Day10 ぽたぽた

 ※一部に流血の表現を含みます。



 トン、と自室の扉に体がぶつかって、ハッとした。

 魔法が、使えなくなっている。

「…………」

 喉の奥で小さく上がる呻きを押し殺し、掌と指先で、形と位置を確認しながら、慎重に扉を開ける。

 そして、体を内側に滑り込ませて、後ろ手に鍵を閉めた。

「…………」

 静かな、自室。何の音も、気配もない。当然、刺すような怒気の嵐も。……そう思うと、急に意識が遠ざかるように頭がぼうっとし、レイニーはそのままずるずると、扉に背を預けたまま座り込んでしまった。

 俯いたまま、ぐったりと死んだように動かない。そのだらりと落ちた手首の端から、ぽたぽたと、血が溢れては床に滴る音だけが、夜の闇にこだましていた。

 それを拭う気力すらないまま、暫しの間、半ば気を失っていた。


「歌って、レイニー」

 魔王はそう告げた。もう何度目かもわからない。

 彼はレイニーの手首を強く掴んだまま、心地よさそうに目を細めていた。

「過去も今も目に入らぬ程に、恋に恋した恋人達は――」

 あまりにも長く歌い続けて、喉は張り裂けんばかりだった。息を整える暇すら与えられないまま、空気を震わせる一個の楽器となって、意思と苦痛を押し殺し、腹と胸を律動させた。

 集中しろ。集中しろ。と、自分自身に言い聞かせる。

 魔王の命令は絶対で、彼の求めに応え続けることが、被造物たる悪魔の役目なのだから。例え、それがどれだけ理不尽でも。

「痛い?」

 レイニーは、首を横に振る。その対応に満足しながら、魔王は表情を変えないまま、手首に爪を食い込ませていく。

「悲しい、寂しいと泣き暮らし――ッ!」

 一瞬、音が外れた。しかし、すぐに意識を歌へ戻す。

 自分が作り、喜びを込めて歌った歌。それは既に、自分の中に馴染んでいる。だから、どんな風にでも、歌える。例え、魔王が自身と悪魔との力量差故の事故を防ぐ為の『セーフティ』である防護手袋を外し、素手で腕を掴むことで、レイニーの魔力を根こそぎ奪っている最中であっても。それ故に体の再生も回復も追いつかず、負荷が全身に襲いかかっていたとしても。

「憐れに思った天帝は、ただ一日を許しの日とし――」

 魔王は、戯れに爪を深く刺したり、腕の骨を軋ませたりする。

 それは彼にとって、ほんの少しの手遊びの類い。掌の中の人形の、腕を上げさせたり、捻ったりする程度の、ちょっとした意地悪。

「星の川を渡る、カササギの、は、ね、……の、おと……」

 レイニーの膝から不意に力が抜け、魔王に掴まれている腕以外の全身が、カクンと床に崩れ落ちた。それこそ、糸の切れた人形のように。

「あれ? レイニー?」

 魔王は相変わらず、微笑んでいる。彼が持ち上げた手首から流れる血が、上腕から肩へ、ぽたぽたと流れ落ちてくる。

「まだ終わりじゃないよ」

 立って。そう、針のような声が耳を刺した。


「…………」

 はっ、と意識を取り戻す。どうやら少しの間、眠ってしまっていたらしい。

 レイニーはせめてベッドに行こうと、ずるずると体を這いずらせた。

 ……ふと、その鼻先に、柔らかな香りが触れる。

「あ……」

 そうだ、と思い当たる。あの雨の日に買った、不思議な香炉。……夜にはより強く香るのだろうか。

 乾いてはいるけれど、澄んでいて。どこか物悲しいけれど、奥行きがある。形容しがたいその香りは、レイニーの心を落ち着かせた。

 ソファに座り、香炉を前にして、その香り立つ暗闇に身を委ねる。

「……ふー……」

 掠れた溜息を吐いた後、深く息を吸い込んで、天井近くに顔を向ける。そして、僅かに回復した魔力の雫を指先に込めて、傷付いた手首を癒やした。

 そのまま、体を横たえて、胎児のように胸を抱いたまま、レイニーの意識は闇の底に落ちた。


(続く……)

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