機神創生(二)

 大野東人おおののあずまひとは、引き連れていた私有の部民二〇〇に骸を掘り起こさせると、石巻いしのまきのみなとに運ばせた。そこから船に載せ、和泉いずみ大津おおつへと送り出すためである。持節大将軍・藤原ふじわらの宇合うまかいとも相談し、多賀城たがのきの地下で財宝を発見したとの偽の情報を流して、人目を逸らすことにした。用意した財物を携えて陸路を行けば、海路を行く骸は目立たなくなるだろう。


 大岩にそうした骸は双胴の船で運ぶこととなり、和泉大津からの陸路が問題であったが、佐伯児真伊奴さえきのこまいぬの提案で、大和川を遡上させることした。より人目につかぬために、夜にだけ川舟を馬でかせて運ぶという案もあったが、返って目立つであろうという意見をれて昼夜を問わず運ぶことになっている。


 神亀元年西暦724年十一月廿三日12月13日東人あずまひとは、宇合うまかいとともに帰京した。児真伊奴こまいぬは骸に付き添い、船に同乗したため、同道していない。和泉大津から寧楽京ならのみやこまでの道中を含め三日ほど早く着いていおり、大野邸に大岩を運び入れ、閑かに待っていた。本来であれば、七日は早く着くはずが、伊豆沖で時化に阻まれたのである。大岩は蝦夷征討の記念として石碑を作るため現地の巨石を運んできたと喧伝したため、然程人目を引かなかったが、人々は大野按察使おおののあぜちも物好きなことよと嘲笑わらった。


 神亀元年西暦724年十二月十五日翌1月3日、歳暮の慌ただしさが寧楽京を包むころ、秘密裏に運ばれた骸が内裏に持ち込まれた。運び込まれたところで何処の管轄になるのかと、紛糾するも、佐伯児真伊奴さえきのこまいぬの進言をまとめた大野東人の書簡に「五行にまつわる秘術が用いられている」というくだりがあり、陰陽寮おんみょうのつかさ図書寮ずしょのつかさが共同で担うこととなった。


 陰陽寮とは占いを司る朝廷の部局である。この当時の占いには数種あり、最も神聖なものが亀卜きぼく――亀の甲羅に熱を加えてヒビを入れその具合で行う占いであり、これは神祇官かみづかさが行った。これに対し、占筮せんぜい式占しきせん相地そうちという占いを担うのが陰陽師であり、陰陽寮は主に陰陽師を育てる教育機関である。占筮はめどきと呼ばれる五十本のひごを用いた易占いで、式占は式盤と呼ばれる円形の天盤と方形の地盤を組み合わせたものを用いる方位占い、相地は風水術を用いた土地の鑑相占いのことだ。その他に暦や天文、漏刻――水時計をつかさどる。いうなれば五行の専門家であった。


 図書寮は四書五経や儒教や仏教の経典など国の蔵書を管理したり、紙の製造や表具の装丁、仏像の管理を行う部署で、本来は撰史も職掌なのであるが、天皇の公文書や記録を扱う内記うちのしるすのつかさや太政官の公文書や記録を扱う外記とのおおいしるすのつかさが撰史の中心となり、図書寮は事務的な補助とされたため、閑職扱いである。重要なのは紙の製造で、これは別所である紙屋院かみやのいんで行われており、朝廷で使用される紙は図書寮が一手に管理していた。このため、図書には絡繰機械に詳しい者が多く、内蔵寮の織部司おりべのつかさとも通じており、本の虫と呼ばれる博士たちははくらんきょうの者たちである。


 責任者は陰陽頭おんみょうのかみ志我閉阿弥陀しがべのあみだという渡来の帰化人であったが、絡繰機械からくりは専門外で、魯班鎖ろはんさや墨子に詳しい図書助ずしょのすけ阿倍粳蟲あべのぬかむしが補佐に選ばれた。そのため、図書寮と陰陽寮から博士らがほぼ総出で骸をあらめた。


 阿倍粳蟲あべのぬかむし阿倍広庭あべのひろにわの弟、阿倍御主人あべのみうしの三子で、阿倍御主人といえば、竹取物語にも登場する右大臣みぎのおとどで、臣籍降下をした元皇族である。


 あらためるのに二月ふたつきほども掛かりながら、動かないことと、とりあえず危険がないこと以外は何も分からないままである。骸を動かすことも、どうやって動かしていたのかも分からぬままであった。外装の鎧は外すことが出来たが、全身が木のようであり、中心の容れ物のような球体から生えているように見えるが、まるでひとりでに人の形を成したようで、不可思議であった。


 粳蟲ぬかむしは現状報告とともに引き続き図書寮と陰陽寮で調べることを奏上したところ、外殿建設の勅許ちょっきょを以て、図書寮と陰陽寮の書に埋もれる日々を送ることになる。


「これが東人あずまひとの申していた巨人おに――久那吐クナトであるか」


 骸を貴人が見上げていた。この貴人は大和王朝で最も尊き人――聖武帝しょうむのみかどである。その目には恐れと期待の入り混じった色が浮かんでいた。


「はい。選ばれた蝦夷えみし勇者ピリカと呼ばれる者が神の力を得るための道具であるそうにございます」


 かたわらはべ舎人皇子とねりのみこが答える。舎人皇子とねりのみこ大野東人おおののあずまひとの書簡に目を通し、この骸の重要性を感じていた。長屋王ながやのおおきみの反対を押し切る形での阿倍粳蟲あべのぬかむしの抜擢は舎人皇子とねりのみこの意向である。この頃、聖武帝しょうむのみかどの信任は長屋王ながやのおおきみから舎人皇子とねりのみこに移りつつあった。


「これが動くのか?」

佐伯大掾さえきのだいじょうが下人によれば、『そは不朽くちず不錆さびず不腐くさらず不死しなず不眠ねむらず唯休也ただやすむのみなり』とのこと」


 聖武帝しょうむのみかど舎人皇子とねりのみこの言葉を口の中で鸚鵡返おうむがえしのように幾度もつぶやいた。考え込むようにじっと骸の顔をる。


舎人とねり。朕はこれの動く姿が見たい。これを蘇らせるよう粳蟲ぬかむしに伝えよ」

「仰せのままに」


 舎人皇子とねりのみこ聖武帝しょうむのみかどに頭を下げた。近頃、蝦夷えみしの反乱の頻度は高くなっている。長屋王ながやのおおきみの政治手腕もあって迅速な対応が取れてはいるが、長屋王ながやのおおきみの制度改革はいささか強引であった。組織とは合理的であるに越したことはないが、正常に機能していたものを改めるには時間を掛けた方が良いことが多いと、舎人皇子とねりのみこは考えている。長屋王ながやのおおきみは理想主義的なきらいがあった。


「これが我が国の守護神まもりがみとなるやも知れぬ」


 聖武帝しょうむのみかどはそう口にした。


 翌神亀二年西暦725年閏正月廿二日3月11日。年賀の行事も落ち着き、日常が戻った頃、藤原宇合ふじわらのうまかい大野東人おおののあずまひとは帝の御前おんまえに参じていた。


正四位上しょうしいのじょう式部卿しきぶきょうならびに持節大将軍・藤原朝臣ふじわらのあそみ宇合うまかいは神亀元年四月の蝦夷征討において軍功著しく、また速やかなる征討によって、天下の安寧に寄与したこと、誠に大儀である。拠って、此処に其を賞し、従三位じゅさんみを授け、勲二等をじょす」

「有り難き幸せにございまする」


 長屋王ながやのおおきみが、宣旨を読み上げ、藤原宇合ふじわらのうまかいが御前に平伏し、宣旨を授かる。三歩にじり下がり、御前から退出すると、立ち上がり長屋王の並び――南面した左側に並んだ。


「陸奥守按察使あぜち・征夷将軍・大野朝臣東人は持節大将軍・藤原朝臣宇合をよく補佐し、また陸奥の平穏を担いてこれをよく果たした。特に加賀城を疾く築きたること、加えて財物の献上したること、軍功著しきこと明らかである。拠って此処に其を賞し、従四位下を授け、勲四等を叙す」

「過分なる聖恩に感謝いたします」


 軍功により叙勲を受けるのは当然である。しかし、越階の昇進というのは本来行われない。陸奥守は従五位上であり、軍功だけならば越階するほどの功績とはされなかったであろう。なによりも久那吐クナトの献上が、朝廷の高官らに与えた衝撃の大きさを物語っていた。


「阿倍殿もそろそろ京官に戻れますかな」

「いや、このまま陸奥国司を願い出るつもりじゃよ。件のもののこともありますしな」


 なるほどと宇合うまかいが肯く。久那吐クナトは国家機密であるから、知っている者は少ないに越したことがない。朝廷では藤原宇合が、陸奥では大野東人おおののあずまひとが、専門的なことは阿倍粳蟲あべのぬかむしが互いに連絡を取り合って、物事を進めていくのがよいと考えているのは舎人皇子だろうか。


「長屋王には?」

「我らは敵視されておる」


 貴方もでしょうとばかりに宇合うまかい東人あずまひとを見る。宇合うまかい藤原不比等ふじわらのふひとの子で四兄弟の三番目である。長屋王ながやのおおきみの藤原嫌いは有名であり、それに親しくしている大野東人おおののあずまひとも政敵扱いされていた。東人あずまひとと親しくしている皇族は舎人皇子とねりのみこであるが、宇合うまかいは疎遠で、兄の藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ房前ふさまえ、弟の万里麻呂まりまろも皇族とは距離を取っていた。元々、舎人皇子とねりのみこ長屋王ながやのおおきみと親しいのだが、最近疎遠であると噂されている。


「では?」

舎人皇子とねりのみこに謁するつもりよ」


 聖武帝しょうむのみかどの信任が長屋王ながやのおおきみから離れつつあり、舎人皇子とねりのみこ長屋王ながやのおおきみとの距離を開け始めているが故の噂であると藤原宇合は感じていた。舎人皇子は新しい支持者を探しているはずである。長屋王ながやのおおきみと藤原氏の対立は聖武帝しょうむのみかどの藤原贔屓びいきによって均衡が取れてはいたものの、政治主導は長屋王ながやのおおきみが万事握っており、藤原氏としてはこれを排除したいと考えていた。


 東人あずまひとは排除まで考えてはいないが、やはり急進的な改革に疑問を抱いており、藤原四兄弟が温厚なこともあり、穏健派としては藤原氏寄りの立場を取っている。


「では、共に参るといたしましょう」


 東人あずまひと宇合うまかいを誘って、舎人皇子とねりのみこの邸宅へと向かった。

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