忘れ難き場所(前)


私が生まれた村はこの世とあの世のあわひに在ると言い伝えられておりました。事実そうだったのでしょう─時折、彼岸の者が此方に顔を覗かせたり、此岸の者が生きながら彼岸に近付いてしまう。そのような土地で御座いました。

都会の方ならば一笑に伏してしまう与太話のようなもので御座いましょうが、我々にとってはお天道様が東からのぼって西に沈むことと変わらぬ、疑いようのない事実であったのです。

彼処はうつくしい村でした。水も、空気も、木々も、人々の心も、この世のものとは思えぬほどに澄み切っておりました。そして、日がのぼるのも、川が流れるのも、他所よりもずっと遅いように感じられました。それに気が付いたのは、15歳になって仙台へ出稼ぎに出てからのことで御座います。

村の外は、瞬きの間に人々が行き交い、太陽が登り沈み、月日が流れ行く、息をつく暇もない場所でした。そして、老いも若きも手を合わせ祈る神、夜道で人を化かす狐、誰そ彼時にさ迷う魍魎たち、村では隣人だったそれらが、外界では迷信の中に封じ込められていたのです。外界の全てが私にとっては言葉を失うほど異様なものに思えました。

しかし、それがこの世の常であり、あの村が異質だったのでしょう。仕事柄、仙台、会津、金沢、横浜とあちこちの都市を転々としましたが、どの街も村とは何もかもが違っておりました。初めは遅刻をしたり、仕事の締切りに間に合わなかったり、村独特の訛りが上手く伝わらなかったりと、ままならぬ日々で御座いましたが、10年、20年と経つうちに、私もすっかり彼岸の匂いのない世界に溶け込んでおりました。

しかしふとした瞬間に思い出すのです。彼岸と此岸が入り混じる、あの悍ましくもうつくしい

場所のことを。


『遊ぼう』


“あの子”の声を、そして、私を責め立てるなき声を。




【昔、あったずもな……】



土曜日の午後、弥沼町・馬曳地区うまひきちく

弥沼の中で最も人口が少なく、その面積の殆どを畑と山が覆う集落の中、御春はバイクを走らせていた。足の悪いひとり暮らしの老人宅への配達を終え、町の中心にある商店街への帰路についているところだった。

最も近い公立校まで20キロ近く離れているという便の悪さゆえ、親や教師に勧められるまま仕方が無しに取得した免許だったが、風を切って道路を走る感覚は心地良い。配達にも便利なため、今ではバイクに乗らない日はなかった。

人気のない田んぼ道を走ること数分、一台の青い自転車が、向かいからやって来る。運転しているのは半袖のYシャツの上から薄手の黒いパーカーを着た小柄な少年だ。彼は猫のような目を御春に向けると、その手を軽く上げて自転車を止めた。


「よお、配達?」 


古い弓袋を担ぐ彼の名前は桃瀬忍ももせしのぶ。綴商店の近くにある個人塾の孫息子だ。5年前に東京から祖父母のいる弥沼に引っ越してきた彼には、親がどちらも親権を放棄しただとか、借金の末の夜逃げで置いていかれただとか、色々な噂が付きまとっているが、本人はいたって社交的で陽気な性格である。


「んだ。そっちは流鏑馬か?」

「そ、自主練な」


彼は祖父母の訛りが移った発音でそう話し、弓袋を叩く。彼は流鏑馬の騎手を務めており、神事では町一番の腕を存分に発揮していた。


「わざわざチャリでか」

「長物背負ってバイク乗っとせずね(うるさい)んだよ、じいちゃんが。転んで刺さったらどうすんのや〜って。そんなん馬乗ってるときも一緒だっちゃ」

「へえ、まあ俺帰っから」

「待て待て、お前もオレに合わせて帰れ。颯爽と行かれっとムカつくから」


厄介なものに絡まれたなと、御春はため息をつく。忍は弓の腕も町一番だが、そのお喋りの長さもまた、町で随一だった。


「そういや聞いたか?うちのクラスで財布盗まれたらしくてさ、小依さよりの奴がコックリさんで犯人見つけるって。お前も来る?」

「行かね」

「どうせ呼ばれっど。お前がいるとコックリさん来やすいから」


世の常識からすれば異様な、しかしこの町では何気ない雑談をしながらノロノロとバイクを走らせていると、忍がふと山の方に目をやった。


「なぁ、あそこ何か居ね?」

「山のモンはあんまじろじろ見んな」

「いや、怪異とかじゃなくてさ、ほら」


忍の指さした先─山道に続く場所に、杖をついた人の姿が見えた。黒のジャケットとスラックスを纏い、ハットを被ったその姿は、明らかに町の住人とは雰囲気が異なっている。


「観光でねの」

「杖突いたじいさんひとりで山の中に?自殺志願とかじゃね?大体、あそこって“カミゴウ”さ上がる道だべ、観光すっとこなんてねえよ」

「まあ、んだな」


御春はぼんやりとそう答えた。その間にも、忍は自転車の向きを老人の方へと変える。


「……行くのわ?」

「これで死んでたら目覚め悪いべや」

「本音は?」

「廃村へ続く山道に向かう謎の老人!気になる!」


言うが早いか、好奇心を抑えきれないらしい忍はあっという間に老人のもとに自転車を漕いでいった。仕方なく、御春も溜息をつきながらその後を追いかける。


「すみませーん!」


自転車から飛び降りながら、忍が声を張り上げる。すると山道を数メートル上がっていた老人は、ぎょっとした様子で振り返った。


「そこ、整備されてないので危ないですよ。特に名所もないですし」


無理のない標準語は、さすが東京生まれだと思わせるものだったが、少し気取っているのが鼻についた。


「……ああ、いえ、観光に来たわけではなくて……なんと言いますか、里帰りです」


老人は足を止め、丁寧な口調で答える。


「里帰り?」

「はい。70数年前まで、この上の神郷かみごうという集落に暮らしていたのです」

「……神郷は、随分前に廃村になりましたよ。だよな?」


話を振られ、御春は山道の脇にバイクを停めながら頷いた。

旧神郷集落。かつて馬曳地区にあった小さな集落だが、30年ほど前に土砂災害が起きて井戸水が汚れてしまい、居住していた10世帯あまりの住人たちは皆麓へと降りてきたはずだ。

その経緯を話すと、老人は暫く呆然とした様子で山道を見上げた。


「そうですか……廃村に……」

「失礼ですが、お名前は?ご親族はこの地区に住んでいらっしゃると思うので、よければご案内しますよ」


テレビを見ない御春にとって、ふたりの標準語でのやり取りは非常に聞き慣れないものだった。確かに日本語で、意味もはっきり理解できるというのに、同時にどこか遠い国の言語のようにも感じる。何となく口を挟む機会を失って傍観している間にも会話は続いていった。


「名前は、草野……草野一之丞くさのいちのじょうと申します」

「草野さんですね、オレは桃瀬忍と言います。こっちの無愛想なのが綴御春」


綴の名を聞いた途端、老人─草野は目を見開いた。この町に住んでいたならば、綴のことを知らないはずはない。


「そうですか……綴さんの。桃瀬さんというのは……確か分校の教員にそのようなお名前の方がいらっしゃったような」

「多分曽祖父ですね。うちは4代前から教員やってるんで」

「……懐かしいですね。この町を出て随分経ちますが、此処は随分と昔の面影を残している」


草野は、故郷が廃村になったと聞いてもなお、その視線を山の上から逸らすことはなかった。

廃村の事実を知らなかったということは、連絡を取る身内もいないのだろう。そんな彼がなぜ、70年以上の時を越えて町へ戻ってきたのか。


「草野って言えば、オレそこの若いのと知り合いですよ。一緒に流鏑馬やってるんです。家にご案内しましょうか?」

「……お気持ちは嬉しいのですが、私は親族に会いに来たわけではないので」

「じゃあ、」 


なんのために?そう尋ねようとした忍の言葉はぶつりと遮られた。

3人の頭上を覆った黒く大きな影と、そして─


「いつまで」


焼けた喉から絞り出したように掠れ、しわがれた女の声に。


「いつまで」

「いつまで」

「いつまで」

「いつまで」


刹那、草野の肩越し、山道の奥の薄闇の中に、御春はあるものを見た。

木々の隙間から僅かに覗くそれは、土に汚れた生白い、子どもの足だった。





『ねえ、ホタルってどのくらい光るの?』

『んなの……』


私はつい、意外と目立たないと言いかけた口を慌てて閉じました。見慣れた方ならご存知でしょうが、ホタルの光というのはとても儚く、恐らく“彼女”が思っているような、星のように輝くうつくしさとは遠い存在です。しかし、ホタルを見たことのない少女の幻想を壊したくはありませんでした。そして私は、ホタルのあの淡い輝きを愛していたのです。


『夏んなったら、川さ連れてってやっからわ。ホタルなんてなんぼでも飛んでっど』

『本当?やったあ』


彼女は、生え揃わない歯を見せて笑いました。あの村での生活の中で、彼女があのように笑ったのは、後にも先にもあれだけだったと記憶しております─
























 


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