第二十四話『僕は覚えてる』

「脱皮……ですか」


「はい、そうです。今突き詰めている路線をさらに昇華させるのでも、新しい範囲に足を踏み入れていただくのでも構いません。……照屋さんの新境地は、必ずだれもが目を奪われるものになるでしょうから」


 オウム返しをした僕に、氷室さんははっきりと肯定の言葉を返す。氷室さんはお世辞を言うのに向いてない人だと知っているからこそ、その言葉は重く響いた。


 今の言葉の裏を返して言うのならば、僕はここから一枚脱皮しなければ先に進めないという事で。……今のままの僕で到達できる限界が近いことを、氷室さんは言外に伝えているようにも聞こえてしまった。


「……時間、かかるかもしれませんよ?」


「ええ、それでも構いません。一皮むけるという事がいかに難しいか、私たち編集者は分かっているつもりですから。……たくさん挑戦をして、たくさん失敗してもいい。十回やって一回でも新しい照屋さんの姿が見られたら、それは私たちにとっても大成功というものです。当然、そのためのチャンスは常に提供していくつもりですしね」


 少し弱気になった僕にも、氷室さんはぶれることなく僕にそう伝えてくれる。……僕の小説家としての才能を一番高く買ってくれているのは、もしかしなくても氷室さんだった。


 クールな見た目から誤解されやすいけど、氷室さんって結構情熱的な人なんだよな……。テンションが上がってるときでもそれが声色に反映されないのが不思議だけれど、その奥に眠っている熱が本物であるのは僕もよく知っているところだった。


 中学二年生だった僕のことを侮ることも過大評価することもせず、ただ正面から向き合ってくれたことは今でも覚えている。……氷室さんが居なければ、大切な友人を失ってもなお書き続けることは難しかっただろう。『イデアレス・バレット』は、三割ぐらい氷室さんの意志で補われたようなものだ。


「……ありがとうございます。できるだけ早く、成果は出していくつもりですから」


「ええ、期待していますとも。……照屋さんほど純粋に小説と向き合っている人は、私が見てきた中でもなかなかいませんから」


 小さく頷いて、氷室さんは僕の感謝を受け止める。……小説に真摯な人にそう言われると、なんだかくすぐったい思いがした。


「……僕、そんなに純粋ですかね? 小説を書き始めた動機なんて不純そのものだと思うんですけど……」


「ええ、それは否定しませんが。……ですが、きっかけはどうあれ照屋さんの小説に対する姿勢は十分特異なものです。……だって、まだ全部覚えているんでしょう?」


 僕の言葉を半分は肯定しつつも、しかし氷室さんは僕を称賛する姿勢を崩すことはない。……その根拠とするべく挙げられた問いかけに、僕は真剣にうなずいた。


 氷室さんはあえて主語をぼかしていたが、僕たちの間にはそれで十分だ。……だってそれは、普段は表情を変えない氷室さんが唯一驚愕したことなのだから。


「覚えてますよ。だってそれはキャラクターたちの人生で、一つの世界の物語なんだから。……その生みの親が忘れたら、世に出られなくなった物語たちは誰にも覚えていてもらえなくなるじゃないですか」


 笑みを浮かべながら、僕は少しだけ誇らしげに氷室さんに力説する。……それは、僕の過去の経験がそうさせている小説への向き合い方でもあった。


 僕の書く小説は、キャラクターの意志が軸になって構築されることが多い。それを僕は文章という形に書き起こしているだけで、文章にできなかったような物語だってたくさんある。……会議に落ちてッ続きを書けなくなってしまった物語とかは、なおのこと。


 だからこそ、『イデアレス・バレット』は特殊な例なのだ。小説の中で書きたかった物語の執着までもを書き切れて、全てのキャラクターの意志が報われる。……もちろんその先もキャラクターたちの生活は続いていくけれど、それを描くには題名を変えないといけなくなってしまうだろう。


 まあつまり何が言いたいのかと言えば、僕の物語は僕から生まれたキャラクターたちが織り成す人生の書きおこしのようなものという事だ。……その原案となったキャラクターたちのことを忘れるなんて、そんなことができるはずもない。


「忘れられるってのは悲しくて、とても辛いことです。……僕の子供同然ともいえるキャラクターたちに、そんな悲しい思いはさせたくないんですよ」


 目を瞑り、僕は自分の中にある思いをそうまとめる。……それを聞いていた氷室さんが少しだけ笑ったような声が聞こえて、僕は思わず目を開いた。


「……ええ、そうですよね。そういう方だからこそ、私はいつか照屋さんが大きく花開くって信じられる」


 氷室さんがこんな風に笑うのはめったに見たことがないのだけれど、今日は本当に珍しい日だ。……氷室さんのレアな一面がこんなに見える一日が来るとは、家を出るときには想像もしていなかった。


 一皮むけるっていう僕の課題も、もしかしたらそういう事なのかもしれない。僕自身もあまり見せていないような僕の姿を見せることができれば、それは一皮むけたという事になるんじゃないだろうか。


 そんなことを考えて居たからなのか、僕と氷室さんの間には沈黙が落ちる。だけどそれは決して気まずいものではなくて、むしろ心地よいと思えるぐらいだった。


「お待たせしました、こちらご注文のブラックコーヒーとベリースイートフラペチーノになります」


 その沈黙を破ったのは、注文した品を運んできたウェイターさんだ。僕の前にフラペチーノを、氷室さんの前にコーヒーを置き、レシートを置いて足早に去っていく。……その背中が見えなくなってから、僕はフラペチーノの入った器をゆっくりと氷室さんの方に差しだした。


「……今日も勘違いされましたね、注文」


「ええ、仕方のない事です。……慣れていますから」


 それを受け取りつつ、氷室さんもまたコーヒーを僕の方へと差し出す。……この見た目で超が付くほどの甘党であることもまた、氷室さんの知られざる一面だと言えるような気がした。

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