あなたがいったから
書くことがない。
「いやーほんと、全然いいんですけどね? ほんと、全然いいんですけどね? もうちょっと、もうちょっとだけ濡れ場の前にワンクッションあると嬉しいなあって」
オールバックの髪を左手で撫でつける、編集さんの顔を思い浮かべる。自分の意思を開示して見ても、彼は片目を瞑ってにやけるだけだった。
「上手いこと修正して」と、いっそはっきり言ってくれた方がいいのに。そう感じながらも、今着手しているこの仕事が彼の回してくれたものである以上、強く出ることは出来なかった。
とはいえ、書くことがない。
目の前のモニターに映る原稿に、これ以上書き込むべき文章は何も思い浮かばなかった。
官能小説家の端くれとして、提示されたコンセプトに沿う、最良の物を提出したつもりだった。無論、長いからここを削ってほしいと指摘されることも、構成の変更を求められることも、もちろん想定していた。
でも、まさか作品のトロもトロな部分に、もうひとセンテンス書き加えて欲しいと言われるとは、思ってもみなかった。
お前の想像力不足だと言われるかもしれない。でも、それだけ予想外だったのだ。
そもそも、雑誌に掲載する短編である。決してメインの掲載ではないし、文字数にも余裕がない。そんななかで、自然に新しくセクションを組み込むのは簡単な事じゃない。文字数制限の中で他の部分を削り、新しくスペースを確保しなければならないのだ。
編集者なら、当然それは分かっているはずだ。分かったうえで、言っているのだ。
言われた以上、やらなければならないのが作家だ。辞書を引き、メモをあさり、頭を捻って、何とか文字数を捻出する。
そうして生まれた枠の中で書くのが、自分の納得のいかないセクションというのだから報われない。
これで書くのが、自分の意思によってもたらされたものだったら、どれほど素晴らしいことだっただろう。悲しいかな、編集さんのいうワンクッションは、私には冗長としか思えなかった。
主人公がヒロインの未亡人と出会い、いじらしく恋心を刺激し合った末、結ばれる。恋人となった二人が唇を交わし、熱い夜へと溶けていく。
ここにこれ以上何を差し込むというのだ。互いに高ぶった二人を止めるものなど何もないではないか。とりあえず、とキーボードを叩いてみても、何もしっくりこない。強引に入れ込んでしまえば、それまでの文章に齟齬が出てしまう。
いや、むしろ、そういうことだろうか
頭から書き直せ。そういっているのか。
「うそだろ」
頭が真っ白になり、思わず呆ける。そのまま椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げた。
今まで様々な仕事を受けてきた。こなしてきた仕事の数だけ、編集さんとのやり取りがあった。小言を言われたのは一度や二度ではない。ふいにされたことも、何度もあった。
それでも。それを。
そこまで考えて、コースターの上のレモンティーを引っ掴み、口の中に流し込む。
冷たさが喉を通り、熱を持った体に冷静さが戻る。
もう一度、背もたれに沈み込み、天井を見る。部屋の置き時計の音が、大きく耳に響いた。
ちょっと落ち着こう。憶測であらぬ方向へ思考を飛ばすのは、自分の悪い癖だった。
別に、編集さんはワンクッション入れてほしいと言っただけで、全体の大規模な修正をしろとは指示していない。先ほどの自分の考えは、ただの早とちりでしかないのだ。
そうなると、また「書くことがない」という問題にぶつかってしまう。結局、思考が一周して戻ってきてしまった。
いや、でもただ一周してきただけではないかもしれない。
私は机の隅のノートを手に取り、キーボードの前に広げた。そして、現状の作品の構成を改めて書き連ねてみた。
我ながら、整った構成に見える。しかし。
「ここにねえ・・・・・・」
区切りの線をなぞりながら思案する。編集さんはこの濡れ場の前に一つセクションを挟むように提案している。ここにセクションを設けることは、どのような効果があるか。
安易に想像できるのは、勢いの失速である。キャラクターたちがこれから、というタイミングで一息入れるのは、徒競走で加速が高まってきた瞬間に一度立ち止まってしまうようなものだ。
・・・ん?
「一回止まれ、ってことか・・・?」
立ち会いの形に入る寸前に、あえて一度勢いを止めることで、より互いの欲求に焦燥感を持たせられる。そう言いたいのか?
再び、現状の構成を確認する。
確かに整い、きれいにまとまっているという自負は揺るがない。しかし、それ故に、単調になってはいないだろうか。
走り始めたレースをあえて一度下りることで、キャラクターを、ひいては読者もじらすことが出来るのではないだろうか。
脳内で出来上がった仮説は、瞬く間に熱を帯びる。
編集さんは、このことを狙っていたのか。
私は三度目になる背もたれへの体重移動をしたが、今度は天井ではなく天を仰いだ。
そもそも、彼もこの業界で私よりも長い年月を生き抜いてきた、いわばこの界隈の担い手たる一人なのだ。私程度が思いつく構成の妙など、ハナから気づいていたのだろう。
あえてはっきり言わなかったのは、私自身に気づかせて成長を促すためか、はたまた彼の茶目っ気か。真相こそわからないが、私の現状を顧みることが出来たのは事実だった。
私は愚かだ。自分の作品を驕り、より良く昇華するチャンスを危うく見過ごしてしまうところだった。
そうと決まれば、話は速い。
私は急いでノートへ構想をまとめ始める。そして数時間の内に、キーボードを叩く音が部屋に響き始めた。
自分への新たな発見を称えるように、そして、自身を駆り立ててくれた編集さんへの感謝を伝えるように、その音は軽快に鳴り響いた。
****
「なんかちょっと間延びしてテンポ良くないですね。前のやつでいきましょうか」
「・・・はい?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます