嘆く葬列
【昔、あったずもな……】
「腹減った……」
御春は腹をさすり、ため息をついた。店の片隅に置かれたゼンマイ式の時計を見れば、時刻は17時。夕食まであと一時間程度あることを確認し、彼は学食で買った饅頭の包装を剝く。
「散歩〜、散歩だど〜」
そのとき、廊下の奥からふらふらとした足音と、歌うような声が聞こえてきた。
ややあって店に降りてきたのは、真っ白の髪を短く刈り上げ、長身に黒の着流しを纏った、まるで時代劇から出てきたような粋な風体の男である。年の頃は60後半、しかしその年齢と外見に合わない無邪気な笑みを浮かべて、彼は裸足のまま土間を歩き出す。
「
「さんぽ、散歩」
次いで、廊下を走ってきたのは、彼の草履を片手に持った母だった。
「ハル、店はじいちゃんに見てもらっから、初ちゃん、散歩連れてってやって」
「珍しな、昼間行かねかったの?」
「昼、こっちは雨降ったからねえ」
にわか雨であったようだが、そのせいで彼を散歩に行かせてやる機会を逃したらしい。
御春は草履を受け取り、夕日に向かう背中を追いかけた。
「初生、草履忘れてっど」
肩を叩き、草履を差し出せば、彼は「わせったやあ!(忘れてた)」と笑って履物に足を通した。
彼の名は
「今日は何処行きてのや?」
「あっち」
全く周りを見ずに走り出そうとする腕を掴んで制し、御春はそのまま横に並んで歩き出す。性格は温和なのだが、体格が良く力が強いのでなかなか抑えるのが難しい。普段は母と祖母がふたりがかりで連れ出しているほどだ。
「ハル坊、今日の飯なにやあ」
「俺も知ゃね」
「か、カレーがいいっつったのに、お母ちゃんが駄目だってよぉ」
「先週食ったからな」
「あ、あっち」
初生は店の裏手の方に歩き出す。商店街の裏は住宅街になっており、井戸端会議をする主婦や、煙草を吸う老人、草刈りをする男性など、チラホラと庭先に人影が見えた。
「おばんです〜!(こんばんは)」
初生が声を張り上げる。すると人々の視線が一気に注がれた。青い顔で逃げるように家の中に入る者、青ざめつつ挨拶を返す者、全く気にした素振りのない者、三者三様の対応を受けても、初生は笑顔のまま次々に挨拶をしていた。
彼を見る人々の対応は様々だが、その思いは共通している。
「どうか、うちの前で止まってくれるな、早く立ち去ってくれ」
語らずとも、その祈るような思いは伝わってきた。御春は会釈をし、彼の腕を引いて細い道路を進む。
「ハル坊、お池さ行くど」
「はいはい」
歩いて10分ほどのところにある調整池は、彼のお気に入りの散歩コースのひとつだ。季節ごとに現れる様々な野鳥を眺めるのが好きで、鳥を見つけるたびに身を乗り出す勢いではしゃいでる。
日が傾く通りに、ふたりの影が長く長く伸びる。草履が地面を滑る音が鳴る度に、家々の窓から視線を感じた。
初生を疎んじる住人は少なくない。彼が近付くこと忌まわしく思い、彼を徹底的に避け、昔は、家に閉じ込めておけとまで言う者も居たそうだ。
「ハル坊、お池好きか?おんつぁんが連れてってやっからな」
初生はけらけらと笑う。御春にとって、彼は大切な家族であり、幼き日の遊び相手であり、時に早逝した父の面影を感じさせる、そんな存在だった。
「お〜い、初生」
古い家の庭先から、ひとりの老人が顔を出した。
「ずんつぁん(じいちゃん)!」
初生は彼に向けてぶんぶんと手を振る。老人は菊池といって、彼が散歩するたびに野菜や菓子を持たせる友人だ。
「ずんつぁん、メジロは?」
「あの様子ではまだ巣立たねよ、近くなったら呼んでやっからわ」
「ハル坊、メジロ、ここメジロ居んだど」
菊池家の庭にある立派な大木を指し、彼は興奮気味に言う。確かに耳を済ませると、子を養う母鳥の鳴き声がかすかに聞こえてきた。
「へえ、今年も来てんのわ」
「オラんとこの木は枝葉が多いからよ、カラスだの猫だのに見つかんねんだべ。ほら、せんべい
「ありがとがす」
ビニール袋に入ったせんべいを、初生は元気の良い礼と共に受け取った。
「菊池さん、いつもありがとな」
「気にすんな気にすんな、こっちも暇してっからよ」
菊池は皺だらけの手で初生の着流しの襟を直してやると、周囲の家を見回してため息をついた。
「ったく、情けねえやつばり(ばかり)だごと」
「菊池さんはおっかなくねえのか?」
「オラは独り身だし、老い先みじけからな」
年を感じさせぬ白い歯列を見せて、菊池は御春の問いを笑い飛ばす。
「寧ろ、“教えて”けんならありがてわ。片付けだの挨拶だの、済ませとけっからな」
菊池と別れたふたりは、金網越しに調整池を眺めていた。
「さぎだ、ハル坊!」
「んだな」
数日前に出掛けたときは、鴨が泳いでいた。ここから見える景色は毎日同じようで、毎日違った美しさを見せる。
水面を跳ね、壁面に貼り付いた蛙がゲコゲコと鳴き出し、初生はその声を真似て随分と楽しそうにしていた。
「初生、そろそろ帰っぺし」
着物の裾を引いて促すが、一度熱が入った初生の集中力は早々途切れることがない。
「初、腹減ってねの?」
「……ん?」
「飯食いたくね?」
「飯、飯かぁ、ハル坊腹減ったべ!ほら、これ
初生は、幼い頃のことがよく印象に残っているのか、今も御春の世話を焼きたがる。菊池老人からもらったせんべいを手渡された彼は、それに口をつける。醤油のピリリとした塩辛さが舌によく染み込んだ。
手を引いて促すと、彼は名残惜しそうに貯水池を眺めていたが、御春が「やっぱ腹減った」と言えば「よしよし」と言ってその背を叩いてきた。
来た道をゆっくりとした歩調で戻る。夕日は既に殆ど沈み、明滅を繰り返す街灯がぼんやりと薄闇を照らし始めていた。
あちこちから、夕食を作る音が聞こえ、空腹をあおる香りが漂ってくる。闇に溶け始めた己の影を追うように歩いていると、初生が呟いた。
「あ、葬式だ」
ふ、と息を止めるよう風が止んだ。
初生の指が、真っ直ぐ伸びる通りの奥を指差す。つづら商店に程近いその場所には、「桃瀬私塾」という看板がかかった、古びた日本家屋があった。
「……初、あれ、忍の家だど」
「葬式だ」
「見間違いでねのか」
初生に引っ張られるまま、御春は桃瀬家の前に歩いていく。
ちょうどその時、
「お、散歩?今日は遅えんだな」
「……」
「あれ、御春だ。今日も初のおっちゃんの散歩?」
「まだ若えのになあ」
年を感じさせぬ真っ直ぐ伸びた上背を曲げ、初生は肩を落とす。
御春は思わず、強く腕を掴んで言葉を制した。
「初!!」
ガラリと再び引き戸が開いた。忍は慌てて飛び退いて、出てきた者に頭を下げる。
「あ、きょ、今日もお疲れ様です。ひなちゃんも」
「ありがとうございました」
「ばいばーい」
家の中から現れたのは、小学校低学年ほどの娘を連れた若い女だった。名前は覚えていないが、甥や姪の学校行事を見に行った際に見かけたことのある顔だ。
彼女は初生の存在に気が付くとビクリと肩を跳ねさせたが、軽い会釈をしてそそくさと歩いていった。
「葬……」
大きく開いた口を、御春はすんでのところで押さえ込む。
娘が忍の方を名残惜しそうに振り返って手を振り、そのスカートの端がようやく道の角へと消えていこうとした瞬間、止んでいた風が、先程までは逆向きに吹いてきた。
冷たく、錆びたような匂いを纏う、妙に湿気た風。それを合図にしたかのように、ひとつは電柱の影から、ひとつは家の隙間から、ひとつは桃瀬家の庭の中から、“かれら”が牛のような足取りで進み出てくる。
「あァ〜……」
「死んだァ……死んでしまったぁ……」
遺影を胸に抱き、それに顔を埋めんばかりに背を曲げ首を曲げた、和装の喪服姿の者たち。老若男女合わせて10名は居ようかという一団は、奇妙な姿勢のまま、抑揚のない泣き声を上げた。
「まだ若えのになあ……」
「娘っごも居んのになあ……」
「もぞこい(哀れだ)なァ……うっうう……」
あまりにも異様な光景に、初生は同調して頷き、彼らと同じように声を上げた。
「ああ〜……まだ早えぇぇ……」
彼の泣き声を聞きつけたのか、隣近所の住人が窓から様子を覗いているのが分かった。
初生は、幼い頃から民家を指して「葬式だ」と騒ぐことがままあった。言われた家は、数日も経たぬうちに必ず不幸がある。御春の曽祖父が死んだ日の朝も、父が死んだ前夜もそうであった。その原因は、長らく患った病の急変であったり、不意の事故であったり、初生のせいだと糾弾できるものではない。
彼の目には、ただ見えているだけだ。死ぬ者を送る異形の葬列が。生の間近にある死を思い出させる初生を疎んじる住人は多い。死を恐れることは当たり前の
「忍」
「……あの人、やっぱ死ぬんだ」
「なんか見えんのわ?」
「服が土だの葉っぱだので汚れてたから─山道には気ぃつけろって言っといたけど、初のおっちゃんに見えんなら、どうにもなんねんだな」
不協和音のような泣き声の中、忍はポツリと言った。彼には葬列とは違った形で、女に近付く死が見えているのだろう。
「あの人さ、お母さんと娘さんと3人暮らしで、お母さんはずっと病気で施設さ居っから……塾通ってける(くれる)縁で、うちが色々世話してんだ。多分あの人が死んだら、じいちゃんが葬式の世話すっと思う」
ゆえに、葬列はここに居るらしい。庭木用の如雨露を所在なく揺らして、彼は親子が去った角を見つめる。
死は隣人だ。それはこの町も、外も同じ。弥沼という土地は、人々にその事実を決して忘れさせない。
泣く初生の肩をさすってやりながら、御春は葬列の一つ、老婆のような姿の者の前に立った。伏せられた顔は見えない。しかし胸に抱いた遺影には、女の晴れやかな笑みが飾られていた。
「なして死んだぁ〜〜……ああぁ……」
これはただの現象だ。女の人生を思い、女の心根を知り、その末路を悼んでいるのではない。風が吹くように、日が昇るように、その死を知らせているだけだ。それでも、御春はそれに向かい合わずにはいられなかった。
「この度は、ご愁傷様です」
深く頭を下げると、初生も緩慢な仕草で続いた。彼を掴んでいた腕から手を離すと、老婆の姿も、喪服の人々も、声も、跡形もなくかき消え、日常に塗り替えられた。この葬列は、初生と触れているときだけ、稀にしか見ることが出来ない。しかし消えたとしても確かにそこに在る。
初生と共に、忍と共に、この手合いには何度も遭遇した。ただ通り過ぎても何も起きはしないと分かっていても、立ち去ろうとは思えなかった。
「お悔やみ申し上げます─」
御春は目を閉じ、両手を合わせ、名も知らぬ女へと祈りを捧げた。
【翌日、隣町に出勤しようとした女の車がパンクし、滑落したという知らせが届いた。その娘が通う私塾の主人は、遺された病の老母と幼き娘を哀れみ、女の葬式の取り仕切りと、娘の世話を引き受けることとなった】
数日後─微かに線香の匂いが漂う店内で、彼は静かに筆を走らせていた。その傍らではチヤがレジを締めている。
「ぴーちゃん」
「なにや」
「忍じゃなくて、知らね女の人で良かったって思っちまったや、俺」
初生が桃瀬私塾を指差し、友人が姿を現した瞬間、全身に怖気が走った。しかし、次いであの女が出てきたとき、御春の胸には安堵が満ちた。
「あの人にも、家族とか友達が居んのにな」
「前も言ったべ。もうすぐ死ぬごとを知んのは、人には早々耐えられね。自分の命でも、大事なモンの命でもだ。思い詰めっことではねよ」
チヤは厚い掌で、御春の肩をさすった。
「それにな、おんなじように、命が長らえると分かったら、いがった、幸せだど思うもんだ。オラも、おめえが今日も元気で学校から戻ってきて、嬉しいって思ってんだど」
「毎日?」
「んだ。初生の力はな、そういう幸せを忘れさせね宝物だ。オラは一日だって、おめらが元気で生きてることに感謝しね日はねえ」
「……ぴーちゃん」
御春は俯いたままペンを置く。
「長生きしてな」
「これ以上かぁ?」
「んだ、もっともっとや。ここまで来たら、玄孫の次まで見ねと」
彼は皺だらけの手に自分の掌を重ねて、ようやく笑みを見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます