Day26 すやすや
フレイズの死に顔はまるで眠っているかのように穏やかで、今にもパチリと瞼を開けて起き上がるのではないかと、しばらくの間見下ろしていた。
しかし、何事もない。彼の体は、時が止まったかのように動かない。血に宿っていた氷の魔力も、どうやら霧散したらしい。感情によって空気を凍えさせていた頃よりも、むしろ肌は柔らかに見えた。
「…………」
ロンは、静かに掌を伸ばして、死せる男の瞼を開けた。
つい先ほどまでそこで生きて、女神の力を宿る証であった黄金色の光は、今はすっかり失せていた。
焼けつく炎のように黄金色に揺れて、内側から光り輝いていたあの太陽の色は失われていた。くすんだ、何も映さない、虚ろな死者の目がそこにあった。
ロンは、そっと彼の瞼を閉じた。もう二度と開く必要は無い。
昂揚を感じる筈だった。実際、フレイズが死んだその瞬間は、深い昂揚と開放感を抱いていた筈だった。それなのに、今はひどく凪いでいる。まるで喪失感に苛まれるかのように。
(喪失感……?)
むしろ、取り戻したというのに。長年、女神教会によって奪われ続けていた自由を、力を、そして時間を。不死の怪物として忌まれた力を、やっと、自分の目的の為に――
(…………)
目的。それを思った瞬間、ロンの目の前が僅かに暗くなった。
ゆっくりと、椅子に腰掛ける。頭を押さえながら、深く息を吐く。
(……問題ない)
始めからそうするつもりだった。それこそが人生だった。
指の間に黒い髪が絡む。見開いた目が風景を写さないまま沈んでいく。
「ロン」
ふと、フレイズに呼ばれた気がした。
視線を動かすと、フレイズの爪先が見えた。形のいい脚を包む絹織りの表面が、ランプの明かりに滑らかに光っていた。
「髪を乾かすのを手伝って」
顔を上げる。もちろん、そこには誰も居ない。
フレイズの死体が、椅子の上にだらりと引っかかっている。弛緩した肉体も、程なくして死後硬直を始めるだろう。
――妻子を失ったフレイズの苦しみと嘆きは、神官達こそよく知っている。自殺を誰も疑いはしない。ゆっくりと、深く呼吸をしながら、立ち上がる。
もうすぐ全てが終わる。それがわかっているのに。
どうしてこんなに、虚しいのか。
◆
「…………」
この土地に来てから、やたらとよく眠るようになった。ロンは、パチリと開いた瞼を持ち上げ、銀の目玉を大きく開いて、伸びをする。
口の中が、まだ甘ったるい。レイニーが取り出したアップルパイは甚だ甘く、香辛料の匂いが歯に絡み、ロンの小さくなった顎では大きすぎた。まだ蒸気で湿りもせず、サクサクと小気味よい音を立てるアップルパイを、それでも黙々と食べ進めるロンの方に閉じた瞼を投げ掛けながら、レイニーも静かに口を動かしていた。
……そのまま眠っていた、ということは、食後の昼寝でもしていたというのか。優雅な……と自分自身に半ば呆れながら、レイニーの方を見る。
レイニーもまた、すやすやと眠っていた。木製のベンチの背もたれに体を預けながら、安らかに。
その口元に、パイの一部がくっ付いていた。なんて子供じみた、無防備な姿だろう。
「レイニー……」
さっさと戻るぞ、と尻尾の先でペチペチと肩を叩いてみても、一向に起きる気配もない。ロンは起こすことを諦めて、フゥッと鼻を鳴らしながら、くるりと体をレイニーの首に巻き直した。
ふと、顔を見上げると、パイを付けたままの唇が目に入った。子供にそうするくらいの自然さで、それを掌で拭った。
「…………」
その瞬間、何故だかたまらなく気恥ずかしくなった。ロンは小さな掌を叩いてパイの残滓を地面に落とした。そして、隠れるようにレイニーの髪の中に潜り込んだ。
(続く……)
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