Day17 砂浜

 ビリッ、と体に走った衝撃と、背後に強く引き戻されるような感覚の直後、数秒間、意識が飛んだ。

「…………?」

 何が起きたのかを把握する前に、ザリ、と顎の辺りに何かが触れた。

 僅かに差し込む光に照らし出されたのは、鈍い灰色をした砂浜に見えた。ロンは、少年の時分に過ごした南の海に広がる、砕けた珊瑚でできた白い砂浜を連想し、一瞬自分の意識がその頃に戻ったのかと思って、急いで立ち上がろうとした。

 しかし、立ち上がるべき腕がなかった。いや、ありはしたが、それはやけに小さかった。

「……!?」

 驚いた拍子に、背中が壁にぶつかった。ぐらぐらと世界が揺れる。

 ――違う。ここは、砂浜ではない。と、気づいた頃には遅かった。


「……おや?」

 レイニーは、掌の中で抱えた香炉がぐらぐらと揺れる感覚に、歌を止めた。

 最初は、歌のリズムに合わせて、無意識に揺すってしまったのかと思っていた。しかし、どうやらそうではないらしい。内側で、何かが動いているような振動が、指先に伝わってきて――

「……わっ!」

 カタン、と灰を巻き上げながら蓋が落ちて、中から何かが現われた。

「な、な、何です……!?」

 何かが現われた。しかし、何が現われたのがわからない。レイニーはあわあわしながらひとまず香炉をテーブルに置き、一歩離れた。スルスル、と灰の上を這うような音がする。あまり大きくはないようだ。香炉の内側から現われて、今は上部にいるらしい。手を引っ掛けているのだろうか……?

 意識を集中させていると、再び、ぐらぐらと香炉が揺れる気配がした。落ちる……!そう思った瞬間、思わず手を差し伸べてしまった。

「わ、わわわ……っ!」

 スルスルスル、とソレはレイニーの腕に絡みついてくる。

 その感触で分かった。細かい鱗と艶やかな肢体。どうやら手足はあるようだけど、とても小さく、爪も軽く引っ掛ける程度しか生えていない。胴体で滑るように移動する、この生き物は……!

「蛇! 貴方は、新種の蛇さん、ですね!!」

『違う』

 あれっ、違う!? という感情と、 えっ、喋った!? という感情が、一緒に噴出する。レイニーは頭に沢山の「?」マークを浮かべたまま、困惑の表情を浮かべていた。

「ち、違う、のでしたら……貴方は、何者、ですか……?」

『…………』

 彼は答えない。答えないまま、するりとレイニーの腕の上を移動する。

 窓辺を見ると、ごく薄らとだが、硝子面に彼らの姿が反射していた。ロンは、レイニーの腕に絡んだままの自分の姿を観察した。……なるべく、平静を保つよう努めながら。

『…………』

 蛇、という言葉も間違ってはいないか。正確にはこの姿は、龍と呼べるものだったが。

 ここまで小さくなってしまえば、蛇としか言いようがないだろう。

 弱り切った魂のカケラは、人の姿すら取ることが出来なかったらしい。龍として生きた試しはないが、この悍ましい姿こそが、己の呪いの本質なのだろう。と、ロンは諦めのような結論を抱いた。むしろ清々しささえ感じた。黒龍の姿であるならば、飛翔も可能か……と一瞬だけレイニーの肩の上から試してみたが、どうやら実体化するだけで精一杯らしい。胴体はポテッとレイニーの背中側に落ち、そっと翼で抱えられてしまった。

「その、突然すいませんでした……もしかしたら貴方は、香炉の中で眠っていたのでしょうか……?」

『…………』

 レイニーの黄色い翼に包まれながらも、ロンは何も返すべき言葉を持たない。知りたいのはこちらの方だ、と言わんばかりに首を逸らす。

「……香炉に、何か魔法が掛かっていることは知っていました。解呪の呪文を唱えるときに、意識よりも奥の深層で、"あなた"と呼びかけてしまったことも。……今まで、それが誰なのかは、分からなかったのですが」

 それが、あなた、だったのですね? と、レイニーは重ねて尋ねた。

『…………』

 ロンは、逸らしていた首を少しだけレイニーの方へ傾けた。

 瞑った瞼は、瞳のように雄弁ではない。しかし、その瞳という窓がなくとも、レイニーの感情は正直だった。ただ「知りたい」と、全身で訴えている。それは好奇心からというよりもむしろ、友達になりたいから、と言っているかのようで。……まるで無邪気な犬のようなその態度に、ロンはいっそ呆れてしまった。頬の色は薄く、まだ体力は回復していないのだろうに、元気なことだ。……そうして見つめる先にある、長く艶やかな黒髪は、何故かその一瞬だけ、生前の妹の姿を連想させた。

 ……馬鹿馬鹿しいが。

『…………ロン』

 長い長い沈黙の末、溜息交じりに、ロンはそう呟いた。スルスルと、レイニーの腕の上でバランスを取り、上体を持ち上げながら。

『私の名は、ロンだ』

 ハァ、と溢した吐息の端から、黒い焔が小さく立ち昇った。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る