忘れ難き場所(後)


「なにやあの鳥、気持ち悪!」


 忍が叫んだ。彼は非常に目が良い。跳ねる馬の上から的の中心を、此岸から彼岸の存在を、明瞭に捉えることが出来る。それ故に町の外では暮らして行けず弥沼へとやってきたのだ。御春がただの影のように思ったものを、彼は「鳥である」と断言した。


「いつまで」


 一際怨嗟のこもった一言を最後に、声は消える。同時に草野の肩越しに見えた泥だらけの足も姿を消した。


「……ま、まただ」


 草野は掠れた声で呟き、その場に座り込んだ。


「大丈夫ですか、草野さん。ホラ思い出してくださいよ、こんなのこの町じゃいつものことだったでしょ」

「いや、さすがにあんなのは早々出ねえ」


 御春は、バイクの荷台から和綴じのノートと万年筆を取り出した。


「草野さん、あんたアレに心当たりがあんのすか」

「……」

「あんた神郷かみごうさ行きてえって言ってたけど、もしかして……」

「御春、今の何なんだよ?あの鳥、目が正面についてたぜ」 


 忍は指でふたつ円を作ると、それを自分の顔の前で動かしてみせた。


「太平記って知ってるべ。南北朝時代の軍記物だ。その一節に、“いつまで”って鳴く人面の怪鳥の話があんだ」

「へえ」


 時は健武元年─都は紫宸殿ししんでんの上空に「いつまで」「いつまで」と鳴く巨大な怪鳥が現れたという。これが現れた頃は疫病による死者が埋葬されずに積み上げられており、供養されずに放置された者たちの怨念が、怪鳥の姿となって人々を責め立てたとされる、


「その鳥の名は以津真天いつまでん。供養されねで放置された死体の近くさ現れる怪異だ」

「……えっ、えっ!?じいさんマジか!?」


 忍は草野の側から飛び退いて、素早くスマホを取り出した。


「落ち着け忍」

「おいおい殺人&死体遺棄犯とかだったらどうすんだよ」

「……いえ、違うのです……罪深いことに、間違いはありませんが」


 草野はよろよろと立ち上がり、額から伝う汗を拭うこともできないまま、震える声でそう言った。


「……神郷に、誰が居んのか?」


 沈黙は肯定だった。御春はノートを脇に抱え、忍の背を叩く。


「行くぞ、忍」

「マジで言ってんの?」

「行かねなら置いてくけど」

「いや行く行く、暇だし!」


 忍は好奇心に殺される猫のような男だ。その目を輝かせた彼は、弓袋を担ぎ直し、山道を勢いよく指差した。




「へえ〜、草野さん横浜住みなんですか。オレ世田谷。しかもタワマンですよ」

「ご両親は立派な方なのでしょうね」

 「絵に描いたような幸せな家族ってやつです。まあオレだけ弾かれたんですけど」


 御春は、荒れきった砂利道を先行し、左右から伸びる枝葉を手折り掻き分けながら山道を登っていた。その後ろでは、忍が彼の鉄板ネタである「親に捨てられた話」を得意げに披露している。


「オレいきなり(とても)霊感強くて、母親と弟どころか、この町育ちの親父にまでドン引きされてたんですよ。それでここにポイッと」

「桃瀬さんも古いお家ですからね……あなたにはご先祖の血が強く現れたのでしょう」

「ああ、だからこの町に来たとき、何か帰ってきたな〜って感じがしたんですかね」


 何気ない忍の言葉に、草野は僅かに目を見開いたあと、その眼差しを山の上へと向けた。


「……あなたは、この町に馴染めたのですね……彼女とは違って」

「彼女?」

「ええ……国安ユキという、戦時中に神郷へ疎開してきた少女がいたのです。横浜から、遠縁を頼ってたったひとりで……」


 都会からやって来た忍に、その国安ユキの面影を見たのだろうか。草野は拍子抜けするほど呆気なく、ぽつりぽつりとその胸の内を語り始めた。


「このような田舎ですから、彼女はとても難儀していました。言葉も通じず、習慣も異なり、親しい者もいない……」  


 学校にも行かず、村の子どもたちとも遊ばず、戦争に行った父や兄の行方を尋ねては泣き、母の迎えを待っては癇癪を起こし─先の見えない暗い時代の中、ユキの存在を村民は疎んでいたという。


「弥沼の人々は、怪異と共に在り、それを受け入れています。その様は、古来より迫害の対象でした。鉱脈が近くにあり土地に毒素が溜まっているだとか、精神を侵す風土病があるだとか、そういった認識が当たり前で、徴兵検査でも精神疾患ありと診断される者が多かったと聞きます」

「……そりゃあ、当時だと他所の風当たりも強そうですね」

「ええ。それ故に近隣の村との交流はありませんでした。特に神郷は便も悪く、弥沼の中心部との関わりも薄くて……まさに此処は、此岸と彼岸の狭間─そのような場所で、ユキさんはいつもひとりだった。あの子は、真っ当に日の当たる此岸で生きるはずの子だったのですから……」


 隣に住んでいた草野もまた、村の空気に馴染まない余所者の彼女を忌まわしく思っていた。

 しかしある秋の日、ひとりで山の中で遊んでいた彼は、川の近くに佇むユキを見つけたという。  


「ユキさんは、川べりに座って泣いていました。このような場所で暮らすことになって、どれほど心細かったでしょう。その泣き顔を見た途端、私は胸が締め付けられたような心地になって、思わず声をかけていました」


 忍に手を貸され、杖を突き、汗を流して歩きながら、草野はゆっくりと絞り出すように言葉を続ける。


「……話してみると、ユキさんはごくありふれたお嬢さんでした。でもラジオで聞くような滑らかな話し方をする子で、私もつい、訛りを隠そうと必死になったことを覚えています」


 ユキは横浜の一等地に住む裕福な娘だった。しかし戦争によって全てが変わってしまった。言葉の通じない、魍魎の彷徨う土地に一人きり。村人たちから、物を知らぬ余所者だと疎まれる日々。彼女はそんな心細さを吐露し、赤児のように泣いた。 

 年下の娘の泣き顔など殆ど見たことのなかった草野は、何とか彼女を慰めようと、慌てて支離滅裂な言葉を連ねた。 


「おれが皆に上手く言っておいてやる」

「ここは、とてもきれいな場所だ」

「川にはホタルがいて、鮎がいて─」


 そこで彼女はポツリと言った。「ホタルはいつ見れるの」と。ユキはホタルを見たことがないという。横浜の都会の川にはホタルがいないそうだ。それは弥沼よりもよほど奇怪な土地だと思いながら、「7月に入ればいくらでも見られる」と教えてやった。


「……それで、約束をしました。夏にふたりでホタルを見に行こうと」


 もうどれほど歩いただろうか。木々の隙間からは眩い西日が差し込み、3人を照らし始めている。猟友会や林業の人間もこの辺りまでは早々足を運ばないのだろう、道らしい道は殆どその痕跡を消していた。


「見に行ったんですか?」

「……いいえ」


 草野は足を止め、斜め前の方に視線をやった。


「ああ……」


 視線を追う。そこには、殆ど木と草に呑み込まれた家があった。一軒だけではない。少しずつ、数十年をかけ、自然に還ろうとしている村の姿が、夕焼けに照らされていた。


 うつくしい、と思った。


 茅葺き屋根の上には太い木がその根と幹を伸ばし、生い茂る葉の一枚一枚、幹の節のひとつひとつまでが、鮮やかな、深い色合いを宿している。折れた柱の先端に止まった小鳥が、歌うように鳴いて飛び去り、土と太陽の匂いがする風が、柔く頬を撫でていく。

 この世のものとは思えぬほど鮮やかに、悍ましいほどにうつくしい場所だった。


 草野は杖を取り落とし、しかし両の足で地を踏みしめ、村の入口へと歩いていった。

やがてその膝が折れ、掌が割れた石畳をさする。


「……あそこに、ユキさんが引き取られた家がありました」


 やがて草野は、更地のような場所を指差した。


「ある日、裏手の土砂が崩れて……そこに住んでいたご夫婦の遺体は見つかったのですが……」


 雨が続いていたこともあってユキの捜索は難航し、丁度その頃、彼女の父と兄が戦場で、母と姉が空襲でそれぞれ亡くなったという知らせが届いたのだという。

 身内らしい身内も居なくなった彼女の捜索はすぐに打ち切られてしまった。戦争も末期となり、村にも余裕がなくなったのだ。

 ホタルを見たことがないと言った横顔を思い出さない日はなかった。15の頃に、記憶から逃げるように街を出て、流れ流れ行くうちに、なんの因果か横浜へと辿り着いた。ビルが建ち並ぶ横浜の街にホタルはいなかった。ユキという娘が生きた証もなかった。しかし彼女は確かにこの世に存在していたのだ。夏になったらホタルを見たいと、少しだけはにかんだ笑顔は、夢幻ではない。土に埋まったまま見捨てられてしまったことも、まやかしではない。


「最近、あの鳥が夢に出てくるようになりました……いつまで、いつまでと責め立てながら。その声が……ユキさんに重なって……居ても立っても居られずここに来たのです」

「他に、事故を知る人は?」

「もうこの世にはいないでしょう。あれはこの老いぼれがまだ6つの頃の話でした……それに、村人たちはユキさんの話をしたがりませんでしたから」


 刹那、夕焼けの中に暗い影が落ちた。大きな、大きな、この世ならざるものの影が。


「忍、弓出せ」

「えっ、なして?」

「ま、待ってください……!矢を射るなんて!」

「そもそもコレ練習用だから刺さらねえけど……」


慌てる草野と、困惑する忍を制し、御春は暗い影の差す中天を見上げた。


「こういうことは、“古来の作法”さ倣うもんだ。大丈夫、そのユキさんの魂が傷つくことはねえ。絶対に」


 御春の手に、ノートが広げられる。


「あんたも町の人間なら知ってるべ。俺たちは綴、怪異を見聞きして、物語を閉じる。殺すんでも、消すんでもねえ」

「……っ」

「絶対に、ユキさんの骨は見つかる。その道筋は、もう“出来てる”からや」

「よく分かんねえけど、かっこよく書けよ、御春!」


 忍は弓袋から弓を引き出し、練習用の矢をつがえた。その視界には、はっきりと悍ましい鳥の姿が移っている。

 太平記、広有射怪鳥事ひろありけちょうをいること─弓の名手であった真弓広有は、公卿の求めに応じ、都を脅かす怪鳥を鏑矢で射って退治したとされる。そして江戸時代の浮世絵師鳥山石燕がその逸話を拾い上げ、以津真天の名を与え、怪異は形を得た。

 猫のような目が輝き、その歪な人面を見据える。鳥の顔は憎しみに歪みながらも、その目は草野を映してはいない。


─ああ、これならやれる。


 これは化生のものだと思った。少なくとも、ユキという幼い娘の心を持ってはいない。もしこれが人であるならば、己の死を悼み、老体を引きずって来た者に対して何かを思うはずだ。それが憎しみか、喜びかは分からないが。


「いつまで、いつまで、いつまで……」

「いつまでぇ?んなの、今すぐや!」


 威勢よく叫んだ途端、ひゅっと軽い音を立てて矢が飛んだ。それは怪鳥の眉間へと吸い込まれ、そして─


「ああ、やっと……」


 幼い少女のような声がしたかと思うと、からん、と矢が落ちた。頭上を覆っていた影は跡形もなく、夕日が朽ちた村を染めている。


「……あ」


 草野が地面を這うように進んだ。その痩せた指が、必死に土を掻く。泥濘の中に、白く丸みを帯びたものが見えて、忍はその場にへたり込んだ。


「……お前の力ってけっこうエグいな」

「何がや」

「だって書いたらその通りになんだべ?」

「怪異の起源が明確でねえと、こんなに綺麗に閉じらんねえよ。それに、お前の腕がクソだったら駄目だった」

「はっ、現代の那須与一って書いとけ」


 忍は、弓の腕前まで操られたわけではないと知り、ほっと息をつく。しかし逆に言えば、忍の存在や国安ユキの生前の様子など、その場に「物語」を生み出す材料さえあれば、ある程度現実を動かすことが出来る─という事実に冷や汗をかいた。


【怪鳥を射ると、それが落ちた場所からは、行方知れずとなっていた娘の骨が見つかった】


 そう御春が土壇場で綴った通りに、怪異が終わったように。


「……しかし、子どもをハブにするとか、さすが陰気な田舎って感じあるな」

「お前都会の中学でいじめられてたっつってたべや」

「せずねっちゃな、忘れろ」


 忍はふと、町に来るまでの過去を思った。全てが遠い昔のことのようで、酷く色褪せ、擦り切れた記憶としてしか残っていない。しかし、町に来てからのことは、鮮やかに、美しく、心に焼き付いている。まるでこの村の光景のように。

 忍の脳は、明らかに異様なその現象を、不可思議なほどすんなりと受け入れている。

 

 きっと、この町に馴染んだ魂は、外の世界では生きてはいけないのだろう。草野が70年間故郷を忘れられず、遂には戻って来たように。

 そしてこの異様な世界に溶け込めなかったものは、永遠にそうなのだろう。ユキという少女が、死してなお村人からも気に留められなかったように。ユキは、この悍ましい場所には居てはいけなかった。そうせざるを得ない時代によって、命を失った。


「あの世とこの世の狭間か……」


 そこに暮らす者たちは、果たして真に生きていると言えるのだろうか。忍は一瞬掌に目を落としかけ、やがて頭を振った。


「草野さん」


 骨を抱えて泣きじゃくる老人の背を撫でてやる。その背中には、生きている熱があった。そして腕に収まった小さな骨には、生きていた記憶が抱かれている。


「……すまねなあ、ユキちゃん……いつまでも、いつまでも……待たせてしまって……」

「もう、待ってませんよ。あなたは迎えに来たんだから」


 ふたりの背中を見つめていた御春の眼前に、ふとホタルのような光が踊る。視界の端にほんの一瞬、汚れのない白いブラウスを着た少女が走っていく様が見えたような気がした。


「……どんどはれ」


 御春は小さく呟き、ノートに結び言葉を綴った。










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