Day28 方眼

「そう構えなくていいさ。別に取って食おうってわけじゃない」

 レイニーの黒い髪の隙間から、白銀色の丸い二つの目玉が、燃えるように瞬いていた。発せられる黒炎の霊気は、チリチリと空気を焦がしていく。しかし、火花は周囲に立ち籠める霧に絡め取られていくようで力なく、威嚇にしても心許ない。

 サインはフゥンと鷹揚に頷いた。影になって表情は見えないが、その眼差しはロンを値踏みするようだった。楽しげですらある。

「あんた、火の者だろう。水気を嫌う筈だ。こんな小さな舟の上で暴れていいのかい。私もレイニーも平気だが」

 そうだ。レイニーはまた眠っているのか、緊張感のない奴め、とチラリとレイニーの方を振り向いた。静かに俯きながら眠っている……と思ったが、その様子はどこかおかしい。自然に眠るというよりも、意識が閉じたかのようだった。ロンが小さく「レイニー」と名を呼んでも、返事どころか、身動き一つしない。

 舟の動きは完全に止まっており、岸辺までどれだけの距離があるのかもわからないまま、三人は孤立していた。

「本当は、城館住まいのお方にこんなことはしたくないのだがね。まあ、一時のこと。許して下さるでしょう」

 ロンは、レイニーの肩からするりと降りて、サインの前に躍り出た。もはや隠れている意味はなかった。人間だった頃とはずいぶん変わってしまった、小さな両手両脚でレイニーの服の上にしがみ付きながら、サインを正面からジッと見据えた。

 例え魔力が不十分であったとしても、ある程度やり合うだけの経験は備えていた。ロンの視線は銀の針のようにサインを射貫いていたが、サインは全くどこ吹く風だった。彼はただ、しげしげとロンの有様を見下ろしている。その動きには一切の敵意や攻撃性を持たない代わりに、ただただねっとりとしていて、不愉快だった。

「ハハァ。あんた、ひどく呪われているね。人の魂の色を持つのに、人とはかけ離れた姿だ。私のようなフジツボの悪魔の方が、よほど人のカタチを取れている」

「…………」

「レイニーが人の魂をちょろまかしているのかと思ったが、どうやら違うな。こんな不純物まみれの、自我の強い魂を、月に吸い上げられる筈がない。どうやって此処に来たんだい、坊や? レイニーをうまく騙したのかい?」

「…………」

 ロンは何も答えない。答える気もない。サインが、フジツボに覆われた腕をロンの頭の上に伸ばしてきた時だけ、バチッと黒い火柱を上げた。サインは怯える風もなく、ケラケラと笑いながら「おお怖い怖い」とうそぶくばかりだった。

「罪のにおいがプンプンするなぁ、あんた。龍……小さいとはいえ、龍だ。悪と罪の化身だ。どれだけの劫罰を受ければこんな姿になる。あんた……」

 自分で自分が許せなくて、そんな風になっちまったのかい?

 その言葉が終わらないうちに、サインの眼前で黒い炎が弾けた。殆ど爆発したと云っていい。サインは跳躍してそれを避ける。ボロ布を羽織り背中の曲がった不格好な体にも関わらず、彼の動きは滑らかだった。黒炎に照らされて、その顔が一瞬見えた。黄色いぎょろりとした目玉が、ロンを嘲るように見下ろしていた。

「おいおい! 弁償しろよなぁ!!」

 哄笑と共にそう叫び、ガンッ、と燃え上がる舟を自ら湖へと蹴り飛ばした。たったそれだけで、既にボロボロだった舟は音を立てて折れた。時が止まったかのようだった湖面は泡立ち、舟と火とを呑み込んでいく。

 ロンはレイニーを起こし、飛べと命じようとした。レイニーもまた、突然の衝撃と音とに驚いて目を覚ました。

「ロンさっ……!!」

 咄嗟に、レイニーはロンを抱えようとした。しかしその腕がロンの体を掴む前に、サインに強く引っ張られた。レイニーが伸ばした指先の間を、ロンの小さな掌がすり抜けていく。

 レイニーの驚いた顔が、背後へ飛び去ろうとするサインと共に小さくなっていく。そしてロンの体は、舟と共に火と波の間に沈んでいった。



 ◆



 …………。

 ………………。

 静寂の世界だった。それまでの間、頭の中には些細ながら不快な疑問や、小さな驚きや呆れといった、緩やかな混乱があった。しかし、今はとても落ち着いている。平静といってもいい。

 ロンは幽かに目を開けた。そこには、紺碧の夜空と、白く光る星々があった。

 天幕に塗られた絵の具のような、作り物の空ではない。本物の、深く遠い、夜空だ。

 ロンは、当たり前の筈のその景色を、とても懐かしいものと感じた。いや、今まで見ていたものこそが、夢だったのだろう。子供じみた、幼い、空想的な夢。……そう思うと、そこで見たおかしな景色や、変わった登場人物達すら、どこか懐かしく感じる。特に、あの黄色い小鳥のような男は。

 ……そうして懐かしみながら、ふと、頭を前方に移した。

 その視線が、眼下に広がる街を捉える。方眼紙の上に等間隔で配置したかのような、完成された、美しい街並み。それが。

 赤く赤く、燃えていた。


 ロンは、自分の精神が、どうして此処まで落ち着いているのか。――それまで魂を焼き続けていた憎悪と復讐への欲望が消えているのかを理解した。

 もう、それを、叶えたからだ。だから、ロンの心は平静で、平和で、静かだった――かつて、アンが生きていた頃と同じように。


 響き渡る悲鳴と怒声が、どこか遠くに聞こえる。そっと目を瞑る。

 瞼の裏で、星空と赤い炎が、ゆらゆらと重なって見えた。


(続く……)

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