逆さの帰り道(後)



「あ、どうもぉ〜〜〜〜〜、おォおばんです」


おばんです(こんばんは)と挨拶されたが、燎子は決して目を合わせず、口を開かず、ゆっくりと後退る。


「あのぉぉ、せ、せんえええええつですが、曲がりてぇんですよぉぉォお」

「……」

「ままマ曲がらせてけれねすかね〜〜〜」


知らねえよ勝手に首でも曲げてろ─と内心で悪態をつきつつ、燎子は道の端を抜けて再びつづら商店へと向かう。この町において、こういった手合いをいちいち相手にしていては、とても暮らしていくことは出来ないからだ。

彼女は店の入口に走り、引き戸に手をかけた。


「ハル」

「すみませ〜〜〜ん」


燎子は「外に出た」。夕焼けに照らされた駐車場と、ワゴン車。その奥から歩いてくる女の姿が目に飛び込んでくる。


「……あ?」


彼女は素早く背後を振り返った。たった今開けたガラス戸には「機電島敷」と彫り込まれている。店の中は酷く暗く、すし詰めになった家電の輪郭がぼんやりと見えるばかりだった。戸を開けようとしたが、鍵がかかっているのかガタガタと揺れるばかりで微動だにしない。

そして、再び視線を正面に向ける。見慣れた長屋を注視した瞬間に気づいた違和感に、息を呑んだ。

カラオケスナック、クリーニング屋、花屋、床屋─向かいの8軒長屋に並ぶ看板─その全ての文字が左右、あるいは上下、あるいはどちらも反転しているのだ。恐る恐る握りしめた袋を見た燎子は、それを地面に叩きつけたくなった。敷島電機の文字までも上下反転していた。


「……っ」


顔がひっくり返った女。間違いなく、あれがこの現象の原因だ。遠くに見えるつづら商店の看板が左横書きになっていることに気が付き、彼女は歯を食い縛る。


「ま曲がらせてェェえくださぁあいい」


女は先程と寸分違わぬ動きで車の横を歩いてくる。間延びした訳の分からない言葉と共に。

燎子は再び女の横を通り過ぎ、つづら商店の戸を開けて─


がらり


再び初めの位置へと戻された。


「すみませぇ〜〜〜〜〜ん」


がらり


「おォばんんんんです〜〜」


がらり


「曲がりたい」


ああ、曲がりたいのか。それは可哀想に。そう思ったところで、燎子は足を止めた。

走り、歩き、迂回し、商店街を抜け出そうとして、屋根に登ろうとして、ワゴン車の上へと飛び乗って、何度も何度も繰り返して、しかしふと気が付くとつづら商店の戸をくぐって、ここに戻ってきている。


「曲がらせてくださぁァああい」


女は再び突っ掛けを履いた足を地面に擦り、ワゴン車の影から現れる。

曲がりたい。ひっくり返り、張り付いた微笑みから響く意味不明な懇願を、燎子は束の間理解しかけてしまった。そして今もなお、気付いてはいけない、結びついてはいけない糸が、頭の中で結ばれようとしている。


─まずい。


これは、怪異の言葉だ。怪異の願いだ。人が理解してはならないものだ。

心臓が痛いほどに高鳴り、冷や汗が額や背を伝う。いつの間にか、己の足元の影は女の影の真反対ではなく、直角を向いていた。

時計の針のように、影が動いている。女のそれと同じ向きに迫ろうとしている。焦燥が脳の思考を奪い、燎子は今すぐ女に掴みかかりたい衝動にかられた。


─なして、あたしはさ迷ってる。


─抜けるには何をすれば良い。


走っても、歩いても、迂回しても無駄だった。

焦る脳内に、ふと母の顔が浮かぶ。今日は肉じゃがよ、と言った背中に、「芋はおかずになんねわ」とぼやいたことを、酷く後悔した。


─肉じゃが食いてえ。


「曲がりたぃぇえええんです〜〜〜」


女がふらふらと歩く。その声は、笑顔に反して酷く悲痛なものだった。


─あ、そうか。


燎子は女が何を望んでいるのか理解して、そして─



「んで、結局なにしたのわ?」


ヒューズの交換を終えた燎子は、つづら商店の土間と廊下を繋ぐ段差に座り込んでいた。カウンターでは、御春が万年筆を走らせる。


「この店さ入るとき、やることなすこと全部反対にした。戸開ける手も、袋持つ手も、踏み出す足も。つか、それまできっちり同じくしてたってこともなかなか気付かねかったけど」

「まあ、利き手だの癖だのは無意識だからな」


或いは、同じ行動を取るように誘導されていたのかもしれない。繰り返し、繰り返し、少しずつ怪異に近付いていくように。


「つか、逆さごとなんて基本だべ。なしてそんな苦労したんだ」

「あたしは、お前と違って年中怪異さ遭ってるわけじゃねえから」


此岸と彼岸は正反対に出来ている。此方は生が存在する世界、白色、昼間、表。対して彼方(あちら)側は死、存在なき者、黒色、夜、裏。例えば葬儀の際はあらゆることを日常の手順とは逆に行う。これを逆さごとと呼ぶ。死者を此岸から、すべての理が真逆となる彼岸に送るための儀式だ。死に装束の襟は左前、帯は縦結び、葬式ではよく見る光景だろう。 

逆に、葬式の作法を日常で行うのは縁起が悪いと言われる。箸渡し、逆さ枕など─あれは彼方あちら側のものが、此方こちらに近付いてくるのを避ける自衛手段だ。

恐らく燎子は、その狭間に足を踏み入れたのだろう。そして少しずつ、少しずつ、彼方側にひっくり返ろうとしていた。


「あの女、曲がりてえ〜つってたけど、なんだったんだべね」

「多分、お前と同じだべな」

「あたしと?」


さらさら、さらさらと、滑らかに文字は綴られていく。


「迷って、帰ろうとして、帰れねくて、自分のことを忘れて、誰からも忘れられた。言葉も忘れかけてる。んでも、帰ろうと─いや、何かをしてえってことだけ覚えてる」

「“曲がりたい”、ね」


彼岸の言葉と、此岸の言葉は違う。それゆえに、それを正しく聞き取るために巫女や霊媒師が古来から重宝されたのだ。

女が放つ言葉は支離滅裂だった。しかしその中には、かつて望んだはずの何かが残されていた。

通り雨に遭うように、この町は容易く狭間に落ちていく。あの女も、元は名と命のある何かだったのかもしれない。しかしそれを突き止めることは不可能だ。よすがを持つものは、怪異にはなり得ない。狭間を惑ううち、心を失い、縁を失い、帰る道を失ったものが、此方の道理を外れたものに成り果てる。


「後ろへ曲がって反対さ歩けって言えば、あれもどっかさ行けんのかね」


燎子が呟くと、御春は素早く何かを書きつけた。

 

「もし次会ったら、そう言ってやれば?」

「は?次って?」


彼女は跳ねるように立ち上がり、ノートを引ったくった。そこに書かれた文は、燎子が無人の商店街を脱出したところで終わっている。


「これ事実書いてるだけだっちゃ」

「んだな」

「お祓いで消し飛んだとか書いて」

「んなこと出来たら、この町はとっくに平和んなってるわ」


御春はノートを取り返し、ペンをとる。


「怪異が幕を閉じるには、相応の物語が要る。お前も知ってるべ」


1ページで閉じることのできる物語は、そう多くはない。語り継ぎ、語り継ぎ、いつか新たな物語となり得るものが生まれるまで、綴家は怪異を綴らねばならない。かれこれ数百年に渡って生じている事象も、両手の数以上はあるだろう。


この商店街の駐車場には、逆さの顔でさ迷う女がいる。今このときも、これからも。いつか訪れる終わりの日まで。


【娘は気が付けば、馴染みの商店の入口に飛び込んでいた。己の考えが正しかったのだと彼女は胸を撫で下ろし、そしてこのことを“つづら”へと語った】



結び言葉無く、ページは閉じる。あれに声をかけたものはどうなるのか、触れたら何が起きるのか、反対側へ歩けば良いと告げれば良いのか、誰も、何も知らない。

いつかそれが知られたとき、あれにまつわるひとつの物語が終着を迎えたとき、さ迷う女は向かうべき道を見つけるのだろう。







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