Day16 レプリカ
魔王アッシュは孤独だった。
彼は親を知らない。親――より正確に言えば創造主――といえるような存在は、一人だけ居た。
かつて地球と呼ばれた星は、四大の魔王に支配されていた。
水の魔王はある日急に、その平穏に「飽きた」。
「波が寄せては引くように」
そんなことの繰り返しでさ。と、苦笑するかのように。
彼は自分の力の全てを一本の木に注ぎ、出奔した。持てる能力も権能も、全てを失った彼がどこへ去ったのかはわからない。殆ど死んだも同然だった。残された部下たる悪魔達は大いに慌てた。
四大の魔王がそれぞれの力を拮抗させることで、星の平和は保たれていた。その一角が欠けてしまえば、何が起こるか分からなかった。そうでなくても、水の魔王の不在を狙って、他の魔王達が攻撃を仕掛けてこないとも限らない。
幸いにも、水の魔王が力を与えた木はすぐに見つかった。それは焼け爛れた草原に生えた一本の林檎の木で、赤い実を一つつけていた。その実が小さな子供になった。
灰の原から生まれたその少年は、アッシュと名付けられた。
しかし、アッシュは世界の安定を担う存在にはならなかった。
親が放棄した世界を、アッシュはむしろ憎悪した。
彼は、生まれながらにして孤独だった。何かの「代わり」として見知らぬ場所に立たされ、さあどうぞと世界を差し出されても、それを尊いものとは思えなかった。
アッシュには道徳が分からない。
アッシュには善悪が分からない。
どうしてそれが「善い」とされているのか。どうしてそれを「大切」しなければならないのか。ここは父が見捨てた世界に過ぎないというのに。
ゾワゾワするような違和感と、誰とも分かち合えない孤独の中で、それでもひとまずは愛想笑いを浮かべて過ごし、日々本を読んで一人でいた。悪魔達はアッシュを尊重し、貴い者として扱ったが、それは一日も早く彼を大人の魔王とし、他の魔王達と肩を並べるだけの力を得られるようにする為という、打算だということも分かっていた。
「魔王様、たまには外に出ては如何ですか」
アッシュは植物が好きだった。何も言わない植物とだけは、通じ合える感覚があった。硝子質の結界の内側に、燦々と光を取り込みながら、小さな植物園の端に建つガゼボに座って、もう読み飽きた本をそれでも退屈しのぎに捲っていたアッシュは、そう声を掛ける方を振り向いた。
簡単に手折れてしまいそうな程に細身な男が、長い黒髪を風に揺らしながら、そこに立っていた。
彼の名はフェイツ。燕の悪魔。
先代の時代から、魔王に仕えていた上級悪魔。
その態度は不遜。常に自信ありげで、飄々としている。本体が燕である為か、非常に身軽で、その動きからは体重を感じさせない。勉強熱心で収集癖を持つ。人間を見下しているが、その慢侮からは、どこか親しみさえ感じさせる。魔法や魔法具の発見に関心があり、仲間とそれらの研究話に花を咲かせる。誰とも仲良くはならない、という頑なな態度を取りながらも、実際は面倒見が良く、義理堅く、自分の感情に嘘をつけない。
自信ありげな態度も、他の悪魔達と較べて力が弱く体力に劣ることへの裏返し。弱いからといって強者に媚びへつらうのではなく並び立ちたい。自分の好きなことは好き、嫌いなことは嫌い。何にも縛られたくないと思っている割に、大切にしているものが多すぎる、矛盾した魂。
この下らない世界で、フェイツだけが輝かしい光だった。面白かった。不思議だった。彼が視界に現われた瞬間、世界が鮮やかに色づくようだった。そうでない時は灰色だった。フェイツのいない世界には何の価値もないように思えた。いや、そもそも何の価値も無い世界に、フェイツが価値を与えたかのようだった。彼の話の内容には感心がなかったが、彼が楽しそうに話している姿を見ていることは好きだった。彼が仲間や友人達と会っている時、どうして自分と共にいる時によりも気安く振る舞っているのだろうと不満だった。彼の視線、彼の指先、彼の言葉は全て自分にだけ向けられているべきだと思った。
アッシュは彼を愛した。
彼を愛し、そして、
愛されなかった。
「魔王様、僕は、僕は貴方を愛せない。……もう、止めて下さい」
フェイツが頭を下げていた。
アッシュはきょとんとしながらそれを見下ろしていた。
自分よりもずっと背が高く、すらりとしていて格好良くて、いつも人間界から調達した高級な装飾に身を包み、黒い髪を綺麗に整えていた、傲慢で自信家の彼が、自ら膝を折って、美しい顔を床につけて、蹲っていた。
苦しそうな声だった。後悔と痛みに満ちた、今にも泣き出しそうな声だった。
分からなかった。全てが謎だった。
彼はどうしてこんな醜い行為をするのだろう?
綺麗な顔が台無しになってしまうじゃないか? ああ、いや、そもそも――
どうして、私にこんな酷いことを言うのだろう?
アッシュが返事をしかねている状況を、フェイツはどう受け取ったのかは分からない。しかしその一瞬の――もしかしたら数分だったかもしれない沈黙の後、フェイツは顔を伏せたまま、懐からナイフを取り出した。
自分を刺すのだろうか、と身構えはしたが恐れはしなかった。悪魔に刺された所で魔王に傷一つ付けられないのだから。
しかし、ナイフが振り下ろされた先は自分ではなかった。
フェイツは、自分の喉を搔き切ろうとして、
「――ダメッ!!」
アッシュは思わず身を乗り出し、フェイツからナイフを奪おうとした。
その時、ほんの少し、叩いてしまった。
だって、嫌だったから。どうしてこんな勝手なことばかりするのか、どうして私の言うことをきかないのか、どうして私に良い返事をくれないのか。根っこは全て繋がっている。「フェイツが悪い」。だからほんの少し、叱って、殴って、怒っているって分かって欲しくて。
その一撃で、フェイツを殺してしまった。
「…………」
魔王は世界で最も強い。
魔王は世界の柱たる存在だ。
そんな魔王に愛されたのに、どうして彼はそれを拒絶したのだろう。
何か言っていた気がする。理由というか、言い訳のようなことを。理解不能だったから聞き流していたけれど、本当は大切なことだったのかもしれない。
「…………」
フェイツは塵のように消えた。魂が青い硝子のように砕け散って、床の上を散り散りの火花のように舞い落ちて、刹那に消えた。骸は存在しない。魂が維持していたエーテルが砕けて、霧散したのだから。
アッシュがハッキリと覚えているのは、そこまでだ。フェイツが消えた後、塵となった体を掻き集めて、その透き通った砂のようなカケラが指の間から零れ落ちて、それすら空気の中に消えていくのを見送った所まで。
そこからの事はよく覚えていない。体が燃えるように熱くなって、視界が急に高くなったことはぼんやりと感じていた。他の魔王達を殺し、歯向かう人間達を殺し、降伏しようとする悪魔達を殺した感覚も、何となく手に残っている。
どうでもよかった。フェイツが死んだ後の世界なんか。
アッシュにとって全ては外側で、内側には自分とフェイツしかいなかった。フェイツと過ごした居城を体内の洞に取り込み、外側の世界を壊し尽くした。そして高く高く、根を伸ばして――月へ、辿り着いた。
月は安らかだった。誰も居ない、何もない。虚無の海は穏やかで、自分に期待する声も、自分を責める声も、悲鳴も怒声も聞こえない。
静かの海で根を下ろし、アッシュは自分の外皮を城に見立て、内側の洞に降り立った。
「フェイツ、ここで一緒に暮らそう」
椅子の上に、フェイツが座っていた。
白い顔は俯いて、凍えるような無表情だ。アッシュはその前に跪き、そっと彼の頬を撫でた。
「おっ……と」
ぐにゃ、とフェイツの――彼の
「まだまだ練習しないとね」
事実、アッシュは今、幸福だった。
歯向かうことのない恋人。何も起きない世界。静かで平和で安定した場所。
こんな場所をずっと、求めていたような気すらした。
彼の背中にそっと張り付いた、黒い罪の意識に背を向ければ向けるほど、彼の銀色の王国は、鮮やかに輝きを増してゆくかのようだった。
(続く……)
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