第六話『僕は頼まれる』

 あの日は本当に強い雨が降っていて、傘をさしていても本が濡れてしまわないか心配になるような日だった。だからあまりお客さんがいたわけでもないが、それでもその日店頭に並んでいた『イデアレス・バレット』は数冊か減っている形跡があって。……誰かの手に渡ったんだと思ったその時、急速に『完結したんだ』という実感がこみあげてきたのは今でも忘れられない。きっとこれからも思い出すし、何なら夢にも見たりするんだろうな。


 それぐらい僕にとっては大事な区切りの日で、小説家として前に進みたいと今も思える原動力になっている日だ。……まさかそれを前山さんが目撃しているだなんて、夢にも思わなかったけれど。


「あの時の照屋君、誰かに電話してたように見えてさ。店の中に入るときに少しだけ、その内容が聞こえちゃったの。……ああ、もちろん盗み聞きしようだとかは思ってないからね?」


「大丈夫だよ、そこを責めるつもりはないから。……というか、店の前で話し込んだら嫌でも聞こえちゃうものだろうしね」


 自分で言っておきながらわたわたと弁明する前山さんに対して、僕も手を横に振り返す。あの時の僕は感動で回りが見えなくなっていたから、周囲の眼に対する意識が薄かったのは言い逃れできない事実なんだ。……氷室さんと会話してたこともあって、がっつり作家モードだったし。


「『次回作もきっといいものに』とか『すぐに次のプロットを――』とか、泣きながらなのにすっごいうきうきした声で言っててさ。それを聞いた時、『ああ、この人は作家なんだ』って思ったの。作家として何かいいことがあったから、この人はこんなにキラキラしてるんだろうなあ……ってさ」


「キラキラしてるって言われるのは少し恥ずかしいけど、作家だから味わえた喜びだってのは間違いないね。……書くことに出会わなかったら、僕は今よりもっと人と関わることをしてこなかったと思うし」


 心底羨ましそうにあの日のことを思い返す前山さんに、僕もうなずきながら返す。……自然に頬が緩んでいることに気づいたのは、その時の事だった。


 ファミレスの席で対面した時も、作家だってことを言い当てられたときも騒がしかった頭の中が、だんだんとすっきりしていくような。自然体で話してもいいのかもしれないと、そう思えてしまうような、そんな不思議な感覚が僕を包んでいる。……もしかすると、これが前山さんが人を惹きつける理由なのかもしれないな。


「……その時の僕、確か制服着てたもんね。だから同じ学校だってことに気づいて、クラス替えの時に自己紹介を聞いて確信したってわけか」


「うん、大体そんな感じ! いろんな人に聞いて回ったのに中々『これだ!』ってなる人が居なかったから、あの日を境に天候でもしちゃったんじゃないかって心配になったんだよ?」


 微かに頬を膨らませる前山さんに、僕は頭を掻きながら曖昧な笑みを返す。前山さんの人脈があるとはいえ、僕たちが通う高校は一学年四百五十人近くが在籍する結構大きめな私立学園だ。その中でも僕と親しいのは信二だけなわけだし、僕に中々行き当れないのも気の毒だが納得ってところだった。


「だけどやーっと見つけられて、今日こうやって話しかける機会もできた。前から話したいなーってずっと思ってたのに、照屋君ってばまるで気づいてないみたいな感じですぐにどこか行っちゃうんだもん」


 今日のことがなかったらあとどれだけかかってたことか、と前山さんは額に手を当てながら大げさに嘆いてみせる。申し訳ない話ではあるが、今日のこれがなかったらあと三か月は最低でもかかっていただろう。話が広がる機会自体がそもそも生まれないぐらい、僕は信二以外の誰かと行動するってことを中々しないからね。


「……でもさ、どうしてそこまでして僕のことを探そうって思ったの? 言葉を交わしたわけでもなければ、僕のその様子が前山さんを助けたってことでもないだろうし」


 手間取らせてしまったことを内心で謝りつつ、僕は少し踏み込んだ質問を投げかける。確かにあの日の僕は感情を爆発させていたが、それはあくまで個人的なものだ。それがどうして僕を探す理由になるのか、そこが何も解決されていなかった。


「……うーん、とね……。それを話そうって思うと、先にあたしの頼みごとを話した方が分かりやすいんだよなあ……」


「ああ、そういえば頼みたいことがあるって話だったっけ。作家だってことがバレてた衝撃で忘れてた」


 むしろ僕にとっては言い当てられたところがメインで、そこからどんな話に繋がろうがそれ以上の衝撃なんてありえないと思っているほどだ。誰にもバレていないと思っていた秘密を知る者が突如現れることなんて、一生に一回経験するかしないかレベルの話だろう。


 だからこそ、僕は気楽な様子で前山さんのその言葉を聞いていた。……それが、後々僕に与える衝撃を増加させる態度であることも知らずに。


「うん、あたしにとってはその頼み事が大事なの! 作家な照屋君じゃないと解決できないような、本当に大切で重大な、あたしの秘密の話!」


「……秘密の、話」


『秘密』という言葉が出てきたことによって、まずその気楽さは少しだけ崩される。前山さんにとっての『秘密』がどれだけ重いものなのか、僕はいまいち見極めきれずにいた。


 言葉を噛み締めるようにゆっくりとオウム返しをする僕の姿を、前山さんはまっすぐに見つめている。少し緊張が和らいだ僕の姿が、夜空を映した池のように黒い瞳の中に映りこんでいた。


 もし重大な秘密に振れてしまえば、もう前山さんと無関係ではいられない。僕と前山さんは互いの秘密を共有する存在になって、簡単には切り離せない繋がりがそこには生まれる。……仮に引き返すんだとしたら、ここが最後のチャンスだ。


(……だけど、引き返す理由がどこにあるの?)


 そう思うと同時、僕の脳裏をそんな思考がふとよぎる。前山さんは僕の秘密を知って、その上で僕に話したいことを持ってここに来ているというのに、それを僕が身勝手に拒絶できる理由がどこにあるのか。――ないというのが、僕の結論だった。


「……教えて、前山さん。僕にできることなら力になるって、先に約束しとく」


 どうにでもなれと腹を括り、僕は前山さんにその結論を伝える。すると前山さんの表情がぱっと明るくなって、瞬きの後にはテーブルの上に置いていたはずの僕の手がぐっと握られていた。


「あ、え⁉」


「ありがとう照屋君! もしここまで来て断られたらどうしようって、あたし内心実は心配だったんだよ……!」


 そのままぶんぶんと手を上下に振って、前山さんは感謝の念を力いっぱいこっちに伝えてくる。隅に置かれたコップの中のぶどうジュースが、その勢いを示すかのようにちゃぷちゃぷと揺れていた。


「……うん、それじゃああたしの頼みを伝えるね。できればでいいんだけど、驚かないでくれると嬉しいな」


 一通り感謝の気持ちを伝え終えた後、落ち着いた様子の前山さんは咳ばらいを一つ。どういうわけか僕の手は握られたままだったけど、到底それを指摘できるような雰囲気ではなさそうだ。


 僕の方を見つめたままで、前山さんは大きく深呼吸をする。……そして、座った姿勢のままできるだけ頭を下げると――


「……お願い。『小説が読めない』あたしに、君の物語をたくさん聞かせてくれないかな?」


「……小説が、読めない?」


――この先の僕たちの関係を決定づける頼み事を、目の前に座る僕へと投げかけてきた。

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