Day02 透明

「レイニー様! 雨、大丈夫でしたか?」

「はい、楽しいお散歩でしたよ」


「おや、何を大事に抱えてらっしゃいます? 今日のお夕食ですかね?」

「フフ、残念ながら食べ物ではないのです」


「ああ、レイニー様。お陰様で主人の調子も良くなってきて」

「よかった……何かあれば、またいつでも呼んでください。少しでもお力になれれば……」


「レイニーさま~~! こんばんは~~~!!」

「こんばんは。ゆっくりと、夜の康寧をお過しくださいね」


 レイニーが城下町を歩くと、何かと住民達に声をかけられる。

 城館に住まう上級悪魔達は、各々特別な能力を持つ。その中でもレイニーの持つ癒やしと解呪の力は、彼を医者のような立場にさせた。

 彼に、専門的な医学や薬学の知識はない。その代わりに、対象に触れることで魔術的に肉体を走査することで、痛みや病を訴える者のどこが悪く、どう治せば良いのか、ということを瞬時に理解することができた。そして、十分な治療をするに足るだけの、潤沢な魔力も彼の裡には存在していた。

 そのように一人一人に応対しなくても、レイニーが広場で歌を唄えば、その歌は癒やしの魔法の風となって、人々の間を駆け巡った。

 清らかに、穏やかに。特に誰に悩みを打ち明けるでもないような鈍い痛みや、子供が転んですりむいたような小さな怪我も、その歌は癒やしていく。全くの健康体である者も、ただ気持ちが落ち着き、安らいでいく。

 レイニーは、毎日のように街で歌う。散歩が好きだ、というのは、もちろん彼自身の趣味ではあるが、同時に大事な任務でもあった。

 ――この歌を求める誰かが、一人でもいるのならば……。

 レイニーは、自らの傷でさえ瞬時に治すことができる。声を張り上げ、何時間も歌い続けることで喉を痛めることはもちろんあったが、その血色の痛みを感じた次の瞬間には、自分の喉をさすって治してしまう。

 彼は、こうしてずっと歌い続けられる自分の能力を、魔王アッシュから与えられた天命だと信じている。

 カナリアは歌うもの。美しい声で、いつだって楽しそうに、望むままに。当然の、一つの理のように。





「ふぅ……もうすっかり、日が暮れてしまいましたね……」

 レイニーが城館に戻った頃には、既に天蓋は光のフィルターを取り払い、透き通った宇宙の色を覗かせていた。

 星々は陰りなく、透き通った白い輝きを見せている。光を知らぬレイニーは、ただ、肌に触れる光の温度の変化によって、それを知る。

 城館はひっそりとしていた。まだ、警備を担当しているクリアネスの分体達は方々で働いているだろうけれど、レイニーが自室に戻るまでの間は、誰ともすれ違うことはなかった。

「はぁ、はぁ……す、少しばかり、重たくなってしまいました……」

 レイニーの両腕には、骨董品店で買ったあの香炉の他にも、様々な品物が抱えられていた。今日の自信作だという温かいパン、是非お城のみんなでと渡された果物籠、良い香りだよと花束まで……レイニーは、魔法で扉を開けると、よろよろと部屋の中に飛び込んでいく。

「パンと果物は、明日の朝ご飯にしましょうか。クリアネスとクエスションも、喜んでくれるでしょう。お花は、今から活けて……ああ、本当に良い香り。夜の甘い香りがします……」

 一つ一つ、テーブルの上に取り分けながら、「新しい花瓶も、一緒に買っておけば良かったですね」と微笑みながら独りごちる。そうして、戸棚から白い花瓶を取り出し、花の茎の形や長さを確かめながら、丁寧に活ける。

「今度、エスが私の部屋に遊びに来ても、もう殺風景だなんて言わせませんよ」

 と、少しばかり得意げになってみる。

 友達が遊びに来た時、やっと、この花の色を教えてくれるだろう。レイニーには、それが楽しみだった。


「…………」

 レイニーは、そうしてようやく人心地ついた後、やっと、例の香炉に手を伸ばした。カサカサと、丁寧に油紙を解いていく。

 それは、黒い小さな壺の形をしていた。指先でなぞると、ザラザラとした梨の地のような表面に、知らない文様が刻まれていた。何度なぞっても、その意匠や文字の意味するところは分からない。

 レイニーは、指先を上部に向けた。丸い胴体のすぐ上は僅かにすぼまっていて、そこが蓋のような形になっているらしかった。

 指先に少し力を入れても、開かない。ずいぶん強力に癒着しているらしい。

 また、本来ならば香炉に存在する筈の、上部の穴のようなものも、どうやら空いていないらしい。

(それでも、確かに香りが……)

 そっと鼻先を香炉に近づけたレイニーは、ふと何かに気がついた。そして、彼はゆっくりとソファに座り、膝の上に香炉を置いた。

 そして、静かに深呼吸をした。レイニーの両手が、明るい金色に染まった。

 やがて光は羽毛となった。より本体に近い姿になったレイニーは、その翼で黒い香炉を包み込み、意識を集中させた。

(私に、強い腕力はないけれど)

 この香炉からは、魔法の匂いがした。……正確には、呪いに近いくらいに、強力で複雑な、封印の気配が。

(魔法を解く力ならば――!)

 眉を寄せ、意識を集中させる。スゥッと息を吸い込んで、呪文を唱える。呪文は全て歌となる。

「目覚めの光、温かく体を包むもの。絡められた鎖、一つ一つ外して。ここに時間は無く、ここに歴史は無い。どこでもない魂の終着点。ここで、あなたは――」

 詠唱は、目の前にある呪いの形に呼応して、殆ど自動的に頭に浮かぶもの。レイニーもまた、無意識にその言の葉を紡いでいた。

 だから、どうして無機物として認識しているその香炉に、あなた、と呼びかけてしまったのかは、本人でさえ分かっていなかった。

 カチッ……と、小さな音がした。

「!」

 蓋が、僅かに開いたようだった。金色の光が、まばゆく弾けて蓋の縁を丸く走った。レイニーは翼を仕舞い、再び香炉に触れる。

「…………」

 す、と小さく回すだけで、香炉は開いた。

 あの香りが、より強く漂った。

 夜の闇に沈んでいくような、冷たい香りだった。魂をそっと切り離し、鎮めるような……。

「…………」

 レイニーは、テーブルの上に香炉を置いて、しばらくその香りを鼻先に感じていた。

 よかった、と何故か彼は思った。たかだか香炉、といってしまえばそれまでなのに。次の日あたりに、他の誰かに頼んでも何の問題もない筈なのに。

 ――解けて、よかった。そう、彼は夢うつつに思って……そして、疲れからか、ソファに身を横たえるようにしながら、そのまま眠ってしまった。


 香炉の後ろに立つように、透明な何者かの影が佇んでいることに、気がつかないまま。


(終)

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