逆さの帰り道(前)
【昔、あったずもな……】
弥沼町─標高800メートルの盆地にひっそりと生きるこの地の起源を知る者はいない。
武家の落人村、罪人の流刑地、年貢未進の末に逃亡した農民たちの隠れ里、数多飛び交う推論のどれが真実なのか、どれも誤りなのか、誰も知らない。
一つ言えるのは、この町は1000年の昔に山を開いて作られ、以来殆ど外界と交わることなく存在し続けているということだけだ。
「
「はいはい」
弥沼商店街、長屋の一角に建つ「敷島電機」。その引き戸を開けて出てきたのは、セーラー服姿の学生だ。並の男を見下ろすような長身とすらりと伸びた手足、鋭い吊り目が、見る者に洗練された印象を与える。彼女は
「あ、待って燎子、ついでに回覧板お願い」
母がバタバタと奥に戻っていったので、燎子も一度店内に入り直す。気温が上がってきた今日この頃、西日に晒されていると汗をかいて仕方がないからだ。
「あのさぁ、いい加減ブレーカーさ変えろって言っとくよわ。9人家族でヒューズなんていい加減無理だべ」
燎子は客用のソファーにふんぞり返り、交換用のヒューズが入った袋を叩く。
「んでも、営業してるって思われねかねえ……」
「思わねて。母ちゃんは考え過ぎ」
回覧板を受け取り、燎子は立ち上がる。向かう先は長屋に囲まれた一軒家─つづら商店だ。町で一番の歴史を持つ建物は、未だに風呂は薪、電気系統はヒューズとすっかり時代に取り残されている。ようやく黒電話が壊れて新しい固定電話を注文して来たのは、つい3ヶ月前のことだ。
「いってらっしゃい、綴さんたちによろしくね」
「あーい」
学校から帰ってくるなり押し付けられた使いにうんざりしながら、燎子は再び外に出る。後ろ手に戸を締めたところで、スピーカーから音楽が鳴り響く。
17時を知らせるそれは、ドボルザークの「新世界より」。古びたトタン屋根の長屋と、荘厳な音楽と、ノイズ混じりのスピーカー音声は酷くアンバランスだ。
道路に踏み出すと、落ちていく夕日が燎子の影を何倍にも引き伸ばす。汗ばむ首をかきながら、彼女はつづら商店へと爪先を向けた。
─あ、国語の教科書返さねと
綴商店の一人息子である御春は、燎子と同じ高校に在籍している。山深いこの町で生まれた子どもたちに、進路の選択肢は殆ど無いと言っていい。その高校もバイクや車でなければ通えない距離ではあるが。
そして燎子は、家に忘れてしまった教科書を御春に借りたばかりだった。一度家を振り返るが、やはり明日の朝で良いかと思い立ち、視線を前に戻す。
「……?」
放送はいつの間にか終わっていた。夕日に染められた商店街には人っ子一人おらず、それどころか物音ひとつ聞こえてこない。
17時ピッタリにシャッターを下ろす雑貨屋も、普段は日が暮れる頃まで井戸端会議で盛り上がっている八百屋も、クリーニング屋の前に繋がれた犬も、何もいない。なんの音もない。耳鳴りがするほどの静寂と孤独が商店街を覆っていた。
燎子はごくりと息を呑み、「敷島電機」と印字された袋を握りしめる。
この町は、常にこの世ならざるものの気配と隣り合っている。きっと、誰も知らない町の歴史の始まりからずっと。橋の下、山の入り口、夕刻、あらゆる狭間から「怪異」は町へと染み出してくるのだ。
彼女は、早く目的を果たそうと、ふたつの8軒長屋に挟まれた店を目指す。4代ほど遡って親戚同士のつづら商店は、燎子にとってはもうひとつの家のようなものだ。早くあそこに飛び込んで安心したかった。
「あァあ、の〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
しかしその足は、数歩で止まることになる。
「す、スすすす素す鬆みみみません〜〜〜〜」
嫌に間延びした女の声が、間近で聞こえた。
「ま、まぁあま、ま、し、ししシシシ失礼します〜〜〜」
次いで、ずるりと何かを引きずるような音。駐車場に停まる白いワゴン車の裏から、長い影が伸びていく。燎子の影とは逆向き、沈みゆく太陽に向けて。
車は、よく商店街を訪れる町民のものだった。バックミラーには、有名なアニメキャラクターのストラップがぶら下がっている。愛らしいデザインのその奥、反対側の窓ガラス越しにそれは見えた。
「ああァぁぁいいいいいいいィイイイいい」
後ろで1つに縛った黒髪、薄手のポロシャツに、茶色いズボン、青い突っ掛け。それだけを見れば、どこもおかしいところのない普通の主婦のようだ。しかしその顔は─
「あ、あ、あぁ〜〜〜〜〜す、す……すすすッッススすみません」
全てのパーツが上下逆さになっていた。
鼻はひっくり返り、額に口が、顎に目が、その下に眉毛がついている。悪ふざけで作った福笑いのような顔はしかし、非常に自然的な微笑みを浮かべていた。
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