第八話『僕は誘われる』
――あのファミレスからどうやって家に帰ってきたか、はっきり言うとよく覚えていない。気が付けば僕は自分の部屋にいて、作業用のゲーミングチェアにもたれかかりながらスマホをぼんやりと見つめていた。
新刊を買ってきたことなんてすっかり忘れていて、僕はほとんど開いたことのなかったトークアプリの背景をぼんやりと見つめる。ほとんど氷室さんと両親、それと信二の連絡先しか入っていなかった底に前山さんの名前があることが、僕の中でまだ違和感を残していた。
『それじゃあまた改めて連絡するから!』とか言ってはいたが、前山さんほどの人気者がそんなにも早く予定を開けられるものなのだろうか。常にいろんな人に囲まれているわけだし、遊びの予定だって三か月ぐらい先まで埋まっていても何も不思議じゃない。幸い僕には作家絡みの予定しかほとんど入っていないし、いつの時間を指定されても別に問題はないのだけれど――
『やっほー! そろそろ家についた頃合いかな?』
「おおうっ!?」
そんなことを思っていた矢先にスマホが軽快な音を立てて、僕は思わずスマホを地面に取り落としかける。『また』と言ってはいたが、まさかこんなにも早く来るとは予想だにしていなかった。
『うん、こっちは大丈夫。その感じだと、前山さんも?』
相変わらずなれないフリック操作に四苦八苦しながら、僕は前山さんにたどたどしく返事を贈る。するとすぐに既読のマークがついて、サムズアップしたよく分からないキャラクターのスタンプが送られてきた。
極限までデフォルメされたゴリラ――だろうか。ポップなタッチで描かれているから『可愛い』のカテゴリーに入るとは思うけど、前山さんの趣味がこういうのだというのは少し意外だった。……信二たちに聞いたら、『当たり前だろ?』とかいうんだろうけどね……。
『いい感じのところでバスが来てくれたからね、最速で帰ってこられたんだ。普段はもうちょっとかかるんだよ?』
スタンプから少しの間をおいて、前山さんはそんな風に解説を付け加えてくる。バス通学とは意外だったが、確かにそれなら帰り道が合わなかったのも納得だ。ここら辺は交通網がいろいろとあるから、自転車で通学してる人の方が稀なぐらいだし。
こうやってやり取りをしていても思う事だが、前山さんは俺が思っていたよりもよっぽど親しみやすい人だ。噂話とか自己紹介の盛り上がりっぷりで人望がとてつもなく厚いのは分かっていたけど、今こうしてその一端に触れるとそんな評価になるのも納得ができてしまうし。
ま、それでも信二はじめクラスの面々の熱狂っぷりは半端じゃないけどね……今のところは遠くから見ているだけで満足みたいな側面があるみたいだけど、いつかそれでは済まなくなるんじゃないだろうか。
そうならないことを祈るしか僕にはできないが、せっかく前山さんの方からこっちに連絡してきてくれているのだ。あるかどうかも分からない可能性を心配するより、ちゃんと聞くべきことを聞かないとな。
『お互い落ち着いたところで改めて聞きたいんだけどさ、前山さんの力になるってどうすればいいの? 僕の書いた小説だったら読める――なんて都合のいい展開は、たぶんないよね』
少し言葉を選びつつ、僕はファミレスで聞きそびれた質問を投げかける。あの時はなんか温かい雰囲気ができていたから、逆にこういう現実的なことは聞きづらかったんだよね。……その空気に背中を押されたから、僕は前山さんの手を取ることができたんだろうけど。
それでも全力で手伝うって約束した以上、闇雲に突き進んでいくだけじゃその役目はきっと果たせない。だからこそ、その症状と長く付き合っている前山さんの方針に従っていきたいんだけど――
『うーん、これと言った改善への近道ってたぶんないと思うんだよね……。たくさん数を読むとか読める作家さんがいないかを探すとかはお医者さんとかともうやったから、今更効果が出るとも考えにくいし……』
「……いや、それはいきなり手詰まりじゃないか……?」
『ごめんね』とさっきのゴリラのようなキャラクターが手を合わせているスタンプを見つめて、僕は少し呆然としながら呟く。医者がすでに前山さんの症状を改善しようと動いていたという事は、僕の頭で考えつくようなやり方は既に全部試されているってことだ。……そうなると、僕から提案できるやり方というのはもう一個もなくなってしまう。
一歩目にして路頭に迷いかけていることに僕が内心打ちひしがれていると、手の中で携帯がまたしても振動する。そこには『だからね』という四文字だけが送られており、僕はかすかに目を見開いた。
……この感じ、前山さんには何かしらの手があるという事なのだろう。僕としてはもうそれに頼るしかないから、姿勢を正して前山さんの提案を待つしかない。
そう決意してから一分半ほど、僕のスマホは震えることなく沈黙し続ける。他の誰かからの連絡を返しているのか、それとも今まだ考えて居るのか。……前山さんの事情は分からないけれど、待つ側の緊張感というのは尋常ではなかった。
たくさんの人と連絡先を好感している人は、こういう緊張感を一日に何回も経験するのだろうか。考えるだけで胃がキリキリしてくるし、たとえ何年このアプリを使ってもこの待ち時間に慣れることはないだろうなと、現時点ではそう思わざるを得ないのだが――
「……え?」
ついに待ち望んだ感覚が手の中に伝わって、僕はとっさに携帯の画面に視線を戻す。そこに書いてあった文面を読んで、僕は思わず間の抜けた声を上げた。
『だからね、あたしは君のキラキラしてるところをできる限りたくさん見たいなって思ってるの。そのキラキラに触れられれば、あたしの中で何かが分かるかもしれないから。……それでなんだけど、今週の土曜日って時間空いてるかな?』
――僕のスケジュールを問いかける、前山さんの文面。……僕の認識が間違っていないんだとすれば、それは今まで信二からしか届いたことのなかった『遊びの誘い』というやつだったんだから。
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