初恋よ、雨に濡れて

水神鈴衣菜

本文

 その日は、突然の豪雨に見舞われた。

 天気予報にもない突発的な雨雲で、未来予知ができるわけでもない普通の高校生、玉梓たまずさふみは案の定傘を忘れていた。昇降口の軒下でふみは足止めを食らった。

 待っていても一向に止む気はしないし、今日は家に帰ってからすぐに用事があるのだ。早々とバス停に向かって、いつもの時間のバスに乗らないといけない。覚悟を決めるしかないか、とふみは肩に掛けた鞄の持ち手をぎゅっと握り締め、外へ出ようと──。

「玉梓さん?」

「ひゃいっ!」

 突然掛けられた声に、彼女は変な叫びで返事した。ふみは混乱する。自分の苗字を知る者など、この学校にほとんどいないはずだ、と。声が飛んできた方を見ると、見覚えのある顔があった。

「は、玻璃野はりのくん……?」

「外出ようとした? この雨じゃ一瞬でびしょ濡れだよ」

「あ、で、でも、早く、帰らなきゃ」

「用事とかある感じかあ……あ、じゃあ」

 ふみのクラスメイト、玻璃野はそう言いながら、鞄をガサゴソと漁り始める。何をしているのだろうか。

「……あ、あった。はい、折り畳み傘」

「え、はい、って」

「貸してあげる、ってこと。俺はこっちのでかい傘もあるし」

「で、でも」

「用事あるんでしょ、ほら早く行きな」

 ふみと彼とは、ほとんど話したことも無かった。いつも皆の中心にいるような人。自分とは、生きる世界の違う人。おどおどして、すぐに声が震えて、言葉が途切れ途切れになってしまう、自分とは。彼女はそう思っていた。彼は、優しかった。

「……あり、がと、ございますっ」

 ふみは全力で玻璃野に礼し、借りた傘を広げて外に出た。紺の無地。男の子らしい、玻璃野くんらしい傘だと、ふみはなんとなく思った。


 次の日。ふみは乾かしておいた傘をくるくると畳んで、手にぶら下げた。親にその傘はどうしたんだと聞かれたので、友達が貸してくれたと返した。自分と彼が友達など、烏滸がましいにも程がある、と思いながら。

 学校に近づくにつれて、自分は本当に傘を返せるのだろうかという心配が浮上してきた。付箋に「ありがとうございました」とでも書いて、机の上に置いておこうか。いやでもそれは失礼にあたる。やはり頑張るしかないか、とふみは覚悟を決めた。

 そうして、学校に到着した。まだ早い時間だから、きっと教室には誰もいない、とふみは思っていた。静かな教室でぼんやりと音楽を聴きながら過ごす時間が、彼女は好きなのだ。

 教室に入る。鞄が机の横に掛かっている場所は、──あった。それは玻璃野の席。もう来ているのだ。急激に心臓がメトロノームのおもりを下げた。

「あ、玉梓さんだ」

「ふぁいっ!?」

「はは、昨日もそうだったけど面白い反応するね。大丈夫だった? 昨日の帰りは」

「は、はい。ありがとう、ござ、ました」

 私は彼に近づいて、傘を手渡す。

「うん、どういたしまして」

 玻璃野は、優しく笑った。──と、と心臓が一音、違う音を奏でた。ふみは混乱した。漫画で見たことがある。これは。

「じゃ、じゃあ、これで……」

「うん。一日頑張ろうね」

 ふみはその声に何回も頷いて、踵を返して席についた。


 * * *


 それからというものの、ふみは彼を自然と目で追うようになってしまった。時折目が合って、微笑まれるとか手を振られるだとかして、彼女の顔が真っ赤になってそっぽを向く、までがワンセットである。

 皆も知っているであろう、これは、恋だ。だが彼とふみには、天と地程の差がある。クラス内の立場というやつに、だ。彼女はクラスの大多数からは存在すら認知されていないような人間だと自負している。去年彼女と仲良くしてくれていた子は、別のクラスになってしまった。このクラスで仲良くしている人など、男女共に一人もいないのだ。だが彼は、そんなふみとは真逆だ。友達がたくさんいて、勉強もできて。人当たりも良いし、話も上手い。完璧な人なのだとふみはいつも思っていた。そして、きっと彼に恋している人だって、たくさんいるはずだ。私なんかよりもずっとずっとかわいい人たちが、とも。

 烏滸がましい人間になってしまったと、彼女は自らの軽薄さを恨んだ。


 だがふみは、どうにかしてこの気持ちを一旦文字にしたかった。だから、手紙を書いた。彼に宛てているようで、結局は自己満足だったのだが。

 ボールペンで書こうと思ってしまったから、何度も書き直すことになった。小さな便箋は、何度もくしゃくしゃにされて、いつの間にか机の上に小さな山を作っていた。

 書き始める前、ふみは一度文字にすれば、気持ちに整理がついて、なんとなくこの気持ちを諦められる気がしていた。でも結果は真逆だった。玻璃野のことを考えながら書いた手紙は、寧ろいっそうふみの好きを増加させた。なぜこんな簡単なことも分からなかったのだろうかとふみは自らの思慮の浅さに呆れた。

 彼は、ふみには程遠い、月の住民であった。


 * * *


 それから、その手紙は渡すことも、かといって捨てることもできずにふみの部屋の机に置いてある。いっそ伝えて玉砕した方がマシなのではないか、と彼女は最近思い始めた。いっそ伝えてしまって、あなたのことは好きじゃないと言われて、それで踏ん切りを付けることができるのならば、その方が、と。

 だから、今日。すっかり晴れた春休み前日。玉梓ふみは、一世一代の勝負に出るのである。

 ──が、悲しいかな、玉梓ふみには意気地がなかった。ずるずると時間は過ぎ、あっという間に終業式が終わってしまった。玻璃野に宛てた手紙は、未だ呪いのように彼女に張り付いていた。春休みになっちゃうな、と彼女はぼんやりと考えた。声を掛けようにも、彼自体が教室に見当たらないのだ。仕方ないよね、とも彼女はぼんやりと考えた。


「じゃあ、皆さんまた休み明けに。体調崩さないように過ごしてね」

 担任の声が無慈悲に響いた。もう放課後だ。部活にも入っていない彼女に、学校に残る理由などない。空は薄灰にくすみ始めていた。

 ふみは立ち上がり、ゆっくりゆっくりと帰る支度をした。最後まで残っていた世界史の教科書と資料集、ロッカーの奥に挟まるプリントを引き出し、鞄に詰める。意味もなく、長い前髪をいじる。机の中に残った教材やプリントが無いかを確認する。何も無かった。念の為手紙を出しておいて、それから彼女は鞄を、落とさぬよう努めて慎重に肩に提げた。廊下をゆっくり歩いた。

 それもこれも、何も意味は無かった。玉梓ふみは、それを分かっていた。


 階段に突き当たる直前、男子二名程の声がふみの耳へ飛び込んできた。

「なあ知ってるか? 玻璃野、ついに彼女できたってよ」

「あー、聞いた聞いた。隣のクラスの蛍さんとだっけか? 超美人だよなあ」

「美男美女カップル爆誕ってか……はは、人生勝ち組だな、あいつ」

 ここまで聞いても、ふみは彼らの言葉の意味を正確に理解できなかった。先を、越された?

 彼女は、追いかけてくる事実から逃げるように、階段を降り、靴箱を開け、靴をつま先に引っ掛けた。

 雨が降っていた。

 足止めを食らった彼女の勢いは、事実の勢いに呑まれた。やっと彼らの言っていたことが頭に染み込み始めた。反芻することをやめたいのに、彼女の頭はそれを拒否した。何度も「彼女ができた」という声が頭に反響して、消えるまでには時間がかかると思った。

 彼女は、また傘を忘れていた。再び玻璃野の声が後ろから飛んでくることも無く、彼女はそのまま土砂降りの中によろよろと足を進めた。彼女をあっという間に雨が濡らす。長い前髪が張り付いて、ワイシャツが肌に張り付いて。生ぬるい春の温度が、雨にどんどんと奪われていく。ふみの全てを、雨が奪っていくようにも思われた。

 手に持っていた手紙を見ると、ふみの小さな字で書かれた『玻璃野くんへ』という文字は既にかつてのものになっており、今はにじんで何が書いてあったか分からなくなっていた。手紙の中身も、全てにじんでしまえばいいと彼女は思った。この烏滸がましい好意を、全て雨が奪ってしまえばいい、と。初恋よ、消え去ってくれ。ふみの視界はじわっとにじんだ。

「お前、大丈夫か!」

 思考の海に溺れていた彼女を、誰かの声が引き上げた。だが、まだ意識は海の底だった。

「……大丈夫に見える?」

「見えないから声掛けたんだろ」

「今傷心を受け止めようとしてるから、ほっといて」

「だとしても、このままじゃ風邪引くぞ」

「別にいいよ、明日から休みだし」

「明らかに様子が変だったんだよ、本当に大丈夫なのか?」

「──ほっといてよ!」

 玉梓ふみは、大声を出した。それで、彼女の意識は海から引き上げられた。ふみに声を掛け傘を差し出してくれていた男子の存在を、彼女は今やっとはっきり認識した。

「……っ、あ」

 彼女の瞳は、恐怖と困惑と、申し訳なさに彩られた。

「ご、ごめ、なさ」

「お前、玉梓だよな? 隣のクラスの」

 ふみはその声に、何度も頷く。

「お前も、そんな風に大声出すんだな。初めて見た」

「ほ、ほんとに、すみません」

「いいよ、急に声かけたこっちも悪い」

 そんなことはないという気持ちを示すため、彼女はぶんぶんと首を横に振る。

「傘、忘れたのか?」

「は、い」

「方面どっち」

「え、ば、バス停、行きます」

「駅方面?」

「逆の、方」

 釣り目気味の目をした男子は、合点がいったようにふーん、と呟いた。

「じゃあ同じ方面だな。バス乗るまで傘入ってけよ」

「えっ、い、いや……」

「そのままじゃマジで風邪引くぞ、タオルも貸すから」

 自分にそんなことをするな、という意味も込めて、ふみは頭を振った。

「このまままたずぶ濡れになって帰られて、風邪引いたってなったら後味悪いだろ」

「……なん、で」

「心配だからに決まってるだろ」

 玉梓ふみは混乱した。なぜ自分にそんなことを? その疑問は口には出せず、男子に被せられたタオルに遮られる。その景色には、ふみの記憶に引っかかるものがあった。

「ほら、行くぞ」

 頭に掛けられたタオルからは、太陽の匂いがした。

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