去りし者帰らじ(前)

【昔、あったずもな……】


『み、御春、ほんとにこんな山さ入んのわ?』

『ここで怪異が起きてっからな』

『……だ、大丈夫かな』


それは、“寒戸の婆”が帰ってきそうな、風の強い日のことだった。






「ごめんねえ、御春。うちの子が」


 夕暮れの商店街、その広場で御春に向かって頭を下げるのは、明るい髪を編み込み、派手なワンピースを纏った長身の女性だ。彼女の名は名生舘みょうだて五月さつき。伊織の伯父の妻、つまりは義理の伯母にあたる人で、商店街の一角でカラオケスナックを営んでいる。


「平気。町ぐるっと探してみっから」

「風強いから、無理はしちゃ駄目だからね」


 五月の長男である伊織は、御春と同級生だ。従兄弟である彼とは顔が似ていることもあって、兄弟のように扱われる。

 この伊織というのが、かなりの曲者であった。

 綴の親類には長身が多いが、その中でも並外れた体格を持ち、性格は神経質で喧嘩っ早い。昔から周囲と喧嘩が絶えず、近付くのは御春や、燎子、忍といった付き合いが長い数名だけだ。

 そしてその彼が、ここ数日家に帰ってこないという。同級生を殴り倒し、教師の胸倉を掴み上げ、とにかく凶暴な犬のような彼は町一番の不良だが、家出したという話は聞いたことがなかった。

 警察に捜索願が出されたあと、通学用のバイクが神社の駐車場に放置されているのが発見され、町はにわかにざわめいていた。


「おばさんは家さ居てやって。フラっと帰ってくっかも知れねから」

「んだ……んだね。少し戻ってみる」


 五月は落ち着きなくタバコをふかそうとしたが、吹き付ける強風に掻き消され、沈んだ顔のままスナックへと歩いていった。その背を見送り、御春は近くに停めていたバイクへと跨る。

スマホを取り出すと、忍から「馬曳うまひき方面☓ 薮川方面☓」と、町を虱潰しに探していることを示す連絡が届いていた。


─町ん中は粗方探した。んでも、あいつには外泊する場所のツテも金もねえ……。


 思考を巡らせつつ、御春はヘルメットを被りバイクを発進させる。

 伊織のバイクが見つかったのは、北西にある神郷山。町の住人の大半を氏子として抱える弥沼神社が存在する場所である。民家は殆ど無く、少なくとも不良息子が暇つぶしにいくようなところではない。

 住人の中には、彼は神隠しにあったのだという者も出始めた。弥沼神社はこの地を1000年の昔より守護する氏神を祀る社だ。そのような話は決して有り得ないことではなかったし、過去に何度か似た例は存在したという。

 そうであったなら、諦める他はない。神の道理、神の世界、そこに人が立ち入ることなど出来ないのだから。

 刹那、一際強い風がバイクを揺らし、御春は強くハンドルを掴んだ。




『☓☓が帰ってきそうな日だな』




 山道の脇にある岩に座ってスマホを弄る伊織を見つけたのは、それから僅か一時間ほど経った頃のことだった。

 190センチを越える長身、学校指定のYシャツとスラックス、切れ長の目と黒々とした瞳、青白い顔、しきりに鼻を擦る仕草、そしてふてぶてしい態度。それは間違いなく従兄弟の名生舘伊織そのものであった。


「伊織!」


 御春はバイクを停め、声を張り上げる。


「お前こんなとこで何してんのや!」

「うわっ……声デカ」

「お前の母ちゃんも、姉ちゃんと妹も、町の人らも、警察も、みんなお前のこと探してんだど」

「はあ?頼んでねえけど別に……この前停学食らったべ?それで説教されんのやんだから、停学開けるまでフケてただけ」


 伊織の停学が開けるのは今日だった。そのタイミングで町に戻ってきたらしい。

 御春は怒りを通り越して呆れ果て、バイクから飛び降りた。


「説教はこれから食らえわ。帰るべし」

「やんた(嫌だ)」


 再び突風が吹く。ヘルメットが転がりかけたところを、ギリギリのところで掴まえる。

 その間に伊織はフラリと立ち上がって、獣道へと足を踏み入れた。


「おい、どさ(どこに)行く」

「せずね、お前帰れ。うぜえから」

「ああ?」


 日頃感情が平坦な御春も、これには流石に苛立ちを覚えた。


「お前なんぼ心配かけたか分かってんのわ?」

「んだからせずねっつってるべや。ぶん殴られてのかお前?文字ばっか書いてるモヤシの癖にやぁ!」


ひゅう ひゅう ひゅう ひゅう


 風が吹く。トタンの屋根ならば吹き飛んでしまいそうなほどの風だ。遠くから、暴風警報が発令されたことを知らせる防災無線が、ノイズ混じりに聞こえてきた。

 御春が目を閉じるほどの風にも、大柄な伊織は動じず、乱暴に彼の肩を掴んで突き飛ばす。何とか受け身を取ったが、アスファルトに擦った背中がヒリヒリと痛んだ。


「お前、そんな山ん中さ入ったら、また怪我すっど」


 ほんの束の間、伊織の動きが止まった。しかし彼は再び歩き出す。御春は荷台に積んだカバンを手に後を追いかけた。その直前、五月に位置情報付きの連絡を送ることも忘れずに。


「しつけえんだよ!」


 伊織は歯を剝いて振り返った。度々忍たちにもからかわれているが、その姿はまさしく野犬のようである。


「何やお前、いっつもいっつも親みてえに俺のこと説教してや。マジでぶん殴られたくねならどっかさ行け」

「もうこの場所は連絡した。お前が馬鹿みてえに俺さ突っかかってる間に迎えが来るべな」

「はあ?!」


 どこに行くのが目的かは知らないが、時間制限がかかってもなお、伊織は御春の相手をするのを止めなかった。

 彼はとにかく直情的なので、こうして適当に胸倉を掴まれたり小突かれたりしていれば、今に駐在が迎えに飛んでくることだろう。


「チクりやがって、クソ野郎」

「のっつぉついてる(フラフラ遊び回っている)やつが悪いんだべや」

「マジでうぜえんだよ、うちのババアすぐ泣くから。今俺が帰ったらキレて失神すんじゃねえのアイツ。大体いっつもタバコ臭えし……」


 伊織はぶつぶつと母への愚痴を溢す。山に行きたい訳ではなく、適度に周囲を振り回して憂さを晴らしたいだけなのだと御春は思っていた。

 同い年の従兄弟を宥めすかして家に連れて帰るのは、もう数え切れないほど経験している。いい加減落ち着いてくれないかと思いつつ、彼は適当にその相手をし続けた。


ひゅう ひゅううぅぅ ひゅう


 激しい風が髪を乱れさせ、バイクが時折ぐらりと傾く。


寒戸さむとばばが帰ってきそうな日だな」


 遠野物語になぞらえた軽口を叩くと、不意に伊織の手が胸倉を離れた。


「んだ(うん)」

「は?」

「今日は、風さ乗って帰ってくる。んだから、追い返さねばなんね」

 

 彼はいやに静かに言った。


「何が帰ってくんのや」

「寒戸の婆」


 寒戸の婆というのは、遠野物語の一節だ。

 昔、寒戸という集落で一人の娘が行方知れずとなった。どれほど探しても見つからず30年ほどが経ったある日─とてもとても風が強い夜、親族の集まりにひとりの老婆が現れた。

 曰く、己は30年前に行方不明になった娘で、家族の顔を見たさに帰ってきたが、すぐに戻らねばならないという。そして再び風と共に老婆は去った。以来寒戸では、風が強く吹くとき「寒戸の婆が帰ってきそうな日だ」と言い合うそうだ。

 寒戸という集落は実在せず、登戸の誤字だとか、柳田國男が作った架空の地名だとか色々な説があるが、少なくとも遠い昔、どこかに風と共に帰ってきた老婆がいたらしい。

 神隠しに遭った者が長い時を超えて帰ってくるという話はいくつか見られるが、気が狂っていたり、年を取っていなかったり─何もかも元通りの大団円とはいかないものが多い。一度あちら側に渡った者が此岸に戻ることは難しいのだろう。


「……ここは弥沼だ」


 伊織は、幼い頃は臆病な性格で、民話を語ってやるたびに泣いていた。今は対等に大喧嘩をする燎子にもやられてばかり、スナックの客のことも怖がって、今とは違う意味で手のかかる子どもだった。

 強くなれと発破をかけすぎたせいでグレてしまったのではないかと、五月は常々困り果てている。 


ひゅううううううう ひゅいいいいいいい


「したっけ、弥沼の─童?んだ、弥沼のわらが帰ってくんだ」


 伊織はカチカチと歯を鳴らし、乱暴な仕草で近くの木を蹴飛ばした。


「……弥沼のわら?」

「何度も言わせんな、根暗野郎」


 如何にも馬鹿な不良といった罵倒と、先程の奇妙な単語はあまりにも釣り合わない。しかし呆気に取られている暇はなかった。彼はその長い足で、どんどん先へ先へと進んでしまうからだ。足元を掬われそうな強い風を、ものともせずに。










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