第七話『僕たちは名乗りあう』

「うん、実はそうなの。家族とお医者さん以外の誰も知らない、あたしのトップシークレットなんだよ」


 半ば呆然としながらオウム返しした僕に頷いて、前山さんはさらに付け足してくる。家族と医者というラインナップの次に僕の名前が並ぶことは、いかにも場違いにしか思えなかった。


「……というか、お医者さん?」


「うん、そうなの。意味が分かるとか分からないとかそういう次元じゃなくて、そもそも小説を小説として読めないのがあたしなんだ」


 文字がばらけて宙を舞って、全然文章として入ってきてくれないんだよね。


 あっけらかんとした調子で、頭を掻きながら前山さんは僕に秘密を開示し続ける。それをなぜ僕に聞かせてくれるのか、その理由はまだちっともつかめないままで。


「……というか、よくそれで文系に来たね。国語の成績悪かったら先生に留められたりするんじゃないの?」


 どうにか話を身近なところに戻そうと、僕の方から前山さんにさらに質問を投げかける。僕と前山さんがいるのはバリバリの文系クラス、小説が読めないだなんて致命傷というレベルの話ではなかった。


 だが、それに対して前山さんは誇らしげに首を横に振る。そしておもむろに僕の手を離すと、鞄の中から一枚のプリントを取り出してきた。


 右下に『52』と赤いペンで書かれたそれは、どうやら答案用紙のようだ。左右の基本問題のような場所には景気よく丸が並んでいたが、それとは打って変わって真ん中の大問部分はバツ印が九割を占めていた。……なんというか、あまりにも極端すぎじゃないか?


 真ん中で数少ない丸が付いてる問題も全部記号問題だし、あてずっぽうで正解したんだろうなという事をひしひしと感じさせる答案だ。何も知らずに見ればそれは違和感だらけだが、さっき言われたことを思えばその理由はすんなりと腑に落ちて。


「……国語のテスト、基礎問題とあてずっぽうだけで乗り切ってるの?」


「うん、大正解。たとえ小説が読めなくても記号問題は四分の一で当たるし、漢字と文法は覚えれば覚えるだけ点数が上がるからね。ここだけ押さえておけば赤点は取らずに済むって寸法だよ」


 誇らしげに答案用紙をバンバンと叩きつつ、前山さんはつらつらと語る。それを聞いている限り小説を読めないことを気にしている様子もないし、それへの対策もしっかりと打っているらしい。……この感じを見る限り、結構長くこの問題と付き合ってきたんだろうな。


 どうしたって向き合わなければいけない考え方とか問題と長く付き合っていると、自然にそれを回避したり緩和したりする方法は身について行くものだ。僕も身をもってそれを知っているから、これ以上前山さんの言葉を疑う気にはなれなかった。


「……うん、とりあえず前山さんが小説を読めない体質だってのは理解した。それを前山さんが秘密にしてて、なぜだか僕もそれを知る一人になったってことも」


 だんだん混乱が収まってきたのを感じて、僕は改めて現状を整理する……したのだが、なぜだか前山さんは首をすごい勢いで横に振っていた。


「『なぜだか』じゃないよ、これは必然。あたしはこれからもこのことを人に伝えるつもりはないし、照屋君以外に話すつもりもありません。……簡単に言えば、照屋君が特別なんだよ」


「……特別、かあ」


 少し顔を赤らめながらそう表現した前山さんの言葉を、僕はまた噛み締める。あの六月の日のことがきっかけになって、僕は前山さんの特別になっていたようだ。……その日から十か月僕は中々前に進めずにいるのだけれど、その間も前山さんは僕を探し続けていたわけで。


「……じゃあ、秘密ついでにもう一つ確認させて。僕に今そのことを話したってことは、その体質のことを改善したいってことでいいんだよね?」


 聞かなければならないと、そう思った。前山さんが僕を必要とする理由がはっきり分からなければ、最適な形で力を貸すこともできない。……面倒な奴だとは自分でも思うけれど、それでもそこは譲れなかった。


 理由が分かれば、僕も少し安心できるから。……仮に結ばれた関係が唐突に終わることはないのだと、そう覚悟を決めることができるから――


「……うん、そういう事。あたしは、どうにかして小説を読めるようになりたいの。……去年あの場所で照屋君を見かけて、その思いはさらに強くなった」


 意気地のない理由から放たれた僕の質問に、前山さんは強く首を縦に振る。……そして、一度は話した手を僕の方にまっすぐ伸ばしてくる。その手は間違いなく、僕に取られるのを待っていた。


「……お願い。キラキラしてる君と一緒に居られれば、あたしは小説ってものを受け居られる気がするんだ」


 懸命に頭を下げて、前山さんは僕に頼み込む。どうして小説が読めるようになりたいのか、それはまだ分からない。なんでそれで小説家でしかない僕に助けを求めるのかも、正直まだよく分かりきってない。キラキラしてるって何なのか、それも分からない。


 だけど、それでも、どれだけ薄っぺらい高校生活を送ってきた僕でも分かる。……僕を見つめてまっすぐ伸ばされた手に対する答え方なんて、一つしか残っていないんだから。


「……僕がどれだけ力になれるか、全然分からないけど。もしかしたら、前山さんのことを失望させてしまうかもしれないけど。それでも僕の力を借りたいって、前山さんが言ってくれるなら」


 そう分かりきっているのに、言葉はみっともなく予防線を引き続ける。こんな時にすら強気になれない僕にほとほと呆れるしかないけれど、だけどそれでも決めたことだ。言葉は、最後まで言い切るからこそ意味がある。


「……僕は全力を尽くすよ。前山さんが必要としてくれる限り、僕は君の悩みの力になる」


 思い切って手を握って、僕は最後の一語までしっかりと伝えきる。我ながら柄じゃないけれど、だけどやらなくちゃいけないと思ったことだ。……あとは、前山さんに引かれていないことを祈るだけだが――


「……よかった。ありがとね、こんな突飛なあたしの話を信じてくれて」


 唐突にその手が強く握り返されて、僕は思わず目を見開く。……その正面には、瞳を潤ませた前山さんの姿があって。


「……改めて、あたしは前山千尋。色々困らせるかもしれないけど、これからよろしくね?」


「……照屋紡、です。うん、僕の方こそよろしく」


 少しぎこちなく自己紹介を繰り返して、僕と前山さんははにかむような笑みを交換する。……友達とも先生ともまた少し違うような僕たちの関係が、正式に結ばれた瞬間だった。

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