Day20 甘くない

「フェイツ」

 心愉しく魔王はその名を呼ぶ。謳うように、朗らかに。

「フェイツ」

 それは歓びの名である。そして、呪いの名でもある。

 魔王アッシュは、軽やかな足取りで階段へと続く扉を開ける。その先の螺旋階段はいくつかの蝋燭に照らされているだけで薄暗く、登り切ると、更に新たな扉がある。全てに多重の結界が仕掛けられている。アッシュ以外がその扉に触れもすれば、瞬時に蒸発してしまう程に悪意と攻撃性が込められた結界が。

 アッシュは手に赤い薔薇を持っている。それは血のように重たい深紅に染められ、ベルベットのような鈍い光沢を放っていた。その花弁に、生花が持つような精気の名残は存在しない。毒々しいまでに深い赤が、アッシュの掌の中に抱かれている。

 アッシュは、掌を翳し、最後の扉を開けた。

「…………フフッ」

 一人、部屋の中に入ったアッシュは、俯いたまま、吹き出すように笑い始めた。

「ハハッ……ハハハハッ……」

 乾いた笑い声が喉から溢れて、止まらない。肩を揺らし、口元を指先で隠すようにしながら、目を伏せたまま笑い続けた。

 室内は薄暗い。この部屋には窓がなく、壁も煤けたような黒色を纏っている。

 そして、床・天井・壁を問わず、埋め尽くすように木の根が張っている。その根が部屋中をボコボコと歪んだ形に見せ、所々に置かれた燭台の中で光る石の青白い色が、その奇妙な陰影を際立たせていた。

「……はぁ……ハハ……。……フェイツ、来たよ」

 顔を上げた時、彼の口元は裂かれたような形になっていた。暗い三日月のような形が、顔に引っかかっているだけで、そこには親愛の情は微塵もなかった。獣が獲物を前にして歪めた口の形が、たまたま笑みに似ているようなものだった。

 しかし、それを指摘し、恐怖する対象は存在しない。この部屋に、アッシュ以外の生命体はいない。

 彼の目の前にいるのは、ただ椅子に座らされた、一体の人形だけだ。黒く長い髪を腰まで垂らし、瞼を開いたままの黒い眼差しは、瞬きもしないのに乾きもせずに艶やかなままで、閉ざした唇まで薄青いまま柔らかだった。両手は肘掛けの上にだらんと置かれていたが、その指先には爪どころか、皮膚の細やかな陰影さえ刻まれていた。

 ソレは、とても精巧に造られていた。肉に似たものを詰め込まれ、骨に似たもので支えられていた。魔王アッシュが自身の魔力と土の魔法を駆使して、丁寧に丁寧に築き上げ、芸術品の域にまで引き上げた一体の美しい人形だった。

「フェイツ……」

 そう、アッシュはその人形の名を呼ぶ。ゆっくりと歩いて、近づき、その足元に座り込んだ。殆ど倒れ込むように。

 人形の目がアッシュを捉える。いや、アッシュが、人形の視界に雪崩れ込んだ。

 人形は何も見ていない。人形だからだ。その作り物の目が反射されているのはただの光と色彩だ。その奥にそれを分析し、理解する為の脳は、人格は、魂は、存在しない。しかし、アッシュはその目で自分が見つめられている時間に、途方もない幸福を感じる。

 ……ほんの一瞬だけは。その一瞬が過ぎ去った時、アッシュは声にできない程の不服と怒りを感じる。

「――フェイツ。これを見てくれ、この薔薇を」

 誰も聞いてなどいないのに、アッシュは話を変えるかのように、わざとらしく明るい声色で薔薇を取り出す。

「レイニーの血で造った薔薇だ。前、話しただろう? レイニーは私の傑作なんだ。彼はとても強い癒やしの魔力の結晶なんだ。その血は、魔力の強力な媒体になる。お前にプレゼントしたくてね」

 アッシュは薔薇の花弁を一かけ切り取ると、人形の掌にそっと押し当てた。花弁はゆっくりと溶けて、人形の皮膚の中に吸い込まれていく。

 その瞬間、人形の皮膚の色艶が、ほんの少しばかり善くなったように見えた。魔力で構成された物質の品質維持に、魔力を新たに供給することは有効な手段だ。革製品をオイルで手入れをしたり、銀器を磨くことと同じように。

「ほら、ゆっくり、ゆっくり食べるんだよ」

 新たに千切った花弁を、フェイツの口元に運んでやる。動かない唇をこじ開け、赤い花弁をその精巧に組み立てられた歯と舌の間に差し込んでやる。やがて魔力が赤い雫となって溶ける所を見守りながら、アッシュは自身の中の複雑な感情の躍動を感じている。

 人形のモデルになった男が、遠い遠い昔にはいた。

 自身の手の中から離れた男。激情を持って抵抗し、最後には哀願し、それすら聞き入れられないとわかると、

(どうしてお前は死んだんだ?)

 懐からナイフを取り出した時、その刃先が向けられるのは自分だと思っていた。

 自分が刺される分には良かった。彼の身を裂くような怒りと殺意が、他ならぬ自分に向けられたのだと思いたかった。愛し合えないならば殺し合いたかった。彼の中の最大の敵になるのならばそれでも良かった。

 良かったのに。

(お前はどうして)

 そのナイフが刺そうとしたのは彼自身だった。

 フェイツの白く細い首元、黒い髪の間を縫うように銀色の刃が翻り、今にも赤い飛沫が上がろうとした瞬間、アッシュは反射的にナイフを奪い。

 彼を、

「…………私は、ほんの少し、叱ってやろうと」

 少し叩いてやった、それだけのつもりだったのに。

「どうしてお前は、死んだんだ?」

 呆然と呟いた瞬間、思わず掌に力が入って、ぐしゃりと鈍い音がした。

 あっ……と、思った時にはもう遅かった。アッシュの掌の中で薔薇が折れて、潰れて、熟れた果実のような汁が指先の間をボタボタと零れ落ちていた。

 アッシュは暫しの間呆然と、その雫が垂れて落ちていく様を見ていた。しかし、ふと思い立って、その雫を舐め取ってみた。

「…………不味いな」

 それは少しも甘くない、苦く喉に絡みつくような、苦しみの味だった。あーあ、と苦笑すると、不思議な現実感を齎した。

「次は蜜でも溶かしておくよ」

 冗談めかしてそう呟く。人形の目は虚無を見ている。乾いた、動きのない時間だけが、アッシュの足元にとろとろと纏わり付いている。


(続く……)

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