第二十一話『僕と手紙とペンネーム』

――別に、皆に自慢したくて小説家になったわけじゃない。僕が小説家になったきっかけは、言ってしまえばたった一人の友達のためだ。


『……編集部の人たちとお話して、デビューに向けてのスケジュールを調整することになったよ。中学生ってことでいろいろ難しい部分はあるかもしれないけれど『できる限り手早く話を付けます』って氷室さんが言ってくれたんだ』


 シャープペンシルを手に持って、僕は自分で選んだ便せんに文字を書きつける。読みにくくならないように気を使いながら、それはそれは丁寧に。


 その机の隅には、今までにもらった手紙が積み上げられている。……言ってしまえば、僕とその子は文通友達だった。


 と言っても、最初から文通友達だったわけじゃない。友達がやむを得ない事情によって引っ越すことになって、僕たちは遠く離れることになってしまった。――忘れもしない、中学二年生の時の話だ。


 その時の僕はスマホなんて持ってなかったから、とっさに僕は提案したんだ。『……お互いの住所を知っていれば、手紙でお話しできるよね』……なんて、今となってはかなり珍しくなったコミュニケーションの取り方を。


 今思えば別に電話でもよかったんだろうけど、あの時の僕にとって手紙は特別なものだった。……その中には、僕たちが自分の手で書き付けた文字が残るから。


『あの時君が僕を誘ってくれたから、今の僕は小説家としていられるんだ。……本当に、ありがとうね』


 手紙の真ん中あたりに、僕は友達への感謝をつづる。それはボクの中で決して忘れてはいけない大恩で、これがある限り僕は小説家としての道を諦めるわけにはいかなかった。


 文通というのはどうしても時間がかかることがネックで、連絡を取りあうまでの間にも僕たちはお互いにいろんな生活を送っていく。……その中で友達の中から僕の記憶が失われていくのが、僕は本当に怖かった。


 大好きだった人に忘れられるというのは恐ろしいという事を、僕はこの身を以て知っている。忘れられるというのは痛くて辛くて、二度と経験したくないものだ。……だから、僕はその友達にも僕のことを忘れてほしくなかった。


『ペンネームはこのままでいいのかって氷室さんに言われたからね、僕は速攻でその人に教えてあげたんだ。『赤糸 不切』って名前は、大切な友達と一緒に考えたものです――ってさ』


 その名前の下に赤い線まで引いて、僕はそれを強調する。……その名前は、遠く離れた僕と友達を固く硬く繋ぐものだ。


『人と人の縁を結ぶ糸が、決して切れることがありませんように』――二人で考えた名前には、そんな願いがこもっている。それは普遍的な願いに見えて、ごく個人的な願いの具現だった。


 僕に取って、その友達はとてもとても大切だった。何物にも代えがたくて、大切で、大好きで。……引っ越しの話を聞いた時には、拭いても拭いても止まらないぐらいにずっと泣き続けて。


 距離は遠く離れてしまったけれど、それでもこの名前があれば僕たちの繋がりはずっと確認できる。『この名前が僕たちの友情の証だよ』――なんて、今思えば少し恥ずかしいようなセリフもあの時は惜しげもなく言うことができたものだ。


『僕の本がお店に並んだら、きっと君の家の近くの本屋さんにも並ぶことになるよね。……もし本屋さんに行くことがあったら、探してみてくれると嬉しいな』


『赤糸 不切』が有名になればなるほど、僕が忘れられることはなくなる。たとえ遠く離れていても、僕と友達の縁は切れずにいてくれる。……きっとまたいつか、揃って笑いあうことができるようになる。


 そう信じていた。信じたかった。大切な人から忘れられるなんて、もう二度と嫌だった。あの痛みは胸の奥の奥、致命的な部分を貫いてぐずぐずにかき回してくるんだ。


 だって、想像できるわけがなかったじゃないか。昨日までは僕のことを歓迎してくれて、いつも頭を撫でてくれたおばあちゃんが。……生まれてからずっとかわいがってくれたおばあちゃんが、唐突に。


『……見ない子だね。あんた一体どこの子だい?』


――僕のことを、すっかり忘れ去るなんて。


 そういう記憶にかかわる病気があることを、今の僕はもう知っている。だけど、あの時の僕はまだ小学二年生だった。具体的な病気の名前なんて、これっぽっちも知らなかった。……だからこそ、その言葉はより残酷に僕の胸に突き刺さったのだ。


 あんな痛み、もう二度と味わいたくない。大切な人には自分のことをずっと覚えていてほしい。……だから、『赤糸 不切』。つながった縁は切れないんだって、そんな願いを込めた名前だ。


『それじゃあ、今日はこの辺にしておくね。……小説の感想、ぜひ聞かせてほしいな』


 そんな願いを内に込めて、僕は手紙を折りたたむ。そして封筒の中にしまって、ウキウキしながら封を閉じた。


――その時の僕は、まだ無邪気に信じていた。手紙を通じて繋がるこの縁がずっと続くと、疑いもしなかった。だけど、今の僕はその後の展開を知っている。……その後を知ったから、僕は今こうなっている。


――その手紙を投函してから二年半ほどが経つ今でも、友達からの返事は届いていない。……大切な人から忘れられることの痛みを、僕は中学二年生にして二回も味わうことになった。

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