Day09 肯定
白い石畳の上を叩く靴の音が、止まった。魔王はそのまま黙って頭をもたげ、天井近くを凝視した。
「……レイニーが、歌っているね」
背後に立っていたクリアネスは、はぁ、と短く答えた。魔王の背中から、彼の感情は読み取れなかった。
上階の部屋で歌っているのだろう。談話室からだろうか。窓は開け放して、風と共に歌声を響かせているのだろうか。ともあれ、あまり目立つようなものではない。伸びやかに、明るいワルツのような音程が、小さく空気を揺らしているだけだ。その美しい歌にくすぐられて、クリアネスの指先が、無意識にリズムを刻むように軽く動いた。
「――少し、用事が出来た」
しかし、魔王の声を聞いて、クリアネスの指はビクッと固まった。顔を上げた時には、既に魔王はそこにはいなかった。既に階段に脚を掛けて、ゆっくりと、薄闇の方へと登っていった。
「は……承知、致しました」
背中に向けて敬礼した瞬間、クリアネスの止まった息が、ハァッと吐き出されると共に、冷や汗がドッと溢れ出た。
……ひどく冷たい、怒気だった。殺気にすら近い鋭いものが、足元を霧のように包んでいた。しかし、魔王の怒りの理由が、クリアネスには不可解だった。
魔王が立ち去り、ようやく緩やかな呼吸ができるようになった。
歌は止んで、城館は不気味な程に静まりかえっていた。
「レイニー」
談話室には扉がなく、自由に出入りが出来るようになっていた。魔王がその部屋に訪れた時も、軽い足音が響くだけで、特に変わった動きはなかった。
魔王の表情は、笑顔だった。穏やかといっても良い顔だった。
「ああ、魔王サマ。お帰りなさ~い」
クエスションが先に魔王の来訪に気づいた。そして片手を上げ、笑いながら声を掛けた。レイニーも歌うことを止め、振り返り、魔王の温度が生まれた場所に向けて、丁寧に頭を下げた。
「魔王様。お帰りなさいま――」
発した声が空中に霧散した。
痛みよりも先に衝撃が走った。空気が破裂するような大きな音が響いたのに、それすら耳に入らなかった。ジンジンと肉に染み込む強い痛みを自覚して、ようやく、頬を張られたのだということに気がついた。
「レイニー。新しい歌を作ったのだね」
打たれた頬に震える指先を這わせたのは、殆ど無意識での行動だった。指先だけではなく、レイニーの爪先から髪の先までが、凍えたように震えていた。
「いい歌だ。素敵だったよ」
魔王の声は穏やかだった。表情にも、何の歪みもなかった。
「でもね。新たな歌を聴かせる相手は、まず、私でなくてはならないと。そうは思わないかい」
淡々としていた。レイニーは俯いたまま、ただ黙っていた。
「ねぇ、レイニー」
魔王の指先が、レイニーの顎を持ち上げ、顔を自分の方へと向けさせた。黒い手袋越しでも、彼の指先が冷え切っていることがわかった。レイニーの両腕が、捕縛されたかのように、ぶらんと肩の下に落ちた。
「――ま、魔王サマ!」
呆気に取られてそれを見ていたクエスションが、立ち上がった。そして、わなわなと震えながら、テーブルを拳で叩いた。まるで注意を自分に引きつけようとするかのように。
「俺がレイニーに歌ってって頼んだんだ。レイニーのせいじゃない。殴るなら俺にしたらどうだ!?」
魔王の表情に変化はない。視線さえ動かさない。まるで、何も聞こえていないかのように。クエスションはもう一度、声を張り上げようとした。
「――はい、魔王様」
その前に、レイニーの唇が動いた。血の気の引いた、青ざめた唇が、しかしはっきりと、肯定の言葉を紡いだ。
「その通りです、魔王様。申し訳ございませんでした……」
レイニーは目が見えない。両目にあてがわれた義眼は木製で、ただ、眼球の形を整えるだけのものにすぎない。レイニーは目の前の、質量を持つ闇の塊に向けて、そっと、金色の翼を伸ばした。
魔王はレイニーの顎から手を離して、その翼を抱き留めた。そして、自分の内に捕らえるように、強い力で背中に腕を回した。
「分かれば良いんだ」
そう呟いた魔王の口元に、酷薄な笑みが浮かんだ。
刃で斜めに裂いたような、傷のような笑みだった。
「じゃあ、改めて、私の部屋で聴かせておくれよ。お前の歌を」
はい――と頷き、魔王の腕の中で、レイニーはカナリアの姿に戻った。その小さなカナリアを掌の中に抱いたまま、魔王は部屋を後にしようとした。
「――魔王サマッ!!」
クエスションが叫んだ。無視され続けた怒りもあったが、この部屋に充満する、歪な不均等に我慢がならなかった。
魔王は振り返って、取り繕うわけでもなく、ひどく意地の悪い笑みを彼女に向けた。
「クエスション。お前が語ったのは、星の恋人達の物語だね。私もよく知っているよ――甘ったれた、都合の良い、青臭い連中の話だ」
嘲るような含み笑いは、誰に向けてのものだったのか。
クエスションが言葉を失っている間に、魔王はレイニーを連れたまま踵を返し、姿を消した。
(続く……)
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