第九章 林陽菜の二〇二一年

退屈

 つまらない。


 高校生活も二年目に差し掛かり、いよいよ来年に控えた受験というイベントを教師達がこぞって生徒達に意識させ始める頃、林陽菜は退屈そうにあくびをしながら席を立った。


 学校の成績は常にトップ、運動神経抜群。あまりに完璧に振舞い過ぎるが故に、彼女の話は教師や他学年の生徒の間でももちきりだ。


 興味がないとすべて断ってきたが、彼女に言い寄る男子生徒も大勢いた。


 今の学生生活は順風満帆そのもの、何も悩むようなことはない。


 だからこそ、ただ人よりも恵まれているだけにすぎない自分が、今の生活をつまらないものと思うのも、ひどく自分勝手で贅沢な悩みだなと陽菜は自嘲した。


「聞いた? 隣のクラスのひじりちゃんのこと」

「聞いた聞いた。春休みに事故に遭ったんだよね?」

「そうそう、それでさ、みんなで千羽鶴作ってお見舞いに行こうかって話が出てるのよ――」


 ふと教室から聞こえてきた女子生徒の会話が耳に入る。


 彼女と接点は一切ないが、逆巻ひじりという生徒のことは陽菜も知っていた。まるで他人の幸せが自分の幸せですとでも言わんばかりに、率先して誰かの手助けをして回る女子生徒がいると、彼女の噂は陽菜のそれと同様に学校全体に知れ渡っている。


 そんな彼女が、春休みの間に交通事故に遭ったという。誰が広めたかは分からないが、入院中の病院で未だに目を覚まさないということまで知れ渡っていた。


 そんな彼女を心配する声が、彼女のいない教室で当然のように交わされている。


 陽菜はそれを不謹慎ながら、正直少し羨ましく思った。


 高嶺の花としての自分の慕われ方と、気のいい親友としてのひじりの慕われ方は全くもって別種のものだ。それが彼女の行動や人柄ありきであることなど重々承知で、ないものねだりに意味がないことも分かっているが、それでも陽菜はこう思ってしまう。


 きっと自分は、彼女のようには振舞えない。


 上履きを履き替え、学校を出て帰路に着く。


 気付くと陽菜の脚はいつもの帰宅ルートから外れ、最寄り駅から徐々に遠ざかっていた。学校と自宅を往復するだけの毎日に飽きてきたのか。それとも、帰り際にあのような会話を聞いてしまったせいで、自分も何かすべきだと感じたのだろうか。それは陽菜自身にもよく分からない。


 ただなんとなく、その日はまっすぐ家に帰る気になれなかった。


 仕方なく陽菜は、気の向くままに街の散策をすることにした。


 一年も通っておきながら学校と自宅を往復する道以外何も知らないので、行く当てなどどこにもない。


 ひじりのために何かしようにも、何をすべきかも思いつかなければ、そもそも彼女の入院している病院すら知らない。


 ふと自分の胸に沸いた無知と無力感に、ほんの少しだけ嬉しくなる。


 そんなことを思いながら適当に歩みを進めていると、住宅街の真ん中に一つの小さな神社を見つけた。猫の額ほどの境内に、古くも手入れの行き届いた本社。


 入り口の石碑に刻まれた「逆巻神社」という文字を見て、陽菜は先の話題に上がっていたひじりが、地元の神社を管理する家の生まれであることを思い出す。どうやら偶然、彼女の家とでも呼ぶべき神社に足を運んでいたらしい。


 手順に沿って手水で手を清め、玉砂利を踏みしめて社に向かう。財布から小銭を取り出し、賽銭箱目掛けてぽいと投げ入れる。


 目の前にぶら下がった手綱を揺らすと、かろん、かろんと鐘が鳴る。それが終わると、まずは社に向かって二回頭を下げる。年に一度は必ず行う、もはや体に染みついたといってもいいほどのお参りの所作を、陽菜はほとんど無意識のうちに行っていた。


 そして、二拍鳴らしたところで、何をお願いしようか一瞬悩んだ。


 ぱっと思いついた願い事は二つある。さすがに両方お願いするのは節操がないだろうと思い、どちらか一つに絞ることにするとして、果たしてどちらにしたものか。


 ……いや、どちらでもいいかと、陽菜は思いなおす。


 どうせ、このお願い事に意味はない。


 どうせ意味がないのなら、他人のために祈ろうが、自分のために祈ろうが関係はない。


 きっと自分は、彼女のようには振舞えない。


 ふっと自嘲気味に笑って、陽菜は最後の一礼と共に心の中でお願い事を言葉にする。


 ――どうか、このつまらない日常が少しよくなりますように。


 最後の一礼を済ませて、肩にカバンの紐をかけ直して振り返る。まだ時間に余裕はあるとはいえ、いつまでも時間を無為に過ごすわけにはいかない。早く帰って宿題と明日の予習をやっておかなければ。


 まあ、多少の気分転換にはなったかもしれない――


「もうお帰りですか?」


 正面から声をかけられ、ぎょっとして陽菜が顔を上げる。先ほどまで誰もいなかったはずの境内に、一人の少女が立っていた。


 紅と白の巫女装束。そこから伸びる陶磁器のような白く細い手足は、漆塗りの下駄の艶やかな黒と対照的で、お互いの色味をよりいっそう強調させている。


 陽菜とそう歳は変わらないであろう、まだ幼げな顔立ちに似合わない胸まで伸びた彼女の髪は、明らかに染めたものではない、透明感のある白色をしていた。


 異質な風貌の彼女だが、陽菜は彼女のことをよく知っていた。


 立ち止まる陽菜に対して、少女は笑みを浮かべながら近寄ってくる。


「あなたのお願い事、ちゃんと届いていましたよ」


 まるで初対面のようにふるまう彼女に、困惑して陽菜は反応を返すことができない。


 陽菜は学校では知らない人はいないといっても過言ではない。確かに彼女との接点はほとんどなかったが、こうも自分のことを知らないていで関わってこれるものだろうかと訝しむ。


 いや、そもそもそれ以前に、どうして彼女がここにいる?


 彼女は未だに、病院で意識不明のままではなかったのか?


 陽菜の頭に浮かぶ疑問に気付かないまま、少々浮かれたように目の前の少女は声を弾ませる。


「私の名前は逆巻ひじり。あなたのお願い事を叶えに来ました!」


 これが陽菜と、同級生と同じ名を名乗る自称神様、逆巻ひじりとの出会いだった。

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