第15話 蜻蛉
蜻蛉とわたしを囲う透明な結界の外では、ヴァイルたちと蜻蛉の兵士たちが戦っていた。
少し後方では、アルルを庇うように戦っているスザークの姿がある。
こちら側に外の音は聞こえない。
「お前…」
「どうしてこんなことするの?」
「余計なことを。」
「こんなこと、やめようよ。」
蜻蛉の憎悪?
黒い靄のようなものが蜻蛉を覆っている。
「黙れ!わたしは、わたしと母を殺した、カリシュケルト王国の血を引く者たちを根絶やしにすると誓ったのだ!」
蜻蛉の記憶が流れ込んでくる。
お城の中庭で4人の子供たちが仲良く遊んでいる。
「お兄様、見て!蟻がいっぱいいるよ!」
一番小さな子が蟻を踏んで殺そうとする。
「およしよ、かわいそうだろう。」
「えーっ。」
「だって蟻だよ。」
「ダメだよ。どんなに小さくても生きているんだから。こっちに来てごらん。鳥が水浴びをしているよ。」
子供たちは一番年長の子供に促され池で水浴びをする鳥たちを静かに見守った。
広い寝室のベッドに体を起こして座っている女性と、かたわらには先ほどの一番年上の子供が座っている。
「こちらをお飲みになってください。おかぜに効く薬草を調合させてあります。」
次女はティポットからカップにお茶を注ぐと、子供にはお菓子の入った小さな箱を渡す。
「チョコレートをどうぞ。」
「ありがとう。」
女性がカップのお茶を一口飲むと、急に締め付けられるような苦しみに襲われた。
それでもなんとか声を絞りだすと、
「め…食べてはだめ…どうか…どうか…」
そう言ってその場に崩れ落ちた。
少年は母の言葉を聞く前にチョコレートを口に入れてしまっていた。
そのため母と同様に苦しみながらその場に倒れた。
「ご苦労様。」
侍女に満面の笑みを見せて別の女性が言う。
「お母さま。何か良いことがあったの?」
一番小さな子供が無邪気に尋ねる。
「このお城にいた虫がね、ようやくいなくなったのよ。」
「虫?怖いやつ?」
「ええ、でももう大丈夫。」
「良かった!」
「もう何の心配事もないのよ。」
邪魔な側妃も子供もいなくなって当然だ。この国はわたしの子供たちだけのものなんだから。
女性は上機嫌で3人の子供たちに本の続きを読み始めた。
「いくらなんでもこの扱いは…」
「仕方がないだろう。女王様のご命令なんだから。さっさと済ませて帰ろうぜ。」
男たちは大きな2つの袋を穴の中に放り込むと上から土をかけて去って行く。
真っ暗な土の中、最後の母の祈りが届いたのか、少年は、目を開けた。
「一輪の花すらも与えられなかった。わたしも母も何も望んでなどいなかったのに。」
これは蜻蛉の遠い遠い過去だ。
「誰も手を差し伸べようとはしなかった!」
蜻蛉は小さな子供になっていた。
ほんの少しでも、誰かが愛情の一滴でも与えていたら、何かが変わっていたかもしれない。けれども、そんな優しさに触れることもなく、蜻蛉はただ生きることになった。
憎悪だけを糧に。
そしてその憎悪が、蜻蛉を数百年という年月生かし続けた。
わたしの目から涙がこぼれ落ちた。
誰かを憎み続ける毎日…それがどんなに自分を蝕んでいくか…
「もう、やめよう。」
「お前に何がわかる?」
「今生きている、王の血を引く人たちは、もう過去とは関係ない人たちだよ。」
「うるさい、黙れ。」
「今まで、ほんの少しも、ひとつだけでも、優しい思い出はないの?」
蜻蛉にはないの?
わたしは一歩前に出た。
外ではヴァイルたちが随分優勢になっていた。
「わたしが一緒にいるよ。」
蜻蛉が眉をひそめる。
「わたしはこの世界の人間じゃないから。ここにいるけどどこにもいないような。一緒だよ。」
わたしは蜻蛉に手を差し出した。
蜻蛉は眉をひそめた。
いきなり、蜻蛉が作った結界が崩れた。
「リリィ!」
声の方を向くと、遠くからスザークがわたしの名前を呼びながらこちらに向かってくるのが見えた。
その後ろにはアルルもいた。
もうほとんど蜻蛉の兵は残っていない。
蜻蛉は黙っている。
わたしはもう一度言った。
「一緒に逝こう。」
蜻蛉の手が少し動いたように見えた。
そして、少し間があってから、ゆらりとその手を差し出そうとしたが、結局やめてしまった。
わたしはその手に触れようと自分の手を伸ばした。
「リリィ!」
スザークがもう一度わたしの名前を呼んだ。
スザークはすぐ手が届きそうなくらい近づいている。
わたしは子供になった蜻蛉を抱きしめた。
「もう傷ついて欲しくない。大好きなこの国のひとたちも…あなたも。」
誰かを許すということは苦しいよね。
わたしが触れたところから、蜻蛉は砂になっていき、やがて消えていった。
どんな攻撃も、魔法も蜻蛉には何の脅威でもなかった。
彼をこの世にとどめる憎しみの鎖から解放する力は、ほんの少しの寄り添ってくれる心…
「リリィ!」
その場に立ちすくんで泣いているわたしをスザークは引き寄せると、強く抱きしめた。
「いつも無茶をする。」
「スザーク様…」
泣いているわたしにスザークは、そっとキスをした。
「妹の前でキスとか、こっちが恥ずかしいんですけど!」
ようやくこちらまでやってきたアルルが言った。
妹?
いもうと?
スザークはわたしを抱きしめたままアルルの方をちらと見たものの、無視して言った。
「もう一度キスしていい?」
すぐ目の前にスザークのきれいな顔があった。
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