07.酒涙雨
地上は今日も曇り空。七月七日の今日は、織り姫と彦星が年に一度の逢瀬が叶う日であるが、地球が塵に包まれて以来、二人は百年以上も涙に暮れていることだろう。
塵に覆われる前の今頃は梅雨という季節だったから、雨模様になることも多かったという。今日は雨が降っていないが、織り姫と彦星が会えない年は、大昔も案外多かったのかもしれない。
天気任せの二人に比べれば、自分はよほど果報者だな、と見渡す限りの荒涼とした風景を前に、鹿屋はひとりごちた。
「何か言いましたか?」
配電盤の数字を読み取っていた古海が、小首を傾げていた。
独り言はマスクに装着した吸収管に吸い込まれたと思っていたので、ドキリとする。落ち着け。吸気口の騒音がすごいから、聞こえるはずがない。
「いや、何も言ってない。それより、数値は大丈夫?」
「はい、正常の範囲内だと思います。鹿屋さんの端末に送ったから、確認をお願いします」
鹿屋は至極何事もなかったように、右腕に装着している端末を操作する。古海の言う通り、異常な数値はない。正常に稼働している。
今日の点検では、幸い異常箇所はなく、順調に進んでいる。点検するのはあと一カ所。そこもすんなり終われば、地下に戻れる。軽いメンテナンスが必要だとしても、あと一カ所ならば、夕方までには終わるだろう。無人兵器との遭遇があるという場合は、考えないことにする。もちろん警戒は怠らないが。
「よし、じゃあ次に行こう」
「はい。――鹿屋さん、なんだか楽しそうですね?」
「え、そう?」
マスクをつけているから、お互いの口元は覆われている。顔の上半分しか見えていないのに、それでも分かるほど、顔に――目元に出ているのだろうか。
夕方にはミーティングがある。それには堀川も出席するのだ。シフトの関係で、数日ぶりに彼女の顔を見られるのだ。我知らず、心躍っていた。
「地上に出るの、鹿屋さんはもしかして楽しいんですか?」
「いやいや、そんなことはないよ。ほら、今日は何事もなく順調だから、早く地下に帰れると思っただけさ」
工具箱は古海が持ち、鹿屋は銃だけを持って歩いていた。銃も重いが工具箱も重いので、古海の足取りはいつもよりもやや遅い。
「それより古海さん、歩くのに集中した方がいいよ」
これは決して、古海の意識を別の方に向けたいわけではない。チューターとして、まっとうな忠告をしただけである。そう、安全のためである。
古海は「はい」と答え、それからは鹿屋に言われた通りにした。
最後の点検箇所である排気口も、異常なし。今日はついている。
「今日は早く〈春時〉に戻れるね、古海さん」
帰り道も油断禁物であるが、地上での点検作業が一段落した分、気持ちは軽い。心なしか、行きよりも古海が歩くのが速くなっている気がする。
「鹿屋さん、拡張工事で、新しい吸排気口を建設するんですよね」
行きに点検した排気口の脇を通り過ぎた時、古海が言った。
「そうなるだろうね」
「どのあたりに作るんですか?」
「さあ……。俺もまだ聞いてないけど、たぶん、おおよその場所は決まっていると思うよ」
国土建設省の、都市管理局や空調局、水道局あたりの担当者が集まって協議しているだろうか。同期入省した同僚たちの顔がいくつか浮かぶ。知っている誰かが、設計図を引いているかもしれない。
それに引き替え自分は……と久しぶりに鹿屋は思い、ため息を吐いた。今度は古海には気取られなかった。
空調局の仕事にもずいぶんと慣れた。堀川の顔が脳裏を過ぎり、それに最上層も悪くはない、としみじみする。
堀川や藤原に、左遷された使えない官僚だとは思われたくない。呼び戻されるまで、ここで力を振るうのだ。
●
事務所に戻ると、なにやら慌ただしい雰囲気に包まれていた。
「何かあったんでしょうか」
「どうもそうみたいだね」
古海と顔を見合わせる。そんな二人の脇を、同僚数人が足早に通り過ぎていった。
事務所の奥を見やると、藤原が電話で何やら話していたが、受話器を置いた。すぐに次にかける様子がなかったので、彼女の元へ向かう。
「藤原さん、何があったんですか」
「下層に向かう水道管が破裂して、その近くを通っている送風管もダメージを受けたと連絡があったんだ。報告によると、漏水程度ではない水漏れが起きている」
なるほど、それで皆がばたばたとしているのか。水道局は更に慌ただしいに違いない。
「僕も応援に行きます」
「いや、人員の配置はもう済んでいる。堀川達が向かっているから大丈夫だ」
「堀川さんが?」
「秋元とそのチームで手が空いている者も向かわせた。それでなんとかなるだろう」
その手配が終わったばかりなのだろう。藤原は背もたれに体重を預けた。
「そういうわけで、今日のミーティングは中止だ。みんな出払ってしまったからな。鹿屋も古海も、日報を出したら帰っていいぞ」
速く帰れるのはありがたい。しかし、堀川はもう現場に行ってしまったようで、姿が見えない。
織り姫と彦星の気持ちを、どうやら鹿屋も味わわねばならないようだった。
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