Day18 占い

「この間、占い師が来てくれたじゃない」

 フレイズが奥の浴室で湯浴みをしている。ロンは、その戸を守るように背を向けたまま、「はい」と答える。

 夏の夜。ティアーナの夜風は涼やかで、潮の匂いではなく花の香りが混じっている。夜に咲く花があるんだよ、とフレイズがいつだか言っていた。

 視線を窓の外に移す。ロンはかつてこの国が、ティアーナという名ではなかった頃を知っている。その時代を人として生き、その時代の人々と共に暮らし、時には笑い合うすらあった。しかしロンは、罪を着せられ、呪詛の声の溢れる中で殺された。

 その呪詛はまだ己の中で燻っている。鎖となって、心身に巻き付いて、どれだけ鬱陶しく思っても離れることはない。自由とは程遠く、土人形ゴーレムのように使役される日々。

「私の未来や、過去を見てくれたけれど……フフ、面白かったな。愛に恵まれ友に恵まれ、いついかなる時でさえ、誰もが貴方に手を差し伸べるでしょう、だって」

 そういう人間だと思われているならば、私はなんて幸せ者なのだろうね。

 そんな声に続くように、フレイズが湯から上がる音がした。体の上を、タオルが撫でる音がする。

「手伝いましょうか」

「いいよ。髪を乾かす時だけ来てくれれば」

 ロンはその場に立ったまま、フレイズが体を拭き、顔や肌を整え終えるのを待った。

 大司教フレイズ。女神教会が支配するこのティアーナの当代の主であり、過去から連綿と今に続く――エペの子孫。彼と同じ金の眼差しを持つが、髪の色は薄く変わったらしい。エペの、紫の光を反射させる黒曜石のようだった長い髪は、フレイズの代では淡く咲く花弁のような、柔らかな薄紫色に変化していた。髪の色は、肉体の持ち主の魔力や性質によってある程度変化するらしいが、大司教だけが持つという、神通力を宿す眩い金色の目の色だけは、あの頃から変わらない。

 フレイズは美しい男だ。美醜に疎いロンでさえ、それは認める。

 月の石のように白く滑らかな肌、彫刻家が丹念に彫り整えたかのような完璧な造形。指先、爪の先一つに至るまで、傷も穢れもなく艶やかで、敵対者でさえ傷つけることを戸惑い、親交深き者でさえ、ふと劣情を抱いてしまいかねないような危うい魅力。

 何より、彼は作り物ではなく、生きている。そこには湖のように静かに湛えられた生命力があり、微笑みは神の使いそのもので。

 ――歴代最高の信望と羨望を集めた大司教。究極の美貌、完璧な人格。高い魔力と武芸を兼ね備えた、まるでこの世の全てを手にしているかのような――

「水晶や、カードや、獣の骨や……色々な占いの道具を見れて楽しかったけれど。私は、素朴な花占いの方が好き」

 ロンは目を疑った。せめてバスローブの一つでも羽織ってくるかと思っていたフレイズは、一糸まとわぬ姿でトコトコとロンの隣を歩いていた。素足で触れた部分が、フレイズの魔力と反応し、パキパキと凍り付いていく。ロンは急いで窓のカーテンを閉め、絹で出来た薄手のローブをその肩に掛けた。

 フレイズは、そうしたロンの動作すら何一つ気に掛けていない様子で、そのまま気まぐれのように花瓶から一本の花を取り上げた。白い薔薇だった。

「薔薇の花で占いなんて……少し、ロマンチックすぎるかな?」

 そう微笑むフレイズの目は、少しも笑ってはいない。裸の白い肌は、既に湯気の一つも立てていない。

 フレイズの魔力は、氷の属性を持つ。体温は常に下がり続け、少しでも油断すれば、周りのものは次々と凍り付いていく。

 この様な夏の夜でさえ、彼が少しでも気分を害して感情を露わにすれば、冬のように冷え込むだろう。

「フレイズ様」

 声を掛け、手を握る。あ、フレイズが気がつくと、既に茎の半分以上は凍り付いていた。ロンの掌から伝わる炎の魔力が、ゆっくりとその冷気を中和していく。

「ハハ……またやっちゃった」

 苦笑する口元の先で、白い薔薇が揺れている。フレイズは視線を上げて、ロンの顔を見上げた。ロンは相変わらず無表情だ。

「そうだ。ロンを占ってあげようか?」

「…………結構です」

「そう?」

 想像もつかないような未来が見えるかもしれないのに……と、フレイズは冗談めかして笑った。


 不確定な未来などいらない。フレイズも、同じ事を考えているだろうに。そう、ロンは思った。必要なのは、想像を叶える力。決まり切った時間の繰り返しを破壊し、理想を現実にする力だけだ。

 二人は共犯者であり、運命共同体だ。ロンは呪いに縛られ、フレイズは宿命に縛られている。憎悪の炎に巻かれた男と、神の意志に逆らえない男と。

 しかし、仲良く共倒れするつもりはない。フレイズには、やるべき――いや、やらせるべき役目がある。

 その為ならば、何だってするととっくの昔に決めていた。復讐の足掛かりに、この男を利用することだって――。





「ロン様――貴方は、ロン様というのですね!」

 パァァ、と両手を胸の前に合わせるようにして、全身で喜びを表現するこの男は、何か眩しい光を発する魔法でも使っているのだろうか。不機嫌に目を細めるロンの眉間の皺が深くなる。舌打ちをしようとしても、長く赤いチョロチョロとした舌が覗くだけで、自分が嫌になる。

「…………お前は」

「あっ、私ですか!? 私は、レイニー・デイと申します! カナリアの悪魔です! 歌が好きで……」

 それはもう十分知っている、とか、やはり悪魔だったか、とか、言いたいことは全て長い喉の奥にしまい込んだ。

「お前のことは、もういい」

「わ、わかりましたっ」

 ギュッ、と言われた通りに口を噤むレイニー。やけに素直だ……。不機嫌になることすら馬鹿馬鹿しく感じつつあった。

「……それで。ここは、どこだ。国の名は――時代は」

「えぇと、国の名は、ありません。魔王アッシュ様が統治するこの月の大地に、都市は此処ただ一つだけですから……」

「……………………月」

「はい……月です」

 さすがに振り向いた。冗談を言っている様子はなかったが、それでもなおジッとレイニーの顔を見た。冗談なのだろう、と。

 しかし、レイニーはきょとんとしながら小首を傾げているだけだった。

 ……目眩がする。

「その……ロン様?」

「……地球は……」

「あっ……その、滅びて、しまいました……」

 …………目眩が、する。うっかりレイニーの掌の上から滑り落ちそうになったが、すぐに体勢を整えた。

 一つ二つ状況を確認すれば、その分の疑問は消える筈だが、むしろ謎は増えるばかりだった。ロンが頭をクラクラさせている様子に、レイニーもまた、困惑しているようだった。

「ど、どうしましょう。ロン様、気分が優れませんか? 歌いましょうか……?」

 いいから、静かに――そう言うだけで、精一杯だった。そんな折に、ふと突然、フレイズとの会話を思い出した。白い薔薇を持った、氷の指先まで、ハッキリと。

(…………確かにこれは、想像もつかないような未来、だ)

 自分は小さな黒龍の姿に変化し、月などという場所にいて。見知らぬ男の掌の上でとぐろを巻き、地球は既に滅びている、とか。全く、悪い冗談にも程がある。

(しかしあの人ならば、相当面白がっただろうな――)

 今のような姿のロンを見たら、フレイズは必ず大騒ぎし、触らせてくれだの抱かせてくれだのうるさかっただろう。そんな光景を想像し、俯いたままクックッと笑った。レイニーはそんなロンを、(震えているのかな……)と思いながら、心配そうに見下ろしていた。


(続く……)

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