Day08 こもれび

「お兄ちゃん、寝ちゃったの?」

 閉じていた瞼が即座に開いた。寝そべっていた胴体がバネのように跳ねた。

 声がしたからだ。忘れる筈のない声が。

 胸の中で何度となく呼び起こしていたのに、しかしやがて声の性質さえ忘れかけていた、あの優しい、転がる鈴の音のように愛しい声が。

「…………」

 飛び起きた兄の姿を見て、彼女は少しばかり驚いた顔をしていた。

 しかし、すぐにその表情は笑みに変わった。コロコロと、めまぐるしく彼女の感情は移り変わる。気まぐれに、花のように水面のように。

「お兄ちゃんったら、そんなに急いで起きなくてもいいのに」

 おかしいの。そう、口に手を当てて笑う彼女の顔の上に、木漏れ日が差し込んでいる。黄金色のコインの雨のように、サラサラと音を立てながら、風が吹くままに任せて。

「…………」

 何も言えないまま、ただ、彼女の黒髪が風を含んで、金色の木漏れ日の最中に揺れるのを見ていた。

 やがて彼女は、丘の下を行く誰かに気がついたのか、くるりと背中を向けて、大きく手を振った。

 そして、薄いサンダルのまま、駆け出した。

「アン――!」

 男は立ち上がり、腕を伸ばし、彼女の名を叫んで――


 ……そして、目を覚ました。

 伸ばした腕は、その形のまま天井を差していた。

「…………」

 眠っていて……夢を、見た。ロンは上体を起こし、不思議な感慨に耽った。

 不死者として生きるでもなく生きていたあの時代、ロンは眠ることも、夢を見ることもなかった。時折記憶の奥底から蘇るのは、かつて愛していたものの幻影と、それを無惨に奪われた底無しの恨みだけだった。怒りと恨みはそのようなサイクルを経て鮮度を保ち、彼の抱く復讐の焔に新たな薪をくべていた。

 しかし、先ほど見たものは。……瞼の裏に浮かぶほどに、鮮やかなキラキラとした木漏れ日は。

(何かを、美しいと感じたのは)

 ひどく、久しいことだ……と、ロンは思った。

 同時に、それらの光を浴びるアンの姿。それもまた、鮮やかな過去の投影だった。歪んだ法の支配する故郷から妹と共に逃げ出し、エペという聖人の庇護の元で過ごした、短いながらも確かに存在していた、光溢れる幸福な時間。

 脳も心臓も焼けたロンが、それでも捨てられなかった魂の記憶。……それでも、長い間、憎悪の底に置き去りにしていたものなのに。

(……あの光)

 ちら、とロンと煙のようなもので繋がった、背後の黒い小壺を見た。ロンの魂が封じられていた、その魔法具にかけられた呪縛を解いたのは、この部屋の家主であり、あろうことか香炉などと間違えて買ったという、間の抜けた男だった。

(あの光を浴びたせいか。まだ実体も持てない程に力は弱いというのに、頭は妙にハッキリしている。体を焼かれる痛みも……ない)

 彼は、いかにも優男といった見た目ではあったが、封印を解くために魔法を行使したその瞬間に噴出した魔力量と出力は、凄まじいものだった。教会の大司教や最上位の魔法使いであっても、並べるかは分からない程の力だった。

(人と鳥の姿を行き来していた。悪魔か精霊、と仮定しても、その能力の用途や社会構造は不明な点が多い。封じられ、その正体すら忘れられる程度には未来なのだろうが――)

 窓の外から、階下を見下ろす。

 白亜に輝く賑やかな城下町と……その向こう側に広がる、白い砂漠が目に入った。

(……ここは、どこだ?)

 ロンの胸に疑念が生じると共に、微かな『好奇心』のようなものが、静かに疼いた。


(続く……)

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