第九話『千尋さんのミステリーツアー』
「お待たせー! ごめんね、待たせちゃった?」
「……ううん、大丈夫だよ。早めに動くのが癖になっちゃってるだけだからさ」
手を振りながらこっちに駆け寄ってきた前山さんに、僕は少し緊張しながら返す。こういう時にとっさに気の利いた答えは出てこないんだという事を、僕は身をもって実感していた。
前山さんは春らしい桃色のワンピースに身を包み、いつもはしていない眼鏡をかけている。クラスの面々が見れば卒倒しかねないだろうななんてことをふと考えたが、気の利いた挨拶が出ない僕に誰かを褒めるなんて言うのはあまりにもハードルが高すぎた。
一方の僕はと言えば、黒の半そでシャツにジーパンといういかにも無難な服装だ。別に褒められも貶されもしないだろうが、前山さんの隣に立つと浮くことこの上ない。前山さんは気にしてないみたいだし、今更気にしすぎる方がよくないんだろうけどさ。
「うんうん、それはいい習慣だね! もしかして、それも作家さんとして生活してきたから身についたのかな?」
「……まあ、多分そうなのかも。締め切りを落としたら本が出せるかも怪しくなるし、そうなったら物語を書ききれるか分からなくなるからさ」
作家として駆け出しの僕にまず氷室さんが教えてくれたのは、『とにもかくにも締め切りは守る』という事だった。その時以上に真剣な表情の氷室さんはなかなか見られなかったし、余裕をもって原稿を提出するとそのたびに褒められたものだ。……どんな経験に裏打ちされて氷室さんがそうなったのかは、知り合ってそろそろ三年目になる今でも聞けていないけれど。
「うんうん、それは確かに大事なことだ。移動教室の時にも照屋君はすぐに動いてるし、本当に癖として沁みついてるんだろうね」
「……ああ、それはどうだろう……?」
感心してくれているのは嬉しいのだが、生憎それとこれとはまた別の事情だ。……誰とも話さないと足並みをそろえる必要がないから、さっさと移動して準備するしかやることがないだけなんだよね……。
なんてことを正直に言うわけにもいかず、僕は微妙な笑みを前山さんに返す。前山さんの中の僕のイメージを崩さないことが、今の僕にできる精一杯のことだった。
「さて、それじゃあ行こっか。……と言っても、そんなに豪華なところじゃないんだけどね?」
「前山さん、結局どこに行くか教えてくれてないもんね。前山さんのが知識も豊富だろうし、選んでくれたのはありがたいからいいんだけど」
誘われた後に続いたやり取りのことを思い出しながら、僕は前山さんにそう返す。前山さんとの休日は、自然とミステリーツアーのような雰囲気を醸し出していた。
というのも、今回の予定は全部前山さんが立ててくれたものなのだ。僕のしたことと言ったら苦手な場所とか食べ物とかをさらさらと答えただけで、それ以外は一切何もしなかった――というか、できなかった。
おまけに『あたしのお願いだからお金のことは心配しないでいいよー!』とまで言われ、ほとんどおごられることも確定しているような状況だ。もちろんそれが前山さんの善意であることは間違いないんだろうけど、それに申し訳なさを感じてしまう自分がいるのもまた事実なわけで。
だから当日ぐらいは迷惑をかけまいと集合時間の三十分前には到着していたのだが、前山さんも二十分前にはここに来ているのだからほとんど変わらない。いかにも遅刻したみたいな感じだったけど、実は全くそんなことはなかった。
集合場所もこのあたりで一番大きな駅だという事もあって、どこを目的地としているかは全く見当もつかない。前山さんのことだから変な場所に連れていかれることはないだろうと思いつつも、何が起こるか分からないという不安感は間違いなく僕の中にあった。
「さささ、こっちについてきて。ここから歩いて五分もかからないと思うから」
そんな僕の内心を知ってか知らずか、前山さんは軽やかな足取りで僕の前を歩いていく。土曜日の昼間という事もあって人の流れもそこそこ多かったが、背筋をピンと伸ばして歩く前山さんの姿は見失う方が難しそうだ。
前山さんの一歩後ろを確保して、僕たちは駅前を統べるように抜けることに成功する。その間にも何人かの視線が前山さんの方に向けられていたが、それを気にする様子は一切なさそうだった。
「……前山さん、こういう所にはよく来るの?」
「うん、お休みの日はお出かけすることが結構多いかな。部活とかに入ってるわけでもないしね」
ふと気になって投げかけた質問に、振り向いた前山さんは明るい声で返す。いかにも青春を満喫していると言った印象があったから、『部活動に入ってない』というのは少し意外だった。
「……入りたいとか、そう思ったことは?」
「それもないかなあ、特にやりたいことがぱっと思いつくわけでもないし。それに、部活動をすることだけが高校生活を満喫するってことじゃないからね。そういう照屋君だって、部活に入ったりとかはしてないんでしょ?」
「うん、入ってない。……というか、入れないが正解かな」
今の僕の生活は作家活動を中心に回ってるし、それ以外にリソースを割けるほど僕は器用な人間じゃないからね。入れるんだとして文芸部とかになるんだろうけど、それだってひょんなことからバレたら大惨事だ。『赤糸不切』としての癖を脱色しようとしても、自分でも意識できてない物ってのは絶対にあるだろうし。
「うん、そういう事だよ。……ということはつまり、また次のお休みとかも誘っていいってことだもんね?」
「氷室さん――編集の人に呼び出されない以上は、まあそうだね。来週はいろいろと用事があるから、ちょっと間をおかないといけなくなるかもしれないけど」
少し得意げな前山さんに、僕は少し小さくなる。というか、もう来週も誘う気満々だったんだな……本当に距離感が近いというか、人懐っこい人だ。
そんなことを思いつつもあれやこれや話していると、五分というのは想像よりも早く過ぎていく。……前山さんが唐突に足を止めたのは、お互いの自己紹介を振り返っているときのことだった。
「……おっと、到着だね。ここが今日の目的地だよ」
くるりと体を九十度回転させて、前山さんは一軒の建物を手で指し示す。……中々に珍しい木の看板が掛けられたそれは、外から見る限りどうも喫茶店の様で――
「あたしね、ここのコーヒーが大好きなの。一緒に飲みながら、ゆっくりお話でもしない?」
お互い積もる話もあるだろうからさ――と。
にこにこと笑いながら、前山さんは今日のプランを発表する。昨日送られてきた『できればお腹を空かせておいてね!』というメッセージの真意を、僕はたった今理解した。
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