08.こもれび

 つま先が水に浸り、歩く度に跳ね上がってしまうので、裾が濡れて作業服の色が変わっていた。安全靴とはいえ、ずっと水に浸って歩いてきたから、すっかり水がしみこんできて靴下まで濡れていた。

「これはひどいな」

 思わず堀川は呟いた。

 この区画は、壁の内側を水道管や送風管が通っている。その壁の一部に穴が空き、水が音を立てて吹き出していた。天井の高さは五メートルほど。穴は、床から三メートルほどのところに空いていた。吹き出す勢いが強いので、時々天井にまで水しぶきが飛んでいる。そのせいなのか別の原因か、天井のパネルは一部が落ち掛かっている。

 上から大量の水が降り注ぐので、傘があっても役には立たなさそうだ。カッパを着ていても、どれだけ役に立つかどうか。

 ただ、上水だったのは幸いだ。これが下水管だったら、と想像するだけでもげんなりする。しかし、この水道管と繋がっている家庭や企業などはたまったものではないだろう。

 事務所を出る前に見た図面では、水道管の隣を送風管が通っていた。下に向かって空気を送っている配管だ。そちらにもどうやら穴が空いたらしい。送風管が壊れても、すぐには影響は出ないが、間違いなく水が流れ込んでいる。下流のフィルターや設備は水浸し、水が流出している通風口もあるだろう。

 一緒に来た部下二人には、その確認に向かわせている。堀川は、秋元達と共に送風管の修理をする手はずになっているのだが。

「これじゃあ手が出せないわね」

 秋元が腰に手を、噴き出す水を見上げる。前髪が濡れて額に張り付いていた。

「水道局は、まだ元栓を閉じられないんですか」

 門外漢なので、元栓を閉めるのにどういう手順があるのか分からない。けれど、破裂しているのが発覚してから三十分以上経っている。それでもまだ水が流れ続けているのが、堀川にはもどかしかった。送風の方は、既に止めているのだ。

 影響が小さいとはいえ、いつまでも送風できなかったら、給排気のバランスが乱れてしまう。

「秋元さん、濡れますよ」

 直接はかぶらないように気を付けながらも、秋元は壁に向かっていた。

「どうせもう濡れてるし、ここでぼーっと眺めててもしょうがないでしょ」

 噴き出す水のせいで、穴の大きさはよく分からない。秋元の言う通りだと思い直し、堀川も彼女の後を追った。

 壁に近付くにつれ、いよいよ全身ずぶ濡れである。

 湯水のように使う、とは言うが、〈春時〉で文字通りに湯と水を惜しげもなく使えることは、滅多にない。これほど大量の水を浴びるなんて、上層では考えられない贅沢だ。そう思うと、吹き出す水越しに見える天井の照明の涼やかなこと。

 半ばやけっぱちに、埒もないことを考えていたら、秋元がぽつりと言った。

「そこそこ大きそうね」

 やってもほとんど意味はないが、秋元は顔の水を拭う。

「……そうですね」

 人の頭二つ分くらいだろうか。予想していたよりも大きい。縁の形は不規則なようだ。

 壁はバイオマス樹脂でできたパネルの上にモルタルを塗っている。水道管が破裂して、水の勢いで穴が空いてもおかしくはない。最上層は〈春時〉で最も古く、老朽化しているところも多いから。

 だが――と堀川の頭には違う可能性も浮かんでいた。

 藤原が先日話していた、なんとか戦線による破壊活動。当時のことは、藤原の同期だった局員から、より詳しく聞いていた。

 眉間にしわを寄せ、穴を見上げる。

 どうして、穏やかにできないものか。どうして、他人の日常を壊そうとする――。

「あ」

 秋元の声で我に返る。水の流出が、どんどん穏やかになっていく。

 ようやく元栓が閉じられたらしい。

 作業服の胸ポケットに入れていた小型端末が振動しているのに気付いた。部下からの連絡だろう。

 下とその下の階で、通風口から水が流れ出している箇所が、何カ所もあるということだった。それから、天井から雨漏りしているところも。

「……これは、後始末が大変そうね」

 堀川と部下の会話を隣で聞いていた秋元が肩をすくめる。水浸しになったところは、他にもまだまだあるだろう。空調局と水道局には、今頃苦情がたくさん届いているに違いない。

 そうですね、と答えて、堀川は天井近くの穴を見上げた。その時、落ち掛かっていた天井のパネルが、更に不安定な状態になった。照明を遮るように、パネルがゆらゆらと揺れる。

 まるで木漏れ日みたいだな、と思いながら、秋元の部下が梯子を抱えてやってくるのを見ていた。

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