Day27 渡し守
日が暮れ始め、天幕は夜の色を流し始めた。
「すいません。あの、向こう側まで運んで頂けませんか……?」
城館と街とを隔てる湖の縁で、レイニーは小さく叫んだ。アップルパイが詰まった紙箱の山を抱えた足取りは、相変わらずフラフラとしている。霧が掛かったように薄ぼんやりとした湖の水面に、動く物は見えなかった。空気はひっそりとしていて、ロンはレイニーの首の後ろで周囲の様子を伺いながらも、彼の言葉に何か返事があるものとは思えなかった。
「――ああ……レイニー。久しぶりだね」
その声が聞こえたのは、あまりにも唐突だった。先ほどまで何の気配もなかったというのに、ふとすれ違い様に挨拶をされたかのような自然さで、ロンとレイニーの耳元をくすぐった。
ちゃぷ、ちゃぷという水音が近づいてきたことも、それと同時だった。
「君は歩くのが好きだろう。この舟を使ってくれるなんて、珍しいこともあったものだ」
遠くに黒く霞んで、小さな舟が現われた。
木製で、ボロボロで古くさく、足船程度の大きさに見えた。人間であれば、四人も乗り込めば満員になるだろう。ギィ、ギィと軋む音からも、丁寧に整備されてはいないであろうことを感じさせられる。これに乗るのか、冗談だろう、とロンはレイニーを信じられないという顔で見上げたが、視線に気づいてもらえなかった。
「その、公園でうたた寝をしてしまいまして……」
「気がついたら、城に戻る時間だった?」
「面目ないです……」
不気味な、しかし上機嫌な笑い声を響かせながら、舟はどんどん近づいてくる。それを漕ぐ、渡し守の姿も。
「いいさ。レイニー、じゃあ後ろで歌っておくれよ。私を動かす燃料代に、君の歌なら十分だ」
「ありがとうございます、サイン様!」
サイン、と呼ばれた渡し守は、喉の奥でクックッと笑いながら、さあさあと舟の上に掛かっていた灰色の覆いを取り外した。目深にフード……というよりももはやボロ布そのものを頭から被り、腰を不格好に曲げた姿からは、その顔どころか、中身すら窺えない。しかし、レイニーがアップルパイを載せている時、それを手伝う為に伸ばした腕が、ボロ布の隙間からチラリと覗いた。その痩せ細った骨のような腕には、灰白色のフジツボがびっしりと生えていた。
レイニーが、そっと爪先で湖面を乗り越え、木製の不安定な舟の上に乗ろうとするその瞬間、火の小龍はギュッとレイニーの頭の上にしがみ付いていた。
レイニーの歌が、靄の掛かった薄暗い湖の上をたゆたっていく。舟の速度は極めて遅く、ぬるぬると水の上を滑るだけのようだった。
行きの道程では、レイニーとロンは市街地を丁寧にぐるりと回り、更にその先の林檎園にまで足を運んだ。公園で時間を優雅に使いすぎた二人は、城館まで直線で突っ切る為に、湖を横断することにしたのだった。
「大きな円い器の中に、雫が一つ落ちました。小さな小さな雫でしたが、それは次々と、次々と落ちて――」
レイニーの歌に被さるように、サインがメロディだけの鼻歌を歌っていた。サインの歌はくぐもっていて、ボソボソとした雑音にしか聞こえない。
「――やがて器は満ち満ちて、水の影となりました。誰もがそれを見ていました、湖と呼ばれる瞬間の他は」
櫂の側を、時折浮き草が漂ったり、岸らしき場所に、黒い木々の影が覗いたりする他は、おそろしい程に静かだった。ぽつんと、湖の中に何の支えもなく浮いている、一枚の木の葉のようだった。風は無く、完全に凪いでいる。レイニーの歌が無ければ、とても耐えられないであろう程に、湖の上は静かだった。
(月のおかしさにも、多少は慣れたつもりだったが)
ロンは、レイニーの髪の隙間からその様子を見ながら、一人思考する。
(此処は格別に奇妙だ)
まるで切り離された、別世界のように――。
「なぁあんた。あんた――人間なんだろう?」
ぞわりとする程の至近距離で、その囁きが聞こえた。
ハッと気がつくと、隠れていた筈のロンの目の前に、渡し守の顔があった。汚れたボロ布の隙間から、鼻と口だけが見えている。その、細い針のような牙が並んだ口が、ニタァッと笑みを浮かべていた。
歌は、いつしか止んでいた。
(続く……)
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