Day23 静かな毒
透き通った硝子のグラス。その表面には精緻な彫刻が施され、室内を照らす仄かな灯りを千々に砕いて、机の上に撒き散らしている。
フレイズがそのグラスを持つと、その光も一緒に揺れた。中に満ちる透明な液体と共に。
「酒と共に溶かしてあります」
ロンは、何の感情も籠もっていない声で告げた。
「貴方がお好きな、ウィスタリア地方の白です」
「――フフッ」
我慢できない、といった様子でフレイズは笑い出す。笑うと、水面も一緒に震える。危ないな。せめてグラスを置いてから笑えばいいのに。と、ロンは冷然と考える。
「……こんな時に」
私の好きな酒なんて、選ぶ必要ないのにさ。フレイズの声もまた、冷め切っている。しかし、彼の目元は、赤く掠れている。
声も、眼差しも、どこか震えている。手元を見ては、目を逸らすように俯いて、そして再び、手元を見る。
「フレイズ様」
ロンは決して引かない。止めさせるつもりもない。
彼はフレイズの手の甲の上に、自分の掌を重ねる。逃がさないように。
「一息に飲んで下さい。その方が、苦しまずに済みます」
フレイズは振り返らない。後ろに立つロンが、どんな顔をしているのかも分からない。
「…………」
フレイズは、自分の喉がひどく渇いていることを感じた。そのまま何の気なしに、グラスの中身を煽ろうとして、また手が止まった。
「…………貴方はもう、十分苦しんだでしょう?」
ロンは、華奢な椅子に体を預けるフレイズの細い首元に、もう片手を這わせ、顎を撫でた。
フレイズは何も言わない。涙も出ない。震えさえ徐々に収まって、冷たい沈黙の中に落ちていく。
フレイズは、妻子を殺されていた。
犯人は分からない。民衆から最も強い支持を受け、敬愛の的となっていたフレイズに、敵はあまりにも多すぎた。
妻子の存在は、極僅かな部下や関係者の他には伏せられていた。その所在は隔離され、フレイズが訪ねる際も、変装し、医者の往診のふりをするしかなかった。
「そんなに気を遣わなくてもいいのに」
と、妻のエリンは常々言っていた。元来自由を愛する彼女を、こんな所に閉じ込めてしまい忍びないと、フレイズはその度に謝った。
「いいの。貴方がしたいようにすればいいし、私はそれを必ず守る。どれだけ退屈でも平気。だって私、この子のことは気に入っているから」
エリンは生まれたばかりの息子を抱き上げ、フレイズにその寝顔がよく見えるようにした。
フレイズとよく似た、ふわふわとした薄紫色の髪の、桃色の頬をした赤子だった。彼がおずおずと指を差し出すと、何度か開いたり閉じたりを繰り返していた小さな花のような掌が、きゅっと指先を掴んで、そのまま離さなかった。
フレイズは何も言えず、そのあまりにも柔らかな体温を感じていた。
「――抱いてあげて」
エリンは、そっとそう呟いた。フレイズが見上げた顔はまるで怯えるかのようで、エリンは苦笑した。
「貴方の方が、子供みたい」
クスクスと笑うエリンにつられるかのように、フレイズも静かに笑った。そして、彼女の腕から自分の腕へと、慎重に移し換えるように、息子を抱いた。軽い、とは思えなかった。むしろずしりと重かった。自分の魔力を極力抑え、声も上げないように気をつけながら、おくるみに包まれたその子を見下ろした。その子の表情も、笑っているかのようだった。
「君がもう、人間ではないことは知っている」
二人の死体は、隠棲先のベッドの上で見つかった。短剣で喉と胸を突かれ、争った痕跡もなかった。寝込みに、死ぬために必要な部位だけを切り裂かれた、鮮やかなまでに無駄のない殺人だった。周囲からは悲鳴すら聞こえなかったという。
「縛られているのだろう。大昔の
フレイズは、既に片付いて何一つ物の残っていない部屋の中程に立っていた。エリンに見つめられながら、息子を抱いた場所だった。僅かに持ち上げられた両手は虚空を掴んでいる。そこに息子はいない。見守る優しい眼差しもない。
「――私が、君を解放しよう」
「その意味が分かっているのですか」
ロンはフレイズの背中に向けて問い掛けた。フレイズは答える代わりに、頷いた。その背中に、重ねて問い掛けた。入念に、より深く、傷つけるために。
「貴方の良心は、それを許すのですか」
「良心?」
フレイズは、両手を下ろした。そして、肩を震わせながら、アハハッと声高く笑った。片手を持ち上げ、前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、笑い続けていた。
「――死んだよ。そんなもの、とっくに」
さあ、と促される前に、フレイズはグラスを一気に煽った。
細い喉が毒液を嚥下する。一滴残らず、体の芯へ沁みていく。それをロンは、ジッと監視するように見つめた。
グラスから唇を離した瞬間、指先から力が抜けた。ロンは、フレイズがグラスを落とすよりも前にそれを受け取り、膝から倒れそうになる体を椅子に座らせた。まるで紙で出来た薄っぺらな工芸品のように軽い体だと思った。もうここに、意思も魂も存在してはいないのだろう。
フレイズは諦めた。
犯人を捜し、時には秘密裏の拷問や処刑まで行なって情報を得ようとしたフレイズを、誰も助けはしなかった。
大司教一族という、女神教会の長は神の器だ。女神から与えられた神通力を、代々受け継ぎ続ける為の
それでも、とフレイズは人の上に立ち続けた。それでも、求められているならば応えなければと。このような、万人に愛されるような美貌を持って生まれたことには、それなりの意味があるのだろうと。
「フレイズ様。奥様とお子様の件、誠に残念ではありますが……」
藁にも縋るように情報を求め続けて、息を切らせて怒り狂うフレイズに、神官の一人が恭しく告げた。
「フレイズ様が御存命である限り、次のお子は作れますよ」
ロンは、どんどん体温を下げていくフレイズの胸を抱きながら、唇に笑みが浮かぶことを止められない。
その時のフレイズの絶望。――失望は、幾何のものだっただろう。
その身を苛んでいた怒りさえ超えた、心の臓を凍らせる程の憎しみは。
(…………ああ、)
もう、いい。そう思わせるには、十分すぎるものだったに違いない。
フレイズは、自身の意識が朦朧としていくのを感じながら、手を伸ばした。夢の中で泳ぐような、緩慢な動きで。ロンはその指先を導くように、自身の胸に胸に押し当てる。
フレイズの目の中の、金の光が揺れている。消えかけた蝋燭の火のように。
「……長い、時の牢獄に、縛られ、た、魂よ。……その火は燻ろうとも消えることなく、未だ大火の熱を宿し……」
歌うような声だった。詠唱は穏やかで、まるで子守歌のようだった。
「罪を知るまま燃え上がり、業を抱いたまま刃となれ。……誰もがお前を恐れても、お前は何も恐れない。……火は地を舐め、天を裂く」
フレイズの足元は、流れ落ちていく氷の魔力によって徐々に凍り付いていくけれど、彼の眼差しは金色の光を増して、眩い光の渦のようになっていた。ロンの胸に、その神の光が触れる。鋭い痛みが胸を裂くと共に、自身の中で封じられていた鎖に、確かな亀裂が入ったことを感じ取る。
「…………ロン。…………古き人、罪人、呪われた人。…………お前は、もう、」
自由だよ。
バキン、とロンの中の何かが砕けた。
古代から、ロンをこの教会で使役する為に魂へと繋げられていた楔が、消え去った。それと、フレイズが静かに瞼を閉じて、ゆっくりとロンの胸の中へ倒れ込むことは同時だった。
ロンは、フレイズの首に指を当てる。
……フレイズは、事切れていた。
「ありがとうございます、フレイズ様」
何もかも、本当に、ありがとうございます。
ロンは、真に身軽になった体と魂で、晴れ晴れと呟いた。
フレイズの妻子を殺す指令を出したのは、ロンだった。彼は最後まで、それを知らずに逝った。
長い長い忠誠と忍耐の時はこうして実を結び、ロンという一人の怪物が、最盛期の力を取り戻した。
(続く……)
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