第二十二話『僕の分水嶺』
「……久しぶりに見たな、あの夢」
ゆっくりとベッドから体を起こして、僕はふと呟く。夢見が悪かったせいなのか頭はズキズキと痛んで、喉はすっかり乾いていた。
遠足の班決めから一夜明け、今日は氷室さんとの打ち合わせの日だ。次の小説の事とかそれ以降の活動の事とか、話したいことは何度顔を合わせても尽きることはない。『顔を合わせて話すこと以上に作家の背中を押すことはない』というのが、氷室さんのモットーだった。
その言葉通り、氷室さんは最低でも月に一回は会う機会を作ってくれるし、どうしても顔を合わせられない時もメッセージだけで事を済ませることはない。前に会議の結果を聞かせてくれた時も、『直接伝えられず申し訳ない』と頭を下げていたぐらいだ。
そうやって僕と丁寧に向き合ってくれるのは本当にありがたいし、それができるから編集部の方も氷室さんを僕に着けてくれたんだと思う。……『顔を合わせること』がどれだけ大事なのかは、僕も痛いほど知っていた。
たとえどれだけ仲が良くても、顔を合わせる機会が減っていけばその存在は自然と稀薄になっていく。声を聞ければそんなこともないのかもしれないけれど、それも簡単にできる環境じゃなかった。……自然、関係が薄れていくのは起こりうることなわけで。
「……づっ、あ」
また『あの時』のことを思い出して、僕は思わずこめかみを押さえる。夢で見てしまったからなのか、『あの子』の存在を僕は中々頭の中から振り払うことができなかった。
あの子との思い出は、大切であり同時に痛みを伴うものだ。良くも悪くもあの子が居なければ今の僕の生活はないし、性格ももしかしたらよほど違うものになっていたかもしれない。……僕の考え方には、今でもあの子が住んでいる。
僕が作家のことを話さないのも、それが『あの子』のためのものだったからだ。別にちやほやされるためにそうなったんじゃない、お金が稼げるって思ったからでもない。……ただあの名前が有名になれば、遠く離れていても僕のことを覚えていてくれるんじゃないかって――
「……くっ、はあっ」
そこまで考えると同時、僕は自分の呼吸が無意識のうちに早くなっていたのに気づく。空気が上手く吸えなくて、視界の端が薄くかすむ。……さっきは頭痛もしていたし、もしかしたら起きた時にはもう過呼吸気味だったのかもしれない。
あれからもう三年ぐらいが経つけれど、僕があの時の痛みを克服できる日はまだまだ遠いようだ。やっぱり僕は忘れられるのが怖くて、だから覚えられるのが怖い。……大切な人に忘れられる痛みなんて、もう二度と味わいたくないのに。
『……遠足プラン、休みの内にもっと練っといてくれると嬉しいな! あ、物語の仕入れも忘れないでね?』
「……こんなにぐいぐいと来られたら、突き放すなんてできないよな……」
携帯に贈られていた千尋さんからのメッセージを見て、僕は思わずため息を吐いてしまう。土曜の朝だというのにそのテンションはいつも通りで、とても楽しそうな雰囲気が文章からは伝わってきた。
千尋さんに作家のことを知られたのは誤算だったし、今みたいな関係性になってるのはもっと予想外だ。誰かを名前で呼びたいって思ったのはずいぶん久しぶりだし、仲良くなりたいと思っている自分がいる。……まっすぐ歩み寄ってくる千尋さんに応えたいって、そう思う自分がいる。
だけど、そう思うたびに頭をよぎるんだ。……『また忘れられるんじゃないか』って、過去の自分がささやく声が。
距離を近づけば近づけるほど、忘れられたときの痛みは激しいものになる。……それは、二度の痛みから知ったことだ。……今ならまだ、もしかしたら軽傷で済むかもしれない。もとから住んでる世界が違うんだって、そう割り切ることもできるかもしれない。
僕が本当に傷つきたくないと思うのならば、ここで僕は千尋さんから距離を取るべきだ。前へ進みたいという思いはあるけれど、それと傷つきたくないという思いは矛盾しない。……その決断の分水嶺は、日に日に近づいてきているはずなのだけれど――
『……うん、考えとく。物語に関しても、どんなジャンルがいいか言ってくれればそれにあった奴を探してまとめてくるよ』
千尋さんのメッセージに返信を送って、この二週間の間に購入した海の生き物モチーフのスタンプを添える。……分かれ目が近いと分かっていても、千尋さんを突き放すなんてことはできそうになかった。
それがどういう理由でなのか、僕にはさっぱり分からない。もう傷つきたくないのならさっさと身を引くべきなのに、それができずに僕は千尋さんに吸い寄せられている。……考えれば考えるほど、その結論からは遠ざかっていくような気がしてならなくて。
「……行くか、とりあえず」
千尋さんに関する疑問を一回隅に置いておいて、僕は氷室さんとの約束へと意識を集中する。……そういえば、気が付かないうちに頭痛はすっかり収まっていた。
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