去りし者帰らじ(後)


「ここ、神隠しが起きるとか言われてたよな。昔、親に内緒で来て、勝手に怪異を閉じようとして─」

「崖から落っこった」


 御春は、風にかき消えそうな伊織のつぶやきの続きを引き取った。

 10年前のこと、生まれつき鋭い霊感を持つ御春は、祖父から早々に綴の役目と技を学んだ。そして、伊織と共に片端から怪異の噂があるところに冒険に向かっていた。

 その頃の伊織は酷く気弱で、また霊的な感覚も殆どなく、綴の役目とは離して育てるべきだというのが家族の判断だった。しかし、ふたりはそれに納得できなかったのだ。

 綴の家において、力を持たない男児は夭折する。近所の人間がまことしやかに囁くそんな噂を耳にしてしまった伊織は怯えきって御春に泣きついてきた。それからふたりでこっそり、伊織の力を何とか呼び覚ましてやろうとあれこれ試していたのだ。

 そしてこの山に立ち入ったある日、彼らは怪異には巡り合わなかったが、霧の中で斜面から足を滑らせ転落してしまった。御春は途中で木に引っかかり、伊織は下の沢に転落し揃って気を失ったものの、幸い大きな後遺症もなく生還している。あのときほど、チヤが眉を吊り上げて怒った日はないだろう。


「結局、お前あのあとすぐ怪異が見えるようんなったしよ、あんま意味ねかったな」

「だから(それな)。あんだけ早死にするだのなんだの煽ってた奴らも、急に掌返して、家業手伝え手伝えせずねく(うるさく)なった」


 それが、伊織がその事故以降やたらと攻撃的な性格になった理由なのだろうか。

 ひゅうひゅうと笛のような風が吹く。ざわめく枝から、千切れた葉がぱらぱらと落ちた。 

 この山は昔から、木々が密集している上に、崖や沢が多く、遭難する者が多い。行方の知れぬものを神に隠されたと言い伝えるようになったのか、それとも本当に人を隠す神がいるのか、それは分からない。


「伊織」

「あ?」

「お前誰を探してんのや?」

「んだから言ったべや、神隠しされた奴だ」


 寒戸の婆ならぬ弥沼の童─彼が口にする存在に御春はさっぱり覚えがなかった。

 以前神隠しが起こった山だとは噂されているが、明確にいつどこで誰が行方不明になったという情報はないのだ。怪異に精通した御春でさえそうなのだから、そういったことに殆ど関わっていない伊織が、何かを知っているとは思えなかった。


「誰から聞いた、そんな話」

「誰からも」

「はあ?」

「お前せずね(うるさい)から帰れ」


 伊織は生産的な会話をする気はないらしい。のらりくらりと御春の問いをかわし、時に噛み付いて追い払おうとする。

 吹きすさぶ風の中で歩くこと数十分、その長い足が不意に動きを止めた。

 風が錆びた匂いを孕み、湿り気を帯びていく。この世ならざるものの気配が、直ぐ側まで近づいていた。


「……来た」


 伊織が独り言のように呟いた。ひゅうひゅう、ひゅうひゅう、誰かが息を吹き付けているような薄気味悪い風に、その声は掻き消されていく。


「いお」


 一歩踏み出そうとした刹那、浮き石を踏み抜いた右足が横に滑る。ノートを小脇に抱えていた御春はうまく受け身を取ることが出来ず、そのままバランスを崩した。

 ぐらりと倒れた視界の奥、木々の間にそれは見えた。

 人影だ。身長はおおよそ120センチ程度、薄汚れた白い服を纏い、髪を胸元まで伸ばした人間の姿があった。その身体は枝葉を折らんばかりの風の中、髪の一房すら靡くことなく、一本の棒のように真っ直ぐ立ち尽くしている。


─これが。


 異様な子どもは、その黒々とした瞳を髪の隙間から覗かせ、御春をじっと見る。そして、乾いた唇がゆっくりと動いた。


─あれ。


 瞳の黒に、何か深いところに眠る記憶が呼び覚まされる感覚があったが、それは勢い良く腕を引かれたことで霧散した。


「何してんだお前は」


 伊織が、沢に落ちかけた御春の腕を掴んだのだ。細身だが筋肉質な彼は、容易に傾いた身体を引っ張って引き寄せる。


「またおんなじとこから落ちっとか、馬鹿かお前」

「おんなじとこ……?」


 御春は下を覗きこむ。そこには数メートル下に流れるごく浅い沢があった。確かに、ここは10年前にふたりで落ちた崖と同じ場所だ。

 そして先程の子どもの姿を思い出し、はっと顔を上げるが、鬱蒼とした山の中に、先程の異様な人影はもう存在しなかった。


「伊織、さっきの見たか?」

「……見えた」


 ふと気が付くと、風は止んでいた。

 御春は夢から覚めたようなぼんやりとした心地のまま立ち上がり、ズボンについた草と土を払う。


「あれ、何や?」

「何回も言ったべ。寒戸の婆とおんなじや、帰って来たんだ」

「……お前、いい加減まともに会話しらい」

「もう居ねえみたいだし、帰っど」


 伊織は勝手に何かを納得して、さっさと歩いて来た道に向け踵を返してしまう。

 彼の言うとおり、先程の子どもは神隠しにあった者が、風と共に束の間帰ってきた姿だったのだろうか。釈然としないまま、御春もその後を追う。


「御春、ノート貸せ」

「なして」

「怪異さ遭ったら記録しろって、じいちゃんに散々言われてっぺや。ほら」


 学校で板書するのさえ嫌がる筋金入りの不良息子とは思えぬ言動である。まさか妙なものに憑かれているのかとその顔をまじまじと見つめると、なかなかの力で肩を殴られた。


「綺麗に書けな?」

「ん」


 何はともあれ、伊織を連れて帰るという目標は果たせそうだと、御春は息をつく。

 気紛れで神経質な不良という、従兄弟でなければ関わりを持たないであろう厄介な気質の人間だが、行方不明になれば心配するし、無事に見つかれば安堵する。家族というのは概ねそういうものだろう。

伊織は、「昔、あったずもな……」と口で唱えながら、歩きつつ器用に文字を綴っていく。


「別に帰ってから良いんでねか」

「帰ったら母ちゃんさ夜まで……いや、朝までキレられるに決まってっちゃ。忘れねうちに書いとく」

「じいちゃんが聞いたら泣いて喜ぶべな」


 暫く、ふたりの足音と伊織が万年筆を動かす音だけが響く。風が止んだ山は不自然に静かだった。


「……寒戸の婆って、なして一回しか帰ってこねかったんだ?」


 伊織は不意にそう尋ねたので、御春はスマホで家族に現状を報告しながら答えてやった。


「……あの話は、元々登戸のぼとっていう集落の娘が、行方不明んなって何十年後かに山姥みてになって帰ってきたって民話が元になってんだけど……その話では、娘は毎年帰ってきて、その度に暴風雨を連れて来っから、村人は困ってた。んだから、巫女だの山伏だのに頼んで、二度とそいつが帰らねようにしたんだと」

「どうやって?」

「さあ……魔除けの石塔とか建てんのかもな。神主さんなら何か知ってっと思うけど」


 帰るたびに暴風雨を連れて来た娘。それはもうこの世のものではなく、そしてこちらでは受け入れられない存在なのだろう。

 寒戸の婆も、家族に顔を見せてすぐに、「戻らなければならない」と言って消えてしまった。


「神社さ相談したら、何かしてくれっかな。こんな風毎年吹いてたら、うちの屋根が吹っ飛ぶわ」 


 伊織はさらさらと文字を綴っていく。

 それを眺めながら、御春は背後を振り返った。

 あの奇妙な子どもは、じっとこちらを見つめていた。風に揺られることもなく、ただ、静かに。

 何気なく、子どもがした口の動きを真似てみる。「い、あ、う」という母音が紡がれた。妙に馴染みのある言葉であるような気がしたが、その正体を掴むことは出来ない。


「御春」


 ぞわ、と怖気が走った。

 弾かれたように振り返ると、伊織がじっとこちらを見ている。いまいち感情の読み取れない黒々とした瞳は、子どもの髪の隙間から覗いていたものに、よく似ている気がした。


「神隠しってよぉ、この世ではねぇ場所さ消えちまうことなんだべ?ならよ、逆にこっちへ来ちまうことは何て言うんだ?」

「……さあな」

「便利な言葉だよな。んでも、そういうのが必要なんだべな。理由もなしに消えちまったんでねくて、神様さ隠されたんだって思ったほうが、家族も気が楽っつうか……救われる?っていうのか?」


 伊織は万年筆の先端に歯を立てようとして、私物でないことを思い出したのかすんでのところで堪えた。


「居なくなったものは帰らね。帰れね。俺も、あいつも─」


 ふとそよ風が吹く。その中で伊織の髪は一切靡くことが無い。


「……お前は」


 御春は彼の腕を掴み、帰り道に向けて思い切り引っ張った。


「おばさんが心配してっから、帰るど。お前は家さ帰らねとなんね」


 ふわり、と癖のある髪が思い出したかのように風に揺れる。

 彼の正体を暴き、石塔を建て、二度とこの地に戻らないように何処かに放逐することができるかもしれない。しかし目の前の彼が消えても、あの子どもは元いた場所に帰ることはできないだろう。此岸と彼岸の境は、超えてしまえば戻れない。寒戸の婆が、暴風雨をもたらす怪異となったように。

 そして、息子の身を案じる伯母のもとに、御春はひとりきりで戻ることは出来なかった。


「……おばさんも、ぴーちゃんも、じいちゃんたちも、お前のこと探してる」

「へえ」

「お前の姉ちゃんもキレてた」

「うわ、最悪」


 伊織はそう言いながらも、途中まで書いたノートを御春の胸に押し付け、さっさと山道を歩いていった。


「やっぱ“あっち”には帰れねえか」


 そんなぼんやりとしたつぶやきを残して。


 御春はその背を見送り、再び山の中を振り返る。

 風が止んだその地に、もうあの子どもは居ない。御春の名を呼び、じっと彼を見つめていた

あの視線も見当たらない。

 神隠しの山という伝承は本当だった。幼い御春と伊織は、それに気付くことができなかった。


「伊織」


 返事はない。


「……ごめん」


 風はもう、手の届かない地に消えていった。


「俺だけ、帰って」


 その時、手元のスマホが震える。五月と忍から同時にメッセージが来ていた。どちらも伊織の安否を心配している。


『今から帰る』


 息子を案じる彼女にそう伝え、


『見つかった。明日学校さ引き摺ってく』


 友人を探す少年にそう送る。

 どちらにも、本当のことは言えなかった。御春が彼を、ずっとずっと昔に、遠い場所に追いやってしまったと。


「おーい、ぼさっとすんな」


 “伊織”が不機嫌そうに戻ってくる。

 その顔は確かに、この10年ですっかり見慣れた従兄弟のものだった。


「……お前も、帰りてえのか?」

「帰れんの?」 


 御春はペンを取り思考を巡らせ、やがて首を振った。


「……お前が今帰んのは、おばさんちだ」

「ふん」


 獣のように歯を鳴らし、伊織は苛立ちを消化しようとする。


「なあ、俺が書いた文字、消していいど」

「え?」

「来年も、その次の年も、童は町さ戻ってきたって─そう書き直したら良いっちゃ」

「いや、書かね」


 風は止んだ。しかし木々の枝葉は折れ、フェンスは傾き、あたりは酷い有様だった。この様子では商店街では屋根が剥がれているところもあるかもしれない。


「……もう、あいつは此処では生きられね。そんでお前は、此処でしか生きられね」


 此岸と彼岸の境は、一度超えればもう戻れない。去りし者は帰らないのだ。それがどちらからの旅人であろうとも。

 御春は沈黙を選んだ。それが罪だと分かっていながら、もう一度家族を失うことを恐れて。


「死ぬまで黙って、此処で生きて、俺のことだけ責めててくれ」


 そう言うと、伊織は真っ黒な目を細めた。


「俺は別にどうでも良い……あいつも、お前のこと責めてねよ。んだって、しょうがねえもん。こんな町で─ああ、なんつうか、事故みてえなもんだ」

「慰めてんのか?」

「あ?違えよ、殺すぞテメエ」


 そうだとしても、御春は風が吹く度に思い出すだろう。

 臆病で温厚な従兄弟が帰ってきそうな日、己がひた隠す秘密を。目の前を歩く少年の正体を。




































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