、ずっと好きなままだったのに……みんなはもう、違ってた」


杏の指先から、するりと握っていたライトが転げ落ちる。片付けの最中で、手近にあったものだろう。どうして取り落としたのだろうとばかりに、まじまじとそれを眺めていた瞳が丸く、目一杯に広げられて、潤んだ。


「……誰にも、好きをわかってもらえなかった。あたしが置いてかれてた。そうやって、やっと外に出れたのに、あたし、馴染めなくて。半年で引きこもって、二年は続いてた。今の遥くんみたいにうずくまってた」


今の生活が更に続いたらどうなるか。

先が見えない不安、独りぼっちの鬱屈とした日々。

それは遥にとって、考えたくもないぐらい真っ黒に塗りつぶされた道筋だった。


「それが、あたしの手痛い失敗。嫌になった現実に背を向けたこと、引きこもったこと。紗ちゃんとも、衿華ちゃんとも違う。そもそも、立ち向かってすらいないんだ」


紗はよくバイト終わりに杏に愚痴っているのを聞く。馴染めないなりに頑張って学校に行っているのだと、その口ぶりからは伝わってきていた。

衿華はきっと、遥にしてみれば強さの代名詞だった。受験も青春も何一つ諦めないまま、《ヴィエルジュ》を出ていった。

皆が何かしら、堪えがたい不満を抱えながらも、外の世界に立ち向かってる、自分なりに振る舞っているのだ。


「《ヴィエルジュ》は居場所、こんなあたしでも受け止めてくれる、大好きな場所。それでもね、後悔が無かったかっていうと嘘になっちゃうな」


だけれど、《ヴィエルジュ》以外での杏の姿というのが、遥にはちっとも想像ができなかった。

カラコンの入った瞳に雫が溜まって、ピンク色の虹彩が拡大される。

溜まり切った末にこぼれた涙は頬を伝い、顔にかかった同色の髪に吸われていく。

その姿は校則に縛られた学校ではあり得ないもの。街でも少し浮く。唯一、《ヴィエルジュ》にだけ馴染みのある姿だ。


「もっとお友達いっぱい作れたら楽しかったかも、とか。もっと”好き”を積極的に晒しても良かったかもしれない、とか。どっちつかずに終わったこと──今でも、ずっと後悔してる」


そんなのは所詮たらればでしかない。

わかっていても、ここ数日で遥は何度も逃げ出した日を振り返った。

写真を見ても反応しなければ良かったかもしれない、いっそ話を合わせてれば良かったかもしれない、そのまま真正面から反論してれば少しは楽だったかもしれない──。

全部、今となってはあり得ない話だ。あり得ないからこそ、胸を締め付けるのだ。

そんな後悔が二年も続いたら、どれほど苦しいだろう。


「みんな、ワケアリなの。普通に歩きたくて、それでもいつの間にか脇道に逸れてに迷い込む。真っすぐ歩けないあたしたちは、後ろ指さされて、自分の事が嫌いになる」


もちろん、遥くんもね、と。

”あたしたち”に含めるように、杏が指さしてくる。

自分のことが嫌いになる。逃げ出した自分のちっぽけさを思い知った瞬間、真昼の校舎を前にした時は、今でもありありと思い出せてしまう。

そこから逃げ出した自分が、遥は嫌いだ。いつまで経っても後悔してる。

切り替えて何かをすることなんて、できるはずもない。


「……でもね、遥くんにはそうなって欲しくない。あたしみたいに後悔して欲しくない……から……っ、だから──」


ならば、向いている方角は一つだけだった。

大切なものを敵の前に晒しておけるか。

背を向けた先に守るべきものが──”好き”があるのなら、それを置いて逃げ出す──。



「──立ち向かってよ! ”ヴィエルジュブラン”っ!」



──そうやって、諦められるわけがない……!



手を差し伸べられた幼少期からずっと、”魔法少女”が好きで堪らなかった。

ずっと、その背中を見てきた。”好き”を抱いて、守ってきたのだと思っていたけれど、考えてもみれば違っていた。

”好き”に、匿われてきたのだ。

学校で浮いても《ヴィエルジュ》に辿り着けた。

道から逸れた先でも、”好き”のおかげでまた誰かと繋がれた。


今度、それを守らなきゃいけないのは誰だ。

居場所を──”好き”を、諦めて、後悔せずにいられるか。


無理だ、諦めきれない。既に結論は出ている。

それならば、なんて答えるべきだ。


「……諦めたく、ない」


口を衝いて出た答え。

それは、立ち向かうのだという決意。

無謀だ、一度は背を向け、逃げ出した敵なのだから。


だけれど、必然、そうしなければいけない状況だった。

そこに、守るべきものがあったから。

翼が無くたって、フリューゲルは下を向かなかった。

当てが無くたって、いつかの”魔法少女”は遥の家族を探し続けてくれた。


自身の”好き”を守り抜くために──遥も、立ち向かわねばならないのだ。


「……その心意気やよし。立ち向かう”ブラン”、それが、あたしの一番見たかったものだよ……っ!」


こんな時に、涙を滲ませながらも笑顔を向けてくれる。

自分の過去を引き合いに出して、後悔するなと背中を押してくれる。

そんなの存在が、今の遥にとってどれだけありがたかったか。


「……ありがとうございます、杏先輩」


ずっとうずくまっていた中、文字通り目が覚めたのだ。

久々に伸ばした背、はっきりと開いた瞼、カーテン越しに射し込む光は、まだ少し目に痛いけれど、確かに五感が機能し始めた、そんな気にさせてくれる。


「一応確認するけど、透羽ちゃんからあたしたちの計画は聞いた?」

「……はい。一応は」


昨日は、透羽ともまともに会話ができなかった。

どこかでタイミングを取って話さなきゃな、ということはさておき、その計画については確かに覚えている。文化祭での”魔法少女”ライブ、その練習風景が流出したことにして、今回の一件を有耶無耶にするのだ。


「よーしっ! じゃあ、あとの詳しいことは車で話すね?」

「……車?」


怪訝な顔をする遥とは裏腹、杏は今日一番のしたり顔をして、カーテンを開いた。


「ふふんっ、ご忠言ついでのからのサプライズだよっ!」


はるか真下、車道の方に住宅街とは不釣り合いな赤いスポーツカーが停まっていた。

そして、その脇には女性のものらしきシルエット──手を振っているのが辛うじて見て取れる。

それは、遥にとっては確かに見覚えのあるものだった。


「……マキさん?」

「そそっ! あたしたちを学校まで送ってくれるって。そもそも、あたしをここまで連れてきてくれたのもマキさんなんだ。それじゃあ、行こっか!」


掴まれとでも言うように、杏が腕を差し出してくる。

立って歩く。それだけのことなのに、久々で、遥がよろめいてしまったからだろう。


「……大丈夫です、一人で歩けますから」


それでも、今度こそ強がりではなく心の奥底から漏れた言葉だった。

久々に踏みしめた床は、確かな感触をもって、立っているのだと教えてくれる。


遥は一歩踏み出した。

たとえ、翼が無かったとしても──立ち向かうために。前へと進まなければならないから。



◇ ◇ ◇


◇ ◇




「……本当に心配させてくれるわね、あなたたちは」


サングラス越しに向けられた視線。

ハンドルを握ったまま、マキは後部座席を──遥と杏を、一瞬見やった。

どこか呆れているようで、それでも口角は僅かに吊り上がっていた。


「マキさんが頼れる大人だから、その分ね? あたしたちは伸び伸びやってますよ」


背もたれに体を預け、杏が口にする。

馴れ馴れしさはそれだけの信頼の証、マキと話している時の杏はやっぱりリラックスしているように見える。


「……まあ、可愛げがある分結構なんだけど」


真正面を向いたまま、マキはそれ以上視線を遥たちに向けることはなかった。

きっと、杏の褒め文句がよっぽど効いたのだろう。遥にはその態度が照れ隠しをしているようにも思えた。


窓の外に目をやると通い慣れた通学路。

しかし、人影はほとんどない。既に昼過ぎだから当然だろうか。思い返してもみれば、遅刻した時にも見るこの風景。どことなく居心地が悪くて、助長された不安が遥の心拍を乱す。


「二人とも、着いたわよ」


かなりの振動と共に車が停まる。

それだけ飛ばしてきたのだろう。降車後、車体にもたれかかりながらサングラスに手を当てるマキの姿は中々様になっていて──それでも、かなり格好つけているように思えた。


「……遥くん。試すわけじゃないんだけど、大丈夫そう?」


釣られて遥が車から降りた時、マキはそんなことを聞いてきた。


「今回の一件は、《ヴィエルジュ》のセキュリティーが甘かったことも関係してるし……私は車を見てなきゃいけなくて、これ以上はついて行けないから……」


口調は心配そうで、ポーズに反して少しおどおどとしていて。

どこか、子供っぽいところも残っている。

だけれど、それだから信頼できる大人なのだ。


「……僕は"魔法少女"ですから。ライブだって《ヴィエルジュ》で何度もやってます。任せてください」


強がるように遥は口にする。

口数多めに、半ば自分を安心させるためだ。


「まあ、若い内の苦労は良い経験よ。《ヴィエルジュ》はいつでも開いている──居場所はいつだってあるから。ドンと構えて、行ってきなさいな」


帰れる場所、自分らしくいられる場所、好きを──分かち合える場所。

いつだって、《ヴィエルジュ・ピリオド》は待ってくれている。

それならば、恐れも少しは解けた気がした。


「──はい。行ってきます」


一歩、校門の向こう側へ。

目の前には校舎がそびえ立つ。コンクリ造りで、無機質で。

一度、逃げ出した。それでも、今一度こうやって対峙している。


「合流ポイントは──体育館、なんだけど……遥くん、場所わかる?」

「校舎脇、多分、今日はわかりやすいはずです」


文化祭一日目は生徒とその保護者しか入場できない、パフォーマンス日程だ。体育館で各クラスが用意してきた演し物を披露する。その中でも、生徒会が務めるのはトリ。杏から渡されたプログラムの末尾には演劇『シンデレラ』、と確かに記されている。


『──この靴は、あなたのものですか?』


辿り着いたドア。ステージに繋がるその隙間から、セリフが漏れてくる。察するにもう終盤、ガラスの靴をシンデレラが履くシーン。これが終われば衿華の出番なのだろう。


「……遥くん。あたしの役目はあなたを連れ出すまでで、ここからはほとんどできること、ないんだ」


ぽつりと杏が溢す。

きっと、一瞬ドアに手をかけたまま、遥が開けるのを躊躇してしまったからだ。


「それでもね、ずっと──応援してる。あたしはいつまでも遥くんので、だからっ!」


杏が手を重ねる。一人でダメなら手伝うと言わんばかりに。

二人分の力で、ギィとドアが軋む。

手に力を込める。途端、拡散される音。たった今開けたのだ。


そして──ここから先はもう、逃げられない。


「……杏先輩! それに……真白さん!」


入った先はステージ脇の控え室。真っ先に出迎えてくれたのは紗だった。


「良かった! ……って、安心している場合ではありませんでしたわね。こちら、早く着替えてくださいな!」


杏とお揃いのジャージ姿、恐らくは裏方として働いているのだろう。脇に置いてあった紙袋を手渡される。覗いてみると、遥が着慣れた黒のロリータ服にウィッグ──"ヴィエルジュブラン"の衣装だった。


「ありがとうございます、紗さ──」

「礼なら後で聞きますわ! "ノワール"はもうスタンバイしています! "ブラン"もお願いしますわ!」


演劇が終わったのか、外から拍手が聞こえてくる。

幾重にも重なったもの、壁がビリビリと振動する。

それだけ、観客は多いのだ。既にわかっていたことではあったけれど、再認識させられて遥は紙袋を掴む手に力がこもるのを感じた。


「着替え、手伝った方がいい?」

「……流石に、今は自分で出来ますよ」


心配そうに見つめてくる杏の提案をやんわりと断りながら、遥はカーテンで区切られた簡易的な更衣スペースに入った。

初めて”魔法少女”衣装に袖を通した日のことを、今でも遥はよく覚えている。

その時は確か、杏に手伝って貰ったうえで、二時間もかけてしまったんだったか。


解いてあったコルセット、かなりバイトでも動き回ることが増えてきたからか、それとも成長したからか、近頃は少しずつ筋肉が付いてきた。

きゅっと締めると、やはりきつかった。

パニエを腰まで上げ、その上からスカートを履く。ふんわりと持ち上がったスカートと、先程締めたコルセット、体型を誤魔化すための、ちょっとした”魔法”みたいなものだ。

最後に胸元のリボンを結び、肩にかかったウィッグを後ろにやる。


普段と違って化粧をしていないし、随分と簡易的な着替えだったけれど、それでも意外と時間は掛かる。ヒールは硬く、足を締め付ける。


紙袋に入っていた手鏡でさっと身だしなみを確認する。

髪よし、衣装よし──完全に塗り固めた。

遥は”魔法少女・ヴィエルジュブラン”として、”変身”を遂げた。


「終わりましたわね、”ブラン”。それでは、早いところスタンバイをお願いしますわ!」

「ガツンとかましちゃえ! ”ブラン”!」


バイト仲間二人の応援エールを受け止めながらも、地を蹴り上げる。

硬いヒールが地面に擦れて、少しばかり走りづらい。それでも、この足で踏めるステップは、普段よりも高く、遥を跳ねさせる。

一段、二段、三段、ステップだって手慣れたものだ。カツン、カツンとヒールを鳴らし、遥はそう長くない階段を駆け上がる。だからこそ、半ば最後の一段を無視するように、広く一歩を取った──。


「──うわっ!?」


あろうことか、遥は階段を踏み外してしまった。

よろけて、体が後ろ向きに倒れていく、正に転びかけた、その時だった。


「──手を!」


上から伸ばされた手が、遥の腕を掴んだ。

華奢で、柔らかくて、それでも、力強い。

引っ張りあげられるようにして、遥は舞台袖に転がり込む。

ぺたんとついてしまった尻もち。そんな遥の目の前に、もう一度、手が差し伸べられた。



「──お怪我は、ございませんか?」



舞台から反射した光が、その瞳を照らしていた。

切れ長な瞳に宿った強い意志、肩まで伸びた黒髪。

それとは対照的な、白いロリータ服。だけれど、背に象られた翼は、遥が初めて見るものだ。


「……ええ、何とか。ありがとうございます、衿華さん──いえ」


以前は、自分が差し伸べて。今度は、差し伸べられた。

今度は、遥が手を取る番だった。


「──”ヴィエルジュノワール”」


”ノワール”は──衿華は、普段の仏頂面を崩して、微笑みながらそこに立っていた。

瞳の表面は、僅かに揺らいでいる。少し潤んでいるようにも見えた。


「……どうするつもりだったんですか。もしも、僕が戻ってこなかったら」

「そんな可能性は排除していました。だって、信じていましたもの──あなたなら、絶対に戻って来るって」


感慨深げに衿華は口にする。


「……少し、買いかぶりすぎじゃないですか?」

「いいえ。現にこうして戻ってきたではありませんか。それに、私が知っているあなたは、絶対に逃げたままじゃ終わらない。少なくとも、である私の前で強がっているは、絶対に信頼を裏切ることはありませんでしたから」


衿華の前で強がっていた。

そこまでバレていたのなら、もう完敗だ。

実際、衿華が言う通り、確かに遥は戻ってきた。彼女が向ける一途な信頼。それに、遥は報いた形になるのだ。それなら、と思わず一息吐いてしまう。


「……どうして、ここまでしてくれたんですか?」


そんな、残った最後の疑問に、衿華は目を丸くして──最後には、よっぽどその言葉がおかしかったのか、少しばかり笑ってみせた。


「言ったではありませんか。いつか恩返しをさせて欲しい、と。これは、あなたがくださった”いま”への、ささやかなお礼のようなものです」


そうして微笑みかけたまま、衿華は衣装のポシェットから何やら取り出すと、遥に握らせた。

星型、手に収まるほど小さい、ボタンが触れる──あの日、《ヴィエルジュ》で贈ったライトだ。

照らされた”いま”の象徴、分かち合った”好き”。それを確かめるように、高まる心拍を抑えるように、遥は胸に触れる。柔らかなリボンの感触がそこにはあった。


「ここからが私の役目です。心配なさらないでください。体育館の舞台は、《ヴィエルジュ》のステージよりもずっと、私にとっては慣れた場ですから」


確かに、生徒会長である衿華にとってはそうなのかもしれない。

今は二人だ。結わえ上げて、共に敵に立ち向かう共闘体制ユニットだ。

遥がリボンに重ねた手を、衿華は取ると、それを引いた。



「──行きましょう。”ブラン”」



大歓声と、視界を塗りつぶす照明。

目眩がする上、ほとんど何も見えない中、衿華に引っ張られるままに前へ進む。

やっとのことでマイクの前へたどり着き、隣の衿華に倣って、一歩前へ出た時だった。


「っ」


人、ヒト、ひと。


視界を、見える限り眼下を人が埋め尽くしていた。


『──ツインユニットの片翼を担ってもらう、生徒会書記の真白遥くんです。彼にはこの文化祭のためにずっと、練習をしてもらっていました』


作戦の一環として、衿華がそういう体裁にしてくれているのはわかる。わかるのだけれど。

一つ、二つ……到底数え切れるわけもない、数多の視線。そして、幾重にも重なった声、声、声。

皆が遥を見つめている。それも、噂をしているなんてものじゃない。彼らが見ているのは魔法少女をしている遥だ。もう、逃げようも誤魔化しようもない中で、視線に晒されている──。


『このライブ自体、今日まで秘密にしておくつもりだったのですが……隠し事、というのも難しいものですね?』


すぐ隣から聞こえてきているはずの声すら遠く。


「……っ、はぁっ」


大きく吸った息、張り裂けんとせんばかりに肺が悲鳴を上げた。

耳の奥でぐわんと反響する、痛いぐらいの耳鳴り。心拍、はやる呼吸。


──なあ、真白。お前さ、コスプレしてただろ。


苛まれている。否定された時の記憶が、脳裏をよぎる。

象られたハート、その表面、亀裂。付いた傷は、二度と取れない。

一度焼き付いたトラウマは、払拭できない。


──あ、面白かったね。映画。


『それでは、聞いてください。一曲目──』


”好き”が、届かなかった瞬間が。

そうして、幾度となく否定してくる声が──。


──遥は、変わ



「はる、かあああああ──っ!!!!!!」



衿華のMCも、ざわめきも、全てをかき消すほどの声が、体育館中に響いた。

張り上げられて、掠れて、潰れそうな声。

それは──幾度となく回想した声と、同じものだった。

ステージの真下に、透羽がいた。なりふり構わず真正面から”魔法少女”姿の遥を捉えて叫んだ。



「いっけえええええええ──っ!!!!!!」



瞬間、スピーカーから割れんばかりの音量で音楽が鳴り出す。

ざわめきなんかかき消すほどの聞き慣れたイントロ──間違いない。


「──”抱きしめた愛、駆け出すんだ”──っ!」


背中を押されたままに、応援エールが冷めやらぬままに、吸った空気を声に返還して、喉奥から絞り出すようにして吐き出す。

思えば、幼い頃から幾度となく口ずさんできたメロディーは、ちっとも外れること無く出力された。

それだけ長い間、”好き”だったから。


「──”絶対、何回、何があったって諦められない”──っ!」


衿華に高音パートを託し、一度息を整える。

観客は思いの外、盛り上がっていた。きっと、思い出補正だとか、そういうのだ。

だけれど、遥の中では──、”魔法少女”は思い出の中に閉じ込めるべき存在じゃない。

好きで堪らない。抱きしめたまま進みたい。


「”さあ、ラブっと──!”」


そうして道なりに進めないのなら、型に嵌まれないのなら、その外で生きていけばいい。

息を潜めていればいいと、そう思っていた。

それでも、案外世界というのは面倒臭く出来ている。中途半端に放っておいてくれず、型を前にして、変わることを強いられる。


「迸れ──”いま”──っ!」


ずっと変わりたかったのは、自分にが持てないから──自分を好きになれなかったからで。

だとしても、きっと遥が嫌いだった自分は──変われなかった自分は、何も周りと同じように成長できない自分じゃなかった。

ハナから自分の”好き”は少しワケアリなのだと諦めて、息を潜めている自分だった。

”好き”に自信を持てない自分だった。


後ろ指さされようがなんだ。

馬鹿にされようがなんだ。


”好き”は好きだ。大好きなのだ。


それを受け入れられない自分が嫌いだった。

”好き”に、本気で向き合いたかった。



『──”キラピュア”──っ!!!!!』



ラスサビ、最後のコール。体育館中から声が上がる。

女子の声援がメインとなっていたが、観客からの反応も得られつつ、曲は終わった。


肩で息を整えながら、遥はマイクを引っ掴む。

吐息が触れて、ノイズが散る。

まだ、呼吸は荒い。それでも──遥にはやりたいことがあった。


もしも、今の自分にそれができないのだとしたら。

それなら、変わればいい。


”魔法少女”と同じ、変身している今の自分なら、胸を張れる。

そうやって、《ヴィエルジュ》ではやってきたはずだ。



「ボクは──っ!!!」



翼はある。

今、こうやって立ち向かえているのだから。


憂いも、苛んでくるものも全て打ち払えばいい。

たとえ敵に拳が届かなかったとしても、翼がある今なら羽ばたけるから。



自分の”好き”は最強なのだと、貫ける──。



「”魔法少女”が──大好きだああああああ──っ!!!!!!!」



ジンジンと痛む喉、限界まで吐ききって切れた呼吸。

それでも、証明できたから。満足気に遥の口元が緩む。


”魔法少女”が大好きなのだ、と。


”好き”を好きだと叫んでやって、胸を張れたから。

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