ただ、そこに在るもの
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莉緒がカウンターの前に立つと、御春と名乗った彼は和綴じの帳面にそんな一文を書きつけた。
「おれの父方の先祖は元々岩手の出で、何百年も前にここさ婿入りしたんです。これはその故郷の言葉で、“昔々、こういうことがありました”っつう意味らしいす」
高校生になったばかりだと聞いたが、年の割りには背が高く、切れ長の目の奥にある墨のように真っ黒な瞳は、夜のように静かだった。子どもには見えないが、決して老け込んでいる訳でもない、得も言われぬ雰囲気を纏わせている。
「んで、何があったのすか?」
古びた万年筆がくるりと回る。
あの「現象」が起きて、夫と義母に相談したとき、ふたりは顔を見合わせたあと、「綴の若旦那さ話すべし」と言った。
莉緒はこの土地のことが分からない。看護師、そして町医者の嫁という立場もあって人々は彼女を好意的に受け入れているが、彼らの訛りも、時折垣間見る奇妙な振る舞いや風習じみた仕草も、彼女にとっては酷く異質なものに映るのだ。
「……あの、信じてもらえるかは分からないんですが」
前置きに返事はなかった。彼はじっと万年筆を構え、言葉が始まるのを待っている。その姿は会議中の書記係のようだ。
莉緒は財布を取り出し、そこから数枚の硬貨をカウンターに並べた。それはいずれも、茶色い焦げのような汚れがこびりついている。
すると御春は、僅かに身を乗り出してじっとそれを眺めたあと、「最近じゃ珍しいもんだな」と呟いた。それは初めてこれが手元にやってきたとき、夫が呟いていたのと同じ台詞だった。
「これはどこで?」
促され、莉緒は事の経緯を説明し始めた。
莉緒は、義父と夫の
診察時間が終了し、片付けを済ませた診療所に赤い西日が差し込む。既に事務員も帰宅した待合室は、日中の喧騒が嘘のような沈黙に包まれている。
「雨降っから、わらわら帰ってしまわねばね」
「わらわら?」
「急いでってごと」
冷たく湿気た風と土の匂いが、開け放した玄関から吹き込んでくる。ここの雨の気配は、アスファルトの街よりも身近で明瞭だ。
「何か可愛いね。わらわらって」
「んだがや(そうかな)? 」
何気ない、ありふれた会話。そのとき、ソファの足元に黒く丸いものが落ちていることに気が付いた。後退りかけたが、「都会の人は虫が苦手だから」と昨日患者に言われたことを思い出し、意を決して注視する。
すぐにその正体は分かった。真っ黒に汚れた10円玉だ。手にとってみれば、元の色が分からないほどに焼け焦げているのことが分かる。微かに判読できる製造年は「昭和51年」。
「何したのわ?」
「お金が落ちてたの、ほら」
掌に乗せたそれを覗き込んだ覚は、希少な虫でも見るようにそれをじっと観察した。
「……あれ、珍しいね」
「そう?」
「大事なもんだから、こさ入れとこっか」
小銭が落ちていることも、古い10円玉が汚れていることも、特に珍しいとは思えない。しかし彼はそれをそっと手に取ると、ペーパータオルに包んで落とし物入れに収めた。
たかが10円─と口にしようとして、莉緒はその言葉を飲み込む。素朴で気取らない彼にとって、患者の落とし物に貴賤や優劣はないのだろう。そう納得し、「明日患者さんにも聞いてみるね」と返した。
何気ない日常の1ページ。その出来事は過ぎ行く日々の中に埋もれていくはずだった。しかし、そうはならなかった。
「それから、お釣りや、落とし物、あと気が付いたら鞄に入っていたり、同じように焦げたお金がふとしたときに手元にやってくるんです」
莉緒は青ざめた顔で声を震わせた。
ぽとりと落ちた墨のように、静かに、じわりと広がっていく異変、恐怖、それが決定的になったのは3週間ほど経った頃だった。
「覚、あんたの古い貯金箱、蔵から出てきたよわ」
診察を終え、診療所の隣に建つ邸宅に戻ると、義母がポスト型の貯金箱を抱えてふたりを出迎えた。
「貯金箱?」
「あんた500円玉貯めてたっちゃあ」
「ああ〜、懐かしごと。え、なんぼ入ってんの?」
「自分で数えらい」
貯金箱を受け取り中を覗いた覚は、目を輝かせて莉緒を振り返った。
「莉緒ちゃん、欲しいもん考えといてね」
「そんなに入ってるの?」
「口んとこまでぎっちり。今開けてみるよわ」
「座卓使うなら何か敷きらいね」
「はーい」
彼は居間の座卓の前にあぐらをかくと、その上に自らのハンカチを敷いた。そしてゴム製の蓋に指をかけ、力を込める。力任せに開けるのは不味い─そう忠告する間もなく、蓋は部屋の隅まで吹っ飛び、大量の500円玉が彼の膝や座卓にぶち撒けられた。
「うわっ」
「大丈夫?すごいね」
莉緒は長座布団に落ちた硬貨を10枚ほど拾い集め、それを広げられたハンカチの上に乗せようとした。そのときだった。
ちゃりん
指先から、溢れた小銭が溢れる。焦げた匂いが鼻を突く。それは焼けた100円玉だった。
「え」
ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん。
次から次へと、手の隙間から小銭が落ち、テーブルを打って跳ねる。黒く汚れたそれらがハンカチの上に降り注ぐたび、金属が焼ける異臭は耐え難いものとなっていった。
「ひっ……」
ちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりん─
「いやぁ!」
掌の小銭を放り出し、莉緒は後退る。
あまりに奇妙な光景に覚も驚愕すると思いきや、彼はぽかんとした表情で首を傾げるだけだった。
「虫でも居だった?」
彼が拾い上げたのは、汚れ一つない500円玉だった。
そして耐えきれず全てを打ち明け、ここを紹介されたのが昨日の話だ。
「これは、何なんですか?夫たちは何も答えてくれなくて……」
「ま、先に色々話されっと面倒なこともあんで、口止めしてるんです」
御春はカウンターの小銭に手を伸ばす。製造年月日はいずれも、昭和40年代後半〜50年代前半の、古い硬貨ばかりだ。
「これは、ご遺体と一緒に焼かれたもんです」
思わぬ言葉に、ひゅっと莉緒は息を呑んだ。
「人や家によって、“渡し賃“とか“小遣い“とか言われてるもんすな。人が亡くなったとき、これをご遺体と一緒に御棺さ収めっことで、金をあの世に持ってけるようにする。札や1円玉は火に弱えから、10円玉とか100円玉が多いすね」
三途の川の渡し賃、あるいは死後の路銀、あるいは細やかな小遣い。様々な願いを込めて、棺の中に硬貨を収める古い風習だ。
主に山間の田舎で細々と行われてきたが、本来貨幣の損傷は刑法に抵触する。黙認と共に続いた風習は時代を経るごとに消えていった。覚が焼けた小銭を見て「珍しい」と言ったのも、そういった事情を知るが故だろう。
「……じゃあ、古いお金が焼けてたりするのはこの辺では普通なんですか?」
「いや、家の外には出ねえ金の筈っす」
渡し賃の行く末は家によって異なる。
骨壷に収めたり、財布に入れると幸運のお守りになると言い伝わっていたり、箱に入れて家に保管したり……綴家では昭和までに焼かれた渡し賃が、故人の名前入りの箱に収められ保管されている。
「んでも例えば、財布に入れて間違って使っちまったり……何も知らね家族が実家の形見分けしてっときに見つけて持って帰ったり……そもそも何も気にしねで普通に使うやつが居たり、色んな理由で、外さ出回ることもある」
莉緒の話によれば、硬貨の製造年は全て昭和50年代以前のもの─つまりそれは、この渡し賃を受け取った故人が、それ以前に亡くなったことを表している。
「多分、あんたが見つけた金は全部、おんなじ人の渡し賃だと思います」
長年保管されていたはずのそれが、ほんの最近、何かのきっかけで世に流れていった。それ自体は決して有り得ない話ではない。そこまで説明すると、かえって莉緒の困惑は強くなった。自分の前にそれが現れた理由が分からなかったからだ。
「若奥さん、風邪は……なして引くと思いますか?」
「え?……ウイルスや細菌に感染して、上気道が急性の炎症を起こすから、です」
不意を突かれた質問だったが、染み付いた知識は彼女の口を滑らかに動かした。
「したっけ、そのウイルスとか細菌ってのはどっから来んのすか?」
「空気中に漂ってたり、人から感染することもあります」
「……それと同じ」
御春はパイプ椅子の背もたれによりかかり、10円玉をそっと撫でた。
「この町では、理屈では説明が出来ね現象─“怪異”ってのがよく起こります。んでもそれはそういうもんで、誰も理由を探そうとはしね。風邪引いたとき、どっからもらってきたかなんていちいち深く考えねように」
この小銭は、誰かと共に焼かれその者の渡し賃となった。そしてつい最近、何かの理由で町の中に出回り、怪異となって莉緒の周囲に現れ始めた。そこに明確な理屈はない。筋の通った動機も、胸を打つ物語も、何もない。
「下手に怯えたり、憎んだり、同情するもんではねえ。これは本来されるべき供養をされねで、本来流れねはずのところに行き着いて、怪異さなった。あんたの周りさ現れたのは偶然─まあ、拾ってもらえたから付き纏ってたくれえのことだと思います」
ただ、そこに生まれ、存在し、流れ、根差し、いつかは消え行く。夏の雨のように、赤く燃える夕日のように、壁を這う家守のように、山の中でひっそりと息をするこの町のように。
「……それじゃあ、どうしようもないんですか?」
「いいや」
御春は再びペンを取った。使い慣れた筆ペンによって綴られた文字は、1ページをようやく埋め尽くそうとしている。
「怪異さ出会って困った人は、おれらんとこさ来ます。怪異を、閉じるために」
「……閉じる?」
「幕を閉じる、ってことです。話には、終わりがあるもんですから。とりあえず藤ヶ崎さん、あんたこれをどうしたいとか、何かありますか?」
10円玉を指し示し放たれた抽象的な問いに、莉緒は目を伏せて考え込む。そう言われても、というのが正直な感想だ。彼女は未だ、怪異の存在すら満足に飲み込めていない。
しかしこの小銭にまつわる物語を聞いた瞬間、彼女の胸にはひとつの後悔が生まれていた。
「自治会館の募金箱って、まだ回収されてませんか?」
「……上半期終わるまではそのままだと思いますけど?」
突拍子もない問いに、御春は初めて表情を変えた。
「私、小銭をいくつかそこに入れてしまったんです。手元に置いておきたくなくて……でも、出来ることなら、集められるだけ集めて……供養して差し上げたいです。亡くなった方のための、大切なお金なんですよね?」
御春の目が丸く開かれる。
彼は、怪異に意味はないと言った。しかし莉緒は、そうは思えなかった。死者の棺に収められ、大切に保管されていたはずの“渡し賃”。それが見捨てられるように世に流れたことこそ、この怪異の正体であり、意味であり、理由なのだろう。
「それで、大丈夫でしょうか?」
「……“今回”は問題ねっす。あんま厄介なもんでもねえから」
御春は再びペンをとり、滑らかに何かを書きつけた。
「このお金、誰のものかは分からないんですか?」
「詮索しね方が身のためっすよ。今回のコレは、厄介なもんではね。でも、下手に同情したり、怯えすぎたりすっと厄介な怪異もあるんで」
雨が、時には洗濯物を湿らせ、時には家を押し流すように、怪異が人に与える影響もまた、決して一定ではない。彼はそう語った。
「この金はもう、誰のもんでも無え。
話しながら、御春の手は止まらない。
「本当のところは誰も知らね、知るべきでもねえ……だからこそ、新たな“物語”を与えてやれば、これは“そういう話”として幕を閉じるんす」
さらさらと、さらさらと、流れるように文が続いていく。
己を忘れ、人に忘れ去られ、ただ雨雲のように流れるだけになったもの。それが怪異と言うならば、とても悲しい存在だと莉緒は思った。文字を綴られるごとに、彼女の中から恐ろしさは消えていった。
「……募金箱は、おれから自治会長さ事情話しとくんで、明日の朝にでも小銭取りさ行ってけさい。神社の方は、藤ヶ崎の
「氏子、総代?」
「……と」
「都会の人には分からないかもねっていうのは、止めてくださいね?」
「神社の氏子の代表ってこと」
言葉を先取りされ、御春は少し不満げな声で言った。不安が軽くなった莉緒は、店に入ってきたときは別人のように溌剌としていた。
「そこさ小銭を渡して、お祓いしてもらって、この話は閉じる。こういう町だから、そのうちまた変なことが起きっと思うけど」
「そうしたら、ここに来れば良いんですか?」
「んだ(そう)」
買い物をしたあとのような、簡単な返事だった。恐らく日々の買い物と同じように、彼女は何度もここを訪れるのだろう。
「ハル坊〜、飯だど〜店閉めら〜い!」
廊下の奥から、チヤの声が響いてくる。いつの間にか、太陽は殆ど山の奥に沈みかけていた。
「お邪魔してすみません、このお礼はどうすれば?」
「初回無料。まあ次があんのか分からねけど」
「……ありますよ」
湿った土の匂いが一層店を満たす。間もなく雨が降る前兆だ。それが分かる程度には、莉緒はこの町に溶け込みつつあった。そしてこの奇妙な現象もいつしか、日常に溶けていくのだろう。莉緒が町にいる限り。
「結婚したとき、ここにもご挨拶に来ましたから。“末永くよろしくお願いします”って」
【女は、世に流れた渡し賃を哀れに思い、翌日になって近くの神社へとそれらを預けた。
以降、女を悩ませていた怪異はパタリとその気配を消したという】
彼女は明日神社に行く。そうすれば、記された通りにこの物語は終わる。御春は再びペンを取った。
【どんどはれ(めでたしめでたし)】
結び言葉と共に、ノートは閉じられた。
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