06.アバター

 どこまでも果てしなく広がる草原の上を、風が渡っていく。遠くから聞こえる鳥の鳴き声の出所を求めて顔を上げると、むらのない真っ青な空が視界を埋め尽くす。白い雲の下を、小さな点が移動していた。

「あれは……」

 日差しがまぶしくて目を細める。小さな点は、少しずつ大きくなっているようだった。

 古海が普段目にする地上とは違って、ここは明るく美しい。身を守るための防護服もマスクも必要ない、明るい日差しが降り注ぐ。タコや蛍に似せた無人兵器はどこにもいないから、何も警戒することなく、草原に寝転がったりもできる。

 この世界が本物であればどんなに良かっただろう。この前の訓練は仮想空間内だったが、実際の地上で起こりえることだ。

「やっほ、アデル」

 頭上から聞き慣れた声が降ってくる。頭上にいたのは、真っ白で首の長い、大きな鳥だった。

「やっほ、スワン。今日は早いね」

「うん。たまには早く来ないとね。一応、リーダーだし」

 スワンと呼ばれた白い鳥は軽やかな動作で古海の隣に着地した。

「今日は残業がなかったしね」

 スワンと名乗っているが、白鳥のアバターではないところがややこしい。シラサギという鳥で、白鳥よりもシラサギの方が気に入ったからこのアバターにしたそうだ。デフォルメされていないデザインなので、最初の頃は、ここが仮想空間で相手はアバターだと分かっていても、鳥がしゃべることへの違和感があった。

「アデルも、今日は定時で終わったのかい?」

「うん。まだ下っ端だし見習い期間みたいなものだから、残業はほとんどないよ」

 古海は、ここではアデルと名乗り、十歳くらいの少年の姿をしている。髪は柔らかな茶色、くりくりとした大きな目も同じ色。一見すると女の子と見間違えるような整った顔立ちで、ディアストーカーハットとインバネスコートという出で立ちだ。地下都市では基本的に必要がないインバネスコートが、特にお気に入りである。

「そうか。空調局の仕事は、もう慣れたかい?」

「少しは、慣れてきたところ」

「――周囲に怪しまれたりは?」

「してないよ」

 鹿屋はもちろん、空調局の誰も、古海が入局した本当の動機は知らないし、怪しんでもいないはずだ。

 古海はほとんど毎日、アデルとしてこの仮想空間『ペルスピクア』にログインしていた。ペルスピクアは招待制なので、ごく限られた者しかログインできない。招待してもらうには、ペルスピクアの仲間全員から承認されなければならない。そしてまず、承認されるには、ペルスピクア以外の場所で仲間の誰かと知り合い、彼らの考えに共感し、仲間になり得ると認められなければならなかった。

 一年ほど前、古海は認められて、ペルスピクアにログインできるようになったのだ。

 ペルスピクアは仮想空間の名前だけではなく、同じ考えを持つ仲間たちの集団としての名前でもあった。

 名付けたのは、ペルスピクアの名前がない頃からその主張を掲げて仲間を増やしていった、スワンだ。

 古海たちの主張は、地下都市内の格差是正と、移動や移住の自由、だ。珍しい主張ではない。ペルスピクア以外にも、同じような主張を繰り広げる集団はいくらでもいるし、政治家だっている。

 最上層の住人が、最下層へ移住するのは難しい。立ち入るにしても、何かと制限がある。すぐ下の層にだって、自由に行き来できるわけではない。それが息苦しくて理不尽だとずっと感じていた古海は、別の仮想空間でたまたまスワンと知り合い、話をするうちに、同じような考えを持っていると知ったのだ。

 古海は漠然とした不満を抱えているだけだったが、スワンは仲間たちと、それを世間に訴える活動をしているという。自分も参加したい、と思った。

 そうして、古海はペルスピクアの仲間に認められ、招待されたのである。

 抗議活動としてデモを行い、ソーシャルネットワーキングサービスを使ってペルスピクアの考えを訴える、というのが主な活動だ。穏やかなものだが、思っているだけで何もしなかった古海にとっては、実際に行動しているペルスピクアに参加する、ということは大いなる前進だった。

 今は、一年前の自分では思いもしなかったほど、行動を起こしている。

 スワンの発案により、空調局に入局したのだ。

〈春時〉の拡張工事は数年前から検討されていた。人口の増加は微々たるものだが、人々がよりよい生活を送るには更なる設備が必要だった。だから、いずれ拡張工事が始まると踏んでいたスワンは、空調局に仲間を送り込むことを考えたのだ。

 格差是正のためには、現状をもっと知る必要がある。拡張なんかするより前に、上層の住環境改善が先だ――そう訴えるための裏付けとして、空調局が持つ情報が必要だと考えたのである。

 上層と下層の空気の清浄度が違うのはなぜなのか。空調設備のどこにその差があるのか。〈春時〉の設備の全容はどうなっているのか――空調局に入局してそれを調べるのが、古海が自ら進んで引き受けた役目だった。

「最近の最上層と上層の大気に関するデータ、送っておいたよ」

 スワンだけでなく、ペルスピクアに出入りできる仲間全員に。酸素や二酸化炭素の濃度、粉塵の量、温度等だ。プライベートのウェアラブル端末にメモできる程度のものだが、空調局員でなければ見られない情報だ。

「ああ、見たよ。ありがとう、アデル。公式発表の数字とちょっと違うのが興味深いね。やはり、下層と差がある」

「チューターの話によると、最上層でも場所によって差があるから一番いいデータを出すんだって。だから嘘ではないってさ」

「ふん、欺瞞には違いない。空調局も、政府の機関だからな。拡張なんかするより前に、上層の環境を良くするべきなのに。空調局はそれを良く知ってるだろうに、だんまりだ」

 スワンが不機嫌そうに言って、身震いした。シロサギの顔が怒っているように見える。

 古海が見る限り、鹿屋も堀川も藤原も、日々の仕事に追われているようだった。忙しさにかまけて、上層の環境を良くすることなど考えていないのではないだろうか。現状をよく知っているはずの人たちなのに。

「アデル。拡張工事のことは、何か聞いているかい」

「ううん、まだほとんど何も。忙しくなる、とは聞いているけど。いつからどう忙しくなるのかは、まだ分からないよ」

 最下層の拡張部に空気を供給するための設備は、どうしたって上層を通さなければならない。そのため退去しなければならない人々が出てくるだろう、と言っていたのは堀川だ。長年住み慣れた場所を離れたくない人だっているはずだ。

 けれどきっと、そんな人々の意見は無視される。退去は拡張部への移住と引き替えになるだろうから、応じる人々の方が多いはず。用地買収は難しくないだろう、というのは鹿屋の意見だった。鹿屋は、中層から最下層への移住権を手にした人だから。

 それをスワンに話すと、さらに不機嫌な表情になった。

「それを見越して、拡張工事はどんどん進められていくだろな。離れたくない人がいたって、下に住む人間には関係ないんだ。上層はいつだって、下の都合でいいようにされる。――拡張工事反対も、これからもっと訴えていかないと」

「うん」

「アデル。君にはこれからも頑張ってもらわないといけない」

「うん、分かってる。大丈夫だよ。わたし、頑張るから」

 ペルスピクアの仲間のためなら、あの陰鬱で危険な地上に出るのも、緊張の連続である訓練も我慢できる。

 そう思うだけで、いいようのない充足感に包まれるのだ。

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