Day29 名残
お前は信徒にならないのか、と養父であるエペに問われたことがあった。
「そうしないのですか」
と、ロンは返した。エペは当時の女神教会の大司教、つまりは最高位の存在だった。彼が望むのならばそうしてもいい。むしろ、自動的にそうなるのだろうと思っていた。
「信仰とは愛だ。愛は、命じて生じるものではない」
エペの、厳格かつ無機質な声で、「愛」という不確実な存在が語られることをどこかおかしく思った。
エペは
そんなエペが、愛を語った。ロンは長身のエペの虚ろな瞳に見下ろされながら、僅かながら狼狽えた。
「信徒を守ることが教会の役目。そして、信徒を繋ぐものが、信仰の精神。信仰の精神とは、愛。――我々の女神は、人間を救う為に世に現われ、また、人間を導く為の光を世に遺された」
エペはそう呟きながら、自身の目元を軽く撫でた。
夕暮れの廊下、中庭へとゆるやかに繋がる石柱の合間に立った二人の間には、薄闇が降りていた。その闇の中でさえ、エペの金色の瞳――神通力の眼は、黄金色の輝きを宿して、星のように光っている。
女神教会の裡に抱えられつつも、正式な入信の儀式を行なっていないロンでさえも、その眼のことは、綺麗だと思っていた。地上に落ちた星のように見えた。
「私は人間を愛している」
エペの言葉は、あくまで感情のないものだった。言葉を発するための口の他に、一切の動きがない。彼の表情筋は、おそらく凍り付いてしまっているのだろう。
それでも、その言葉は本物なのだろうと、ロンは感じた。……例え、エペが容赦なく市民の罪を追及し、犯罪者を容赦なく罰することで、強い嫌悪と反発の対象となっていたとしても。
それもまた、彼の愛だったのだろう。罪には罰が与えられるということが完全に刷り込まれれば、秩序の世界が誕生する。その世界でなら、人々は平和に、争うことも傷つけ合うこともなく生きられる筈だ、と。
「だからこそ、私の行動に、迷いはない」
……無垢で悲しい願いだ。
「だが――お前に、愛せ、と命じることは出来ない。命じたことで生じるそれは愛ではない。それに……」
と、続けた言葉は、そのまま途切れた。エペは言葉を続ける代わりに、軽く眼を細め、俯いた。
「……ロン」
「はい」
「魔術の修練に当てる時間がまだ僅かにある。望むならば稽古をつける」
「お願いします」
エペは頷き、すぐに後ろを向いて歩き出した。その動作といい切り替えの速さといい、やはり機械じみていた。ロンはその背後に続きながらも、平均的な市民感情よりはずっと、彼に好感を抱いていた。まだロンが裏切りや死を知らず、飾り気のない忠誠心を持ち合わせていた頃の話だ。
ロンは内心では、エペが何を続けて伝えようとしていたのかを、何となくわかっていた。
『それに……お前には既に、愛するものがあるのだろう』
そう。女神への愛を割く余裕などない程に、強く、重く、確約された愛。
ロンは、妹を愛していた。
家族という枠組みをとうに超えたものとして、愛していた。
だから彼女を救いたかった。生け贄に捧げられようとしていた彼女を助け出した。例えそれにより生まれ故郷が、その裏切りに怒った海の女王に沈められても。
だから彼女が欲しかった。旧くからの契約に縛られ、生まれついた時から与えられた役割と小さな狭い島を捨てて、ようやく妹と二人きりになれたと思った。
だから彼女を見守り続けた。広い大地に降り立って、柔らかな花や草が生えた肥沃な土地に抱かれて彼女が育って、ようやく、もう少しで。
彼女と一つになれると、思っていたのに。
エペを謀殺し、その罪を自分に着せ、強い魔法の才を持つ妹を、女神の器として利用しようとした「女神教会」という一つの群体。
愛を謳う宗教でありながら、最愛の存在を奪った彼らを。
神通力の眼を次世代へ受け継ぐ為に、無謀で歪な構造を成すしかなかった行き止まりの彼らを。
……ああ、もう、理由なんてどうでもいい。
ただ憎かった。苦しくて痛くて悲しくて。そんな感情の名すら忘れる程に、魂が焼けて焼けて焼け爛れて。
――呪いそのものとなってしまった、ロンという男。
遙か未来、その恨みは晴らされた。大司教フレイズを騙して得た解放により、ロンは自由に動く体を得た。後は蓄え続けた魔力を爆発させるだけでよかった。
呪いの炎は、水を打とうが土を被せようが消えなかった。その源流であるロン自身の憎しみが消えない限り、魔法の火は弱まることはなくむしろ命を呑む度に強まっていった。灼熱の炎は街を焼き続け、それは何日も何ヶ月も続いた。
他国からも高位の魔術師が派遣され、結界で炎の勢いを弱めたり、押し戻したりすることで被害の拡大を防ごうとした。それでも一進一退の攻防に過ぎず、犠牲者の数は日に日に増えていった。
エペの時代と較べると、ずいぶん街並みは美しくなり、人口は増え、人々の間には法と良識が行き渡り、確かに平和で整った世界になっていた。そんな世界を全て焼いた。
女神教会という宗教が妹を奪ったのならば、それそのものが、この地上から消えればいい。それを愛し信じ求める者は、全て灰と化せばいい。
見ろ、事実、お前達が信奉する女神とやらは、この様な破壊の最中にさえ現われないではないか。
人が女神を愛そうが女神はお前達を愛してなどいないのだ。なんて虚しい奴らだ。
乾いた笑いが漏れた。その頃には既に炎の中心部では誰の声もせず、ただ太陽が沈み月が昇る連続を、炎の天蓋の隙間から見るだけだった。
――本家の一族は子を成せなくなり、分家の出身であるフレイズが死亡したことで、大司教一族は断絶し、神通力の眼を持つ者もいなくなった。だからこそ、ロンはこれでもう自身の敵対者は消えてなくなったと、そう思っていた。誰も自分を止めることは出来ない、と。
ロンに、誤算があったとすれば。
……それは、大司教一族にはもう一つ、歴史の影に隠された分家が存在していたということ。
突然女神の啓示を受け、その身に神通力の力を宿したのは、一人の少女だった。
歴代で唯一の、女性の大司教。彼女はその啓示を、ロンという炎の悪魔を倒す為と受け取った。それまで森深くにて、一人の司祭見習として修行を積んでいた彼女の体は、突如与えられた神の力によって一部が壊死し、両脚は動かなくなった。それでも、車椅子に乗って杖を携え、彼女は燃え上がる神都へと赴いた。
封印するのではなく、完全に滅ぼす為に。
「――まだ……続ける、気なのか」
生命を削り、双方が深い傷を負いながらも、遂にロンは撃ち落とされた。大司教は肩で息をしながらも、強い眼でロンを睨み付けていた。黄金色の光が涙のように瞳から溢れていた。
「いつまで……お前達は、いつまで、こんな茶番を……」
ロンの言葉が終わる前に、彼女の杖がロンの頭蓋を砕いた。既に赤黒く発光する炭にようになっていた体はボロボロと崩れ、灰と砂へと砕けていった。
彼女は、まだ生きている部下に即座にその全ての灰を回収するように命じた。彼女の側では、付き従っていた騎士や魔術師達の死体が累々と倒れていた。その中には、まだ大司教になるという運命を知らなかった彼女が、将来を誓った男もいた。
「いつまで……? いつまでも、だ」
残念だったな。と、大司教は車椅子の背に傷だらけの体を沈ませながら、呟いた。
「生きている限り、終わりなく。……我々が、お前のような存在から、人々を守ろうという意思を持ち続ける限り」
そして、胸を抑えて、小さく呻いた。
唇の隙間から漏れたその呻きは、黒炎が消えて久しく覗いた満天の星空へ消えていった。
◆
それは、なんて、救いの無い人生。
歪んだ愛、無差別な憎悪、裏切りの連鎖、悪夢のような殺戮。
人であることすらおこがましい。
ああ、だから。
だから、お前は龍なんだ。
◆
泡が弾ける音が体を包む。周囲に落ちる木片の位置から、水中に没してさほど時が経ったわけではないことがわかる。その割には、ずいぶん長い夢を見たような気がする。走馬灯のような。
この体でも死ぬのだろうか。と、ロンはぼんやりと思う。死に死を重ねてもそれでも死ねず、未だふざけた体に縛り付けられるように意識を保ってしまっている、こんな存在でも、ようやく死ぬことができるのだろうか。
……どうでも、いいか。
不思議と、苦しくはない。多少の寒さは感じるし、沈むごとに視界が暗くなっていくが、まあせいぜい退屈に苛まれるくらいだろう。
今度は、長く眠れると良いのだが。そう思いながら、目を瞑ろうとした。
その瞳が、湖面に飛び込む何かを見た。
「――アン?」
そう、思わず呟いた。その途端、口の中から泡がゴボリと溢れ出て、急に苦しみを感じ始めた。まるで、生きていることを思い出したかのように。
水の中で黒く揺れる髪が、近づいてくる。殆ど無意識に、腕をその方向へ伸ばした。
……いや、違う。アンではない。その揺れる黒い髪に、確かに彼女の名残を見たけれど。
固く瞑られた両目も、身を包む風の膜も、どれもアンのものではない。なのに。
(……なんで、そんな顔で)
フッ、と笑ってしまった。
必死に何かを呼びかけ、探している彼の方へ、どこか呆れたような笑みを向けたまま、ロンは意識を失った。
(続く……)
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