第5話 ここから始まる集団生活

 真っ白な部屋だ。

清々しい真っ白な部屋。窓は無く、換気扇が低い唸り声をあげて回っている。確かに個人のスペースが六畳とは狭いのだろうが、寝て起きて小説を書くだけの日々を送ってきた僕は別段困らない。

寝ぼけ眼を擦ってみると、空間の輪郭がはっきりしてくる。引き出しのついた机と事務イスが1つずつ、僕が横たわるベッドが1つ、旅館にあるようなサイズの冷蔵庫が1つ。出入口の向かいにある扉はクローゼットだろうか。どれくらい眠っていたのか知りたくて、傍らに抱いていたパソコンを開いた。

こういう時、時代の波に乗る人ならスマホを起動して時刻を確認するんだろうけど、僕はスマホを持っていなかった。というか、持ってるけどぶっ壊れたまま修理していない。

(だってパソコンで足りるし)

悲しいことに僕にはリアルの友人なんて1人もいないし、友人とコミュニケーションを取る時間があれば小説に使いたい派なので、連絡ツールなんて必要ないのだった。

起動画面の中央で「3:23」の文字が光る。昨日、虫に襲いかかられたのが確か午前7時半。しかしそこからどれだけ経ったのか定かでない。とくに調査局は窓が無いため、外がどうなっているのか確認することが出来ないのだ。

「参ったなぁ…」

しかも早朝3時とは。何かあれば局長室においで、とは言われたものの、こんな朝早くに訪ねるのも失礼だ。小説を書こう、とは思ったが、それより部屋に何があるのか把握しておこう、という思考が勝った。僕にしては珍しく。

部屋と同化する真っ白なベッドを降りて最初に向かったのは、これまた真っ白な机だった。パソコンを置いたはいいが、充電コードも何もない。幸いコンセントはあるので、後で家入さんにお願いしてみよう。

机に備え付けられた3段の引き出しを開けてみると、1段目には部屋の鍵がひとつ、2段目にはノートと細い筆箱が入っていた。3段目には何も入っていなかった。強いて言うなら仕切りがひとつ。

次に冷蔵庫を開ける。見た目の割に庫内は広く、大皿も容易に入りそうだ。ペットボトルの水が1本入っていたので蓋を開けて飲んだ。水道水の味がした。最後にクローゼットを開けたが、ハンガーが3つと衣装ケースが2つ並べて置いてあるのみだった。

まとめ。生活感を少し足しただけの宿泊施設だ。

正味がっかりした。世間に明かせない秘密を抱えて暗躍する組織、というのだから、さぞ部屋も面白いものがあるのだろうと、少しばかり期待していた。否、それはそれはめっちゃ期待していた。家入さんに「部屋がある」と言われたとき、実は溜まった疲労をワクワクが遥かに上回ってた。それなのに。

「はぁ……。」

事務イスに座ってため息をつく。パソコンの起動画面は4:07を示していた。

「4時か…」

部屋の探索もひと段落つき、気持ちが落ち着いたせいか、やんわりと催した。辺りを見回してトイレを探す。そこで僕は気づいた。

この部屋、トイレがない。

そう、探索した時点で気づくべきだった。トイレはおろかキッチンすらない。あれこれ考えている内に危険度は増す。この施設に来て初めて焦り出した。

ひとまず外へ、と思い、部屋のドアを開けて外へ出る。真っ白な廊下に人影はない。またもや辺りをキョロキョロすると、運良くトイレのピクトグラムが目に飛び込んできた。

すぐに用を足して手を洗う。鏡に映った僕の顔はやつれていた。

(何日ぶりだ…鏡を見るのなんて)

昨日までの僕の生活ぶりは、世間に言わせれば「廃人」というやつなのだろう。生命を維持するための水分、栄養、食事を疎かにするなんて日常茶飯事、外に出るのなんて1ヶ月に1回の食料の買い込みだけ。父が遺してくれたお金は、電気代さえ払えれば問題ない僕にとっては多すぎた。最低限の体の洗浄をこなしていたのは偉いと思っている。だけど鏡なんて見ていなかった。見たくもなかった。生気の抜けた虚ろな眼が見つめてくるから。

トイレを出て部屋に戻って、意欲が湧いたのはやはり小説だけだった。ワープロを立ち上げてプロットを考える。箇条書きで盛りたい要素を洗い出して小説の軸を作っていく。もう何度となく繰り返した作業だ。そうだな、今度の話は…

「柿田君!起きてるか?」

あぁ、とげっそりした声が漏れた。強いノックと共に聞こえてくるのは、明らかに望月さんの声だった。時刻を確認するとちょうど5時になるところだった。5時ピッタリに起こしにくるところが望月さんのイメージ通りだった。

「は〜い」

思っていたより気の抜けた声が出て、ふと笑ってしまった。その表情のまま扉を開けたものだから、望月さんに「いいことでもあったか?」と笑いながら聞かれた。

「まぁ…こんなに人と話せたっていうのは、いいことかもしれないです」

「友人は?いないのか?」

大分失礼なことを聞くな、と感じたのに、望月さんなら全く気にならないから不思議だ。

「いるように見えますか?」

「…いなさそうだな。友人が出来ないっていうより、作りたがらなそうだ」

「正解です」

ふは、望月さんが笑った。つられて僕もくつくつ笑った。久方ぶりだった。人と他愛のないはなしをすること。人と笑うこと。なんでもない数分に、大きな価値を感じること。

僕の心はきっと、目の荒いざるのようなものだ。ずっと、見てもらえない小説という液体で、満たされることがないと分かっていながら、それでも愚直に満たそうとし続ける。でも今は違った。望月さんとの会話は、言わば固形物だった。それも大きな。ざるの目は、暖かい固形物を落とさずに捕まえる。久しぶりに、いや、初めて心から満たされた気がした。僕はまだ何も手に入れていないのに。

「お腹すいてないか?」

望月さんは微笑んだままそう問うた。聞かれた途端、胃の空白感が信号になって脳に伝えられた。

「空きました。でも冷蔵庫に水しかなくて」

「なら行こう。私たちはいつも、同じテーブルでご飯を食べるんだ」

あぁ、きっと楽しいだろうな。昨日までなら鬱陶しくて仕方なかった他人との食事が、今はこんなにも生きる意味になりうる。案外僕は、意思が弱いのかもしれないな、と思った。1人でいようとしても、人のあたたかさを見るとそれが欲しくなる。

起きたときよりもいい気分で、望月さんの後をついて行った。




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