浮かんで沈んで
子供の頃に溺れたときの事を思い出している。
父親と一緒に買った黒色のサンダルを追いかけて、私は川の対岸へ向かい、そして溺れた。止めどなく流れ込んでくる水に口と鼻を塞がれ、息が出来なくなるあの感覚は、今でも鮮明に想起できた。
そして、今。
再び私を侵す多量の水に苦しめられている。昔の事を考えてしまうのは、それだけ当時の事が、己の生を侵害した紛れもない事実だからだろう。
それでも、もう引くことは叶わない。
鼻と口との境目を水が伝う感覚が、もう後戻り出来ないことを教えてくれた。
私は浅く呼吸を繰り返し、なんとか生命の維持に努める。そうすると、鼻から侵入する生暖かい水分が喉へ絡まり、粘っこい水気の含んだ咳を繰り返し誘発させてきた。
鼻から入った水は、引っ掛かりがなくなったかのように、突如として口から纏めて吐き出された。
「がぼあ! かっ! がっ!」
一通り水分を吐き出すと、すぐに息が苦しくなる。耳の奥が締め付けられた様に、ぼやぼやとした違和感を強く感じた。
手を付き、背中を丸める。鼻呼吸をしようとすると、残った水分が奥へと進むのを感じ、慌てて口呼吸へと切り替える。
咳を繰り返し、ゆっくりした呼吸を連続させることで、なんとか落ち着いてきた。
しかし、まだ終わりではない。まだ、半分を対処しただけなのだ。
早くこの苦難から逃げ出さなくては、俺に安寧は訪れない。
意を決し、構える。少し先の空間を燦然と見つめた。
そうしていると、扉が開く音がした。音の方へ、口を半開きにしたまま振り向く。扉の前には、髪を手櫛している妻がいた。
彼女は私の手元と顔を見て、呆れた様に言った。
「そんな死にそうになりながら、鼻うがいなんてしなくても…」
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